第74話 SSG
蝶のように舞い、蜂のように刺す。
日曜日に行われた早大と東大の第二戦。
土曜日と同じくまたも名勝負が繰り広げられるのかと思ったが、グダグダの勝負になった。
理由としてはまず、早大の先発である武史が、まるっきりやる気を失っていたからである。
東大側の応援席には、明日美の友人たちが大挙して駆けつけ、その中に恵美理も混ざっていたりする。
(あ、愛されてねえ)
両親の愛情をたっぷりもらって育った武史は、初めて出来た彼女が敵の応援をしているという事態に、完全にやる気を失っていた。
このあたり完全に、甘ったれた末っ子的な感覚である。
イリヤがいればとも思うが、彼女が来てもツインズの方を応援しそうである。救われない。
とは言っても腐っても甲子園優勝投手、そんなにポコポコ打たれるわけではない。
150kmを出して調子が悪いアピールをするが、そんなものをそうそう打てる選手はいない。
ただのストレートだけであれば別だが、武史はこれにチェンジアップとナックルカーブ、そしてムービングを持っているのだ。
だが、双子なら当ててくる。
しかし当てて、その打球が自分の足を直撃し、悶絶するところまでがお約束である。
武史は全く悪くないのであるが、そこから理不尽な怒りのパワーで強くなるのがツインズである。
樋口のリードは悪くないが、ツインズの怒りに触れた武史のボールは、腕が縮こまって甘いところに入る。
それを痛打されてクリーンヒット。
一回の裏、東大は先制のチャンスである。
MAXで151kmしか出ていない武史は、間違いなく調子が悪い。
調子が悪くて150オーバーというのがやはり化け物っぽいが、そのスピードなら打てる選手が今の東大にはいる。
二番打者の椿は、意外なことに送りバントをしてきた。
サードの北村が素早く処理して、ファーストに送球してそこはアウト。
だがこれで、得点圏にランナーが送れた。
うわあ……という表情をする武史である。
東大側スタンドからは黄色い大歓声が上がり、野太い男の声も上がる。
ピッチングの時は演奏禁止でアカペラだが、バッティングの時は演奏も込みでガチになる。
(なんかこの歌って、兄ちゃんがラスボスみたいな気がするんだけどなあ……)
可愛くて綺麗な、まだ手を握ったことぐらいしかない彼女が、自分以外の人間に声援を送っている。
あれは女だ。だから仕方ないんだ。
女子高の友情の六年間には、まだまだ敵わないということだ。
もっとも今、あの二人は恵美理の実家で一緒に暮らしているのだが。
(あああ! 野球部が意外と忙しくて、まだマトモにデートもしてないのに!)
こちらも一気に逆恨みでパワーアップする武史である。
その左腕から投じられるストレートは、ようやく160kmを叩き出した。
(大人気ないやる気だな)
自分のことを完全に棚に置いて、直史はそんなことを思う。
球速表示で球場は盛り上がっているが、明日美はこれをフルスイングで打ちにいった。
結果こそ空振りだったが、タイミングはそれほどずれていなかったと思う。
調子に乗って球速で押したら、おそらくは次は打たれる。
ほら。
入学以来最速の161kmは自己最速タイであったが、明日美はそれを打ち返した。
やや高く上がったが、まさかここまでは飛ばないだろうと、外野は前目に守備していた。
樋口まで相手を甘く見ていたのは意外だが、武史もそれに応えるボールを投げていたのだ。
センターの頭を越えて、当然だが桜はホームに帰ってくる。
武史はこれまで三試合で15イニングを投げていたが、失点したのは初めてであった。
初めてを女に奪われるというのは、字面にすると卑猥である。
セカンドベース上できゃほきゃほと明日美は喜び、それを応援する東大スタンドでは、恵美理が隣とハイタッチをしている。
……今、マウンドで崩れ落ちている男は君の彼氏なのだが。
哀れである。
そこから割とあっさり目に復活した武史は、しっかり後続を抑えた。
「ぐああああっ!」
だがベンチの中では頭を掻き毟り、どんどんどんと足踏みをしている。
「すまんタケ、俺が甘かった。お前は悪くない」
思わずフォローする樋口であるが、直史は事態が面白すぎて、笑いをこらえるのに必死である。
二回の表は早大も西郷からの強力打線だが、西郷はこの女子たちに、完全に合っていない。
へなちょこなスイングでベンチに戻ってきて、俯くだけである。
北村が打席に、樋口もその次なので満足なフォローがない。
直史が顔を覆う武史の隣に座って、さすがにここはフォローするのかという周囲の期待がかかる。
