第73話 美少女と魔王
日本一のピッチャーは間違いなく上杉であるが、じゃあ二番目は誰だろう。
そういった時には色々と名前が出てくるものであるが、比べていない化け物がいれば、ひょっとしたらあいつではと思われるものである。
暫定日本二位のピッチャー。
それが佐藤直史である。
世界一の女子野球選手は誰だろう。
アメリカあたりにいそうだって? うん、君がそう思うのは不思議じゃないな。でも違うさ。
そう、世界一の女子野球選手は、日本人の権藤明日美なんだ。これは彼女と対戦した女子野球チームが全員認めてるから、まず間違いないと思うよ。
ではこんな二人が対決したら、どちらが優るのか。
たとえば単純に陸上競技であれば、男子の日本記録は軽く女子の世界記録を上回る。
先ほどの勝負では佐藤直史が運良く一点を奪った。
天運は魔王に傾いたかに思われた。
この四回の表、魔王は自らの妹たちを血祭りに上げ、最後に残った麗しい少女に対する。
聖剣代わりに白木のバットを持った少女は、それを魔王に振りかざす。
魔王は冷笑を浮かべることすらせず、邪悪な賢者の企みにかすかに頷いた。
その肉体はゆったりと動き、その場からわずかな動作で、人を殺すことさえ可能な白い光を放つ。
少女は邪気を払うかのように腕を動かし、曲がる光から身をかわした。
(なんか思考がおかしくなってるな)
直史はポコポコと自分の頭を叩いて、返球をキャッチする。
とりあえず一球目、明日美は変化球への対応がイマイチだということが分かった。
ただ彼女は、変化球が全く打てないわけでもない。
(とりあえずあの二人と同じチームなわけだから、スルー対策はばっちりのはずだよな)
樋口はそう思い、原則スルーは使わない組み立てを考える。
二球目。外角の高め。
そこから落ちながら曲がる球。
高速シンカーに対して、明日美はバットを振るが、それは空を切るだけであった。
ただボールをキャッチした樋口は思う。
(ミートされたらスタンドにまで届くな)
全身を使いながらも、動作はコンパクト。
女子選手の身長の低さゆえか、他に参考になるようなバッターが思い浮かばない。
とりあえず追い込みはしたのだ。
だが下手に外しても、第一打席のように打ってくる可能性はある。
逆にボール球を振らせるという手段もある。
カーブとシンカーを使ったので、次はスライダーで外に逃げるボール球で三振を取りたい。
だがそのサインに直史は首を振った。
(ある程度の変化量は必要だとして、スプリットか?)
それならバットに当てられても、ゴロにすることが出来ると思うが。
しかし直史はまたも首を振る。
ここで使いたい球種は、直史は決めている。
すっとサインを出す。樋口はわずかな逡巡の後に頷いた。
(こういうことか。でも間違っても当てるなよ)
このボールは直史自身が、スルーほどではないがまだコントロールが甘いと言っていたのだ。
ただ直史のコントロールの基準は、普通とは違う。
投げられたボールは、明日美の体に当たる軌道。
ナックルカーブだ。速度と変化量を増した、ツインズにも出来るだけ知られていない、直史のあまり使わない球。
明日美はわずかに腰を引いたが、その視線はボールから離れない。
(やば)
振り切ったバットはボールをジャストミートして、レフト方向に運ぶ。
ふう、と直史は息を吐いた。
金属バットならホームランだったかもしれない。
長い距離を追いかけたレフトはファールグラウンドで、そのボールをキャッチした。
フェンス際。あとほんのわずかなミートポイントの違いで、フェンスギリギリのホームランになっていたかもしれない。
(神宮は狭いんだよな)
ともあれこれで、明日美の二打席目も終わらせることが出来た。
樋口には理解出来ない。
彼はセンスはあるが、基本的には一度は見た球でないと、対処出来ないタイプの人間だ。
直史のあのナックルカーブは、バッターから見たら体を直撃するコースか、下手をすれば背中から出てくるボールに見えていたはずだ。
センスとか経験とか、そういうレベルの話ではない。
ほとんど異能と言ってもいいぐらいのものではないのか。
あとほんの少し懐に呼び込んでから打っていたら、ホームランだった。
ベンチに戻ってきたが、直史は平然としている。だが球種を要求した樋口は考えなければいけない。
「なんであれが打てたんだと思う?」
「天才か、読んでいたか、ただの勘か」
「そういうレベルじゃないと思うんだが……」
ただこれで、あと一打席を抑えればいい。
最終回まで、ランナーは出さない。
四回の裏は二番から始まる早大の攻撃であったが、早くもツーアウト。
西郷も左のオーバースローの一球目に、左のアンダースローで二球目でファールを打たされて追い込まれる。