「武史、男には、これだけは勘弁して欲しいということが一つある。それは何か分かるか?」
迂遠な言い回しに、武史は兄の顔を見る。
「……女に負けること?」
「女に負けることなんて、この世界ではいくらでもあるだろう」
「なんだろ。女便所に入らないといけなくなること?」
「それは一部にはご褒美だな。答えは」
わざわざ間を置いて、直史は言った。
「女に彼女を寝取られることだ。お前、大丈夫か?」
「うわあああっ!」
絶叫する武史を見て、たまらずげらげらと邪悪に笑う直史である。
野球部の誰もが、直史がここまであからさまに笑うのは見たことがない。
実際のところ直史は、実は笑い上戸であるのだが。
寝取られることは確かにキツイが、それが女同士ならむしろご褒美では、と思う業の深い者もいたが、それは少数派である。
確かに自分の彼女が女に寝取られたらきつそうだな、とおおよそは同意するらしい。
可愛い弟を苛めるのはそこまでにしておいて、直史も対策は考える。
だが、その前に下手な罪悪感は消しておく必要がある。
「あの一点はお前の責任じゃないからな」
これは直史の本心でもある。
「フォアボールとホームラン以外は、ピッチャーには責任はない」
そのホームランにしても、ピッチャーだけの責任ではない。
ピッチャーだけの責任と言っていいのはフォアボールぐらいである。
「今日はお前もバッティングで返さないと、ずるずるいく可能性もあるからな」
武史は長打力においては、間違いなく直史よりも上だ。
そもそも白富東では、四番を打っていた試合も多かった。
今だってバッティングに専念させれば、チーム内ではかなりの上位になるであろう。
そんな兄弟の視線の先で、樋口がクリーンヒットを打っていた。
どうやら早々に、ノーヒットノーランの危険はなくなったらしい。
東大は確かにここまで勝ってきたが、全ての試合で一点以上は失点している。
ツインズにしろ明日美にしろ、球種はそれなりに厄介であるが、やはり球速の上限の問題がある。
六大学の中でも、五大学のレギュラーになるようなバッターは、それなりに打てるのだ。
それをなるだけ少なく抑えるのが守備なのだが、東大はおそらく打撃や投手力と比べると、守備力が一番他のチームとの差が少ない。
守備にスランプはないと言われるが、確かにシフトをしっかりと敷くなど、守備は頭を使うことが多い。
実際に野球部同士で学力勝負などをさせたら、一位になるのは間違いなく東大であろう。
たまたま相手のピッチャーが上手くピッチャーから打ったとしても、そこからの失点を最小限に抑えるのが、今の東大野球部である。
全敗で終わっても、全くおかしくないリーグ戦。
まさかの優勝の可能性が残っていれば、それは奮起するというものだ。
土曜日の試合で完全試合を食らって、やはり無理なのかと諦めかけた。
しかし次の日には、こうやって三連星が点を取ってくれる。
ならば自分たちに必要なのは、鉄壁の守備で失点を防ぐこと。
ほとんどの点を彼女たちに任せているのでは、男として情けなさ過ぎるというものだ。
そんな東大のヒョロガリ野球部(偏見)の奮起もあり、試合はスコアが動かずに経過していく。
このままであれば、勝てる。
そして月曜日の試合に勝てば、勝ち点一。
東大の初優勝が、現実味を帯びてくる。
ただ、東大の選手たちが必死で目を逸らそうとしている事実。
月曜日まで決着が延びれば、佐藤直史がまた投げてくるであろうということ。
土曜日の試合では明日美を敬遠しようとして驚いたが、結局最後まで一人のランナーも出さなかった。
あれは別格だ。六大学レベルではなく、プロですらそうそうはいないレベルだ。
マシーンなどとも呼ばれているが、とにかく全てのピッチングが神がかっていることは間違いない。
試合は、やや早稲谷が押している。
なにせ他の六人のバッターは、武史のボールにバットを当てることすら稀なのだ。
ツインズと明日美はそれなりに当てることもあるが、コンビネーションで上手く打ち取られている。
160kmはさすがにもう出ないが、150km台の半ばを安定して投げてくるのだ。
対する早稲谷は、時々ヒットが出る。
ただ投手交代をコロコロと行い、的を絞らせない。
どれだけの球種をあの双子は投げられるのかと思うが、ナックルだけは投げられないらしい。
そして明日美は、基本的にストレートとスプリットだけで、早稲谷の打線を抑えている。
変化球で手玉に取るというのは違う、不思議な組み立てだ。