そしてここでピッチャーとキャッチャーが替わり、同じツインズでありながら、今度は右から投げる。
ナックルカーブを打ち損じ、センターの深いところまで運んだがアウトになった。
ピッチャーの投げる腕は、打席の途中で変えることは出来ない。
だがピッチャーとキャッチャーが入れ替わってしまえば、それも可能になる。
ルールには全く抵触していない。普通の野球においても、打席の途中で右から左、あるいはその逆というピッチャーの交代はあるからだ。
しかし双子のフォームと球種を考えれば、狙い打ちも読みきって打つのも、ほぼ不可能である。
何試合もデータを集め、対戦の経験も増えていけば、小手先の技と感じて打てるのかもしれない。
実際に明日の第二戦までには、何か攻略法を考えなければいけない。
だがとにかくこの試合は勝てる。
直史が一点を取り、その一点を守る。
東大の打線であれば、直史からヒットを打つことは難しい。
ツインズであれば当てることは出来るかもしれないが、ヒットにまではしにくいだろう。
三人出なければ、明日美の第四打席はない。
そう考えればどうにかなりそうである。
それにしてもMAX130kmの球速で、これだけ抑えられてしまうとは思っていなかった早大打線である。
試合には一点差で勝っているが、多彩な変化球によるコンビネーションが、徹底されればこれほど厄介なものだとは思わなかった。
直史もバッピで散々に変化球を披露しているが、左からも同じように投げられるというのは、本当に反則である。
それに明日美の方も分かってきた。
基本的に彼女は、全力で投げる球しか持っていない。
それをスプリットの握りで投げればスプリットに、適当な握りで投げればムービング系に、フォーシームの握りで投げれば、スピン軸の真っ直ぐなストレートになる。
そして安定していないフォームが、フォーシームとスプリットの時は安定する。
つまいフォーシームかスプリットと、それ以外のムービング系のブレ球は、投げる時のフォームで判別出来る。
そしてフォームが綺麗に投げる時の球の、球速差で球種が判別出来るのだ。
分かっていても打てるとは限らない。
直史は器用な人間だが、さすがにフォームまでデタラメにして投げれば、自分の本来のフォームが失われてしまう。
トルネードとサイドとアンダーの違いは、フォームが逆に極端に違うからこそ出来るのだ。
試合は続いていくが、東大は三人の継投を上手く使って、特にひどい時は打席の途中で交代して左右のフォームを使い、早大の打線を翻弄してくる。
だが五回の裏、ワンナウトからバッターボックスには六番の樋口。
現在マウンドに登っているのは桜であるが、樋口を上手く打ち取ることが出来るのか。
樋口は普段も高いアベレージは残しているが、ここぞという時には長打を狙って打つクラッチヒッターだ。
読みで打つ樋口は、球種の多いツインズとは、相性が悪いように思える。
だが逆に打つべき打球のイメージがあれば、反応してそのボールを打つことが出来る。
厄介な相手だと樋口は思うが、東大戦を制すれば、もっと言うならこの試合さえ勝てば、今季のリーグ戦も早稲谷は優勝出来るだろう。
去年の秋は明らかに選手起用の失敗だったなと樋口は思っているが、それを口にしたりはしない。
采配批判というのは、百害あって一利なしなのである。
ただ高校時代は自分たちで全て考えていたことを、大学では監督やコーチがやっていて、その頓珍漢さに鬱陶しくなることはある。
佐藤姉妹の攻略法については、ベンチは何も考えられていない。
投げてくれるボールはほぼ全て変化球で、その球種の割合はかなり散らばっている。
そして右で投げて左で投げて、上からも下からも投げてくるので、読むのはほぼ不可能なのだ。
樋口としてのフォームのクセなどを見抜いたわけではないが、状況から投げてくるボールは予測出来る。
樋口は自分のスイングスピードと相手の球速から、どうすればホームランになるかはだいたい分かる。
ヒットで出てもどうせ後ろの人間は打てないだろうから、ここは狙っていくしかないのだ。
ホームラン以外は無意味というのは、かなりクソゲーだとは思うが、前提条件がそうなっているのなら仕方がない。
バッターとして見た場合、佐藤姉妹の弱点は、いくつか普通に分かる。
それほどではない球速、変化球の変化量も兄とは比べ物にならない。また身長や手足の長さから、兄ほどの角度がつけられない。
樋口に対して右手から投げてくるというのは、おそらく途中でピッチャー交代で左で投げる戦法を使うのだろう。
もし投げられたら一番厄介なのは、左のアンダーかサイドから投げてくるシンカーだ。
逃げながら沈むあの球は、ボール球でも審判が誤審しかけない。
狙うべき球は決まっている。
初球の外に逃げていくスライダーは、ストライクと取られても仕方ないが、ボールとコールされた。
樋口は見ていて思ったのだが、この二人はキャッチャーとして、単純なキャッチングの技術には優れているが、フレーミングはあまり考えていない。
ミットの真ん中ではなく端で捕ったり、外角から被せて捕ることで、ストライクゾーンを広げる技術。
直史が言うには、キャッチャーをやってもらう時には、普通に捕ってもらえば充分だったので、その技術が育ってないのだ。
いくら天才であろうと、人間は人間。
攻略方法はいくらでもある。
二球目はアンダースローから、シンカーを投げてくる。
このボールの軌道。樋口の注文に合うものだ。
真ん中目からインローに沈んでくる球。
内角のストライクゾーンに入る。これは左打者には難しいだろうが、右打者なら当てるだけならそれほど難しくはない。
難しいのは内角の中でもバットの根元になるので、長打にすることだ。
だが樋口のスイングは、こういったボールも想定して何度も振られている。
(ばっち)
ゴルフスイング気味だが、しっかりと捉えた打球。
レフト方向へ飛んで行く球を、明日美は追いかける。
だが無意味だ。スタンドの中にまでは、さすがに追いつかない。
ソロホームランで2-0と点差が広がる。
樋口は小さくガッツポーズをしながらベースを一周。
(まあ難しい相手だったが、これで勝っただろ)
今季のリーグ東大は、二点以上を失点するのは初めてであった。
この試合もまた、佐藤と樋口のコンビに全てを任せるのか。
点差が広がった後も、東大のピッチングは変わらない。
マウンドに登った明日美が、三振と内野ゴロの山を築く。
ツインズはやや意気消沈したらしい。
生まれてから今まで、圧倒的に勝ってきたことばかりの二人は、逆境から逆転した経験が少ない。
強すぎたために逆境に陥らず、それを打破する手段を知らない。
直史もこうなって、ようやく気付いた二人の弱点だ。
何がなんでも塁に出て、明日美の打席に回せば逆転の可能性はあった。
だが七回の表、ツーアウトで明日美の打席が回ってきた時点で、ほぼ勝負は決まったと言っていいだろう。
もっともここで打たれると最終回の表にまた、佐藤家の双子に打席が回ってくるのだが。
直史としてもここで、完全に逆転の可能性を封じておきたい。
何種類かのカーブとシンカーをボールゾーンに投げてカウントを整え、速いタイプのスライダーを使う。
それを明日美はファールで凌ぐが、これで準備は整った。
八球目は、本日彼女に投げる、最速のストレート。
タイミングは完全に合っていたが、高さを見誤っていた。
三振でスリーアウトになる。
そこからは消化試合のようなものであった。
早稲谷も二本のヒットを追加で打ったが、それが追加点にはつながらない。
そして直史も東大の普通の打線陣は、完全に抑える。
消化試合でも油断はしない。
なぜならどれだけ士気が落ちていても、あの妹たちに打席が回るのはまずいからだ。
最初の打席で、明日美がフォアボールを選ばなくてよかった。
おかげでこうして、淡々とアウトを取ることに集中出来る。
九回の表、東大は七番からの下位打線。
代打攻勢をしてくるが、スルーを解禁して変化球で空振りを奪う。
最後はサードフライでスリーアウト。
27人でゲームセット。またも完全試合である。
疲れたな、と直史は思った。
まさか妹たちが、ここまで成長しているとは。
それに明日美の能力も、想像以上だった。
整列して挨拶をするが、上目遣いに直史を見るツインズである。
明日美の方はあっさりと、握手などを求めてきたのだが。
「疲れた試合だったよ」
直史の言葉は嘘ではない。
「甲子園とどっちが疲れた?」
「決勝の再試合の方が疲れたけど、15回投げたときよりは疲れた」
三人並んだ打線は、綱渡りのようにも感じたものだ。
ツインズは笑うと、手を振って去っていく。
確かに大学に入ってから、これほど疲れた試合はなかった。
打者27人。137球で16奪三振。
数字を見れば圧勝なのであろうが、直史の心情としては苦戦で間違いない。
「風呂入って寝てえ」
「明日の試合をどうするかだな」
「それもあったか」
さすがにこの球数を投げて、明日も投げる気にはなれない直史である。
辺見がどう判断するかは分からないが、明日は負けて月曜日の第三戦を覚悟しておいた方がいいだろう。
かくして東大の快進撃はストップした。
だが春のリーグ、全てが終わったわけではない。
戦いの余韻を感じる余裕もなく、翌日もまた試合が行われる。
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