だがストレートに伸びがあり、それと球速差があまりないスプリットが鋭く落ちれば、それだけで確かに打つのは難しい。
なんとかこのまま、と思ってはいたが、そうは問屋が卸さない。
七回の表、先頭の樋口が明日美の投げたスプリットを見切って、センター前に運ぶ。
ただそれでも、長打を狙うことはやはり難しい。
球威はあるし、球種も少ないのだが、軟投派と言っていいのだろうか。
あるいは、ボールになることは少ないが、荒れ球と言ってもいい。
その樋口が、盗塁をしかけてきた。
ツインズはそれなりにキャッチャーの技術も身につけているが、ピッチングやバッティングと比べると後回しにしている。
この盗塁で二塁に進んだ樋口を、次のバッターが送りバントで三塁へ進める。
女子相手に必死だと思うが、早稲谷も負けることだけは避けたいのだろう。
ワンナウト三塁で、絶好のチャンスである。
早稲谷は代打が出てくる。早稲谷の代打ともなれば、打撃力に能力を全部振ったような選手がいてもおかしくはない。
ただそれ以上に問題なのは、最近の早稲谷は安定して勝てることが多く、選手の情報が少ないことだ。
特にこの代打は二年で、去年のリーグ戦には出場していない。
こんな選手を相手に、誰が投げるのか。
明日美か、それとも双子のどちらかか。
ストレートとスプリットで押すのか、それとも多彩な変化球で翻弄するのか。
バッテリーの間で少し相談がされ、そのまま明日美がマウンドに残りそうだ。
なお東大のベンチは、投手交代に関して全くアテにされていない。
ただ伝令は出して、代打に関する情報は伝える。
甲子園常連の理知弁和歌山で、主砲であった畠山。
高校通算40本のホームランを打っていて、三大会に出場した甲子園では打率四割、ホームラン三本の記録を残している。
大介の記録に麻痺している人間には分からないが、プロからも注目されていた才能である。
「なるほど、じゃあ分かった」
キャッチャー桜は笑みを浮かべる。笑っていたら確かに、芸能人らしくて可愛いのだが。
キャッチャーボックスに戻った桜は、理知弁和歌山というチームの特徴と、今のささやかなデータでこのバッターの料理法を考える。
理知弁和歌山は強打のチームであったはずだ。そしてそこで四番を打っていた。
ならば、ある程度パターンは絞れる。
明日美は基本的に、真ん中近辺にボールが集まるピッチャーだ。
そこから変に曲がっていくため、ジャストミートはされないのだ。
しかしこのバッターは、体格などから見ても、相当のスイングスピードはありそうだ。
コントロールと変化球を持つ、自分たちのうちのどちらかが投げたほうがいいのかもしれない。
だが明日美が投げると、それだけで勢いがつくのだ。
単なる技術とは違う、チーム自体を勝たせる、運命のような導き。
明日美にはそれがある。直史と同じように。
ブレ球が、内角に入る。
それをミートしたつもりの畠山だが、スタンドに飛び込むファール。
続くチェンジアップは、バットを止めてボールの宣告。
畠山はホームランバッターで、少し動く程度のムービングであれば、その変化ごとスタンドに運ぶ力がある。
初球と同じ程度の球であれば、今度は外野を越す。
そして同点にすれば、あとはもう負けない。
武史が封じてくれるし、いざとなれば直史がリリーフする。
引き分ければ明日も投げなければいけないが、あいつは15回をパーフェクトに抑えた翌日に、完封をしてしまうような人間なのだ。
同じ生き物と思ってはいけない。
だが、この女子ピッチャー。
ボールは確かに速いが、それ以上に伸びがある。
わずかに動いてくるが、これがフォーシームのバックスピンがかかればどうなるか。
ファールを打たされて、これでツーツー。
ボール球を使えるが、明日美はチェンジアップを投げるとき以外、基本的にボール球を投げられない。
三塁にランナーがいる状況で、振りかぶって投げる。
さすがにホームスチールなどしようとはしない樋口である。
右手から投げられたボール。
(真ん中!)
ど真ん中と見たボールであるが、それがぐんとホップした。
ジャストミート出来たはずのボールは、バットにかすりもせずにキャッチャーのミットへ。
三振を奪った明日美がガッツポーズをして、球場が一気に盛り上がる。
グラウンドも、その外の空気も、東大の勝利を望んでいるかのよう。
しかしラストバッターは、空気を読まない男なのだ。
佐藤武史が、代打も出されずそのままバッターボックスに入った。
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