第72話 勝負欲
三回の表の投球をあっさりと終わらせ、三回の裏。
ここでまたピッチャー交代で、椿がマウンドに登る。
そしてキャッチャーは桜が務めるわけだが、髪型で区別などしていない二人は、背番号で見分けるしかない。
「ピッチャー替えすぎだろ」
「そうでもしないと打たれるんだろうな」
樋口と直史は冷静に会話をしているし、武史もこれはいつものことだし他に気がかりなことがあるので、特に反応しない。
だがコロコロと変わるピッチャーに、早稲谷の下位打線は通用せずにツーアウト。
そしてラストバッターの直史である。
直史はピッチャーであるが、アベレージは残す。
ただ読みと技術で打っているので、長打にはなりにくい。
完全に一つに絞れば全力で打てるのかもしれないが、ツインズが直史のピッチングをコピーし続ける限りそれは不可能である。
ここまで双方無安打の中、打席に入る。
そしてちらりとキャッチャーの桜を見てから、椿に集中する。
兄のこの視線が怖い。
一応は武史も兄なのだが、二人にとっては先に生まれていた弟のような感覚である
だから兄とはこの世でただ一人であり、そしてとても敵わない存在なのだ。
勉強とかスポーツとか喧嘩でもなく。
ただひたすら、目上の存在。
(うう、やっぱりダメだあ)
タイムを取って、ピッチャーの交代を頼む。
ピッチャー、佐藤椿に替わって、権藤明日美。
先ほどは直史が逃げた勝負だが、今度は逃げられない。
「ごめんね、やっぱり無理みたい」
「大丈夫。ま~かせて」
どんと胸を叩く明日美にボールを渡す。
替わるのか、と少し直史は不思議に思った。
妹たちが、自分との勝負にこだわっていると思っていたからだ。
あるいは単に、明日美と野球がしてみたかっただけなのか。
ならば、それほど警戒する必要はなかったのかもしれない。
そしてマウンドに立つ美少女。
権藤明日美。西郷も樋口も打てず、ただ打てないと言う少女。
直史は打てる。
なぜならば彼は、正しい意味でのフェミニストだからだ。
直史は出ていなかったが、白富東は聖ミカエルに明日美がいた時に練習試合をしている。
そして負けた。当時日本最強とも思われたチームが。
雨天コールドなどという面もあったが、それだけで全国制覇級のチームに勝てるわけがない。
純粋に明日美が打ったからだ。
直史はホームランを打ったことがない。
高校に入る以前から、中学軟式でも打ったことがない。
もちろんパワーが違うというのもあるが、ホームランを意識してきたことがなかった。
だからここでも打てないだろう。
ただこの試合は表面に見える数字や作戦だけでは、勝敗が決まらない気がする。
マウンド上の明日美を見る。
(なるほど)
確かに威圧感……いや、これはなんだろう。
ちょっと例えが出てこないが、これが打てなかった理由か。
だがこれについては、練習試合では白富東の誰も言及していなかった気がする。
それに高校時代の明日美は、エラーが重なったりはしたものの、点を取られて負けている。
権藤明日美の弱点は、体力である。
もちろんツインズと並んでいくらでも踊れるところなど、普通ならば体力オバケと言っていいレベルだ。
だが明日美のピッチングは、おそらくかけているコストが高すぎる。
直史にははっきり分かるし、樋口も言及していたのだが、明日美のフォームのメカニックは一球ごとにバラバラなのだ。
体軸の維持のために、普通のピッチャーが投げるよりも、よりエネルギーを消費する。
実は彼女は、肉体的素質から出せる球速限界を、ほぼ100%まで高めている。
これはMLBなどのピッチャーでも90%に達しないというもので、だからこそあの体格で140kmが出せているというのはある。
このフォームがバラバラだということは、そのままコントロールが不完全なことにつながる。
だから基本的に明日美は、ど真ん中を投げてボールを散らしていくしかない。
そしてあとは、スプリットだ。
自分のピッチングを何度も繰り返し見てきた直史は、その副次的な産物として、相手のピッチャーが何を投げるのか、ほんのわずかなフォームの違いで判別出来る。
同じフォームから球種を変えるのはピッチングの基本であるが、本当に同じなことなどはない。
そのわずかな違いを見抜くことを、直史は自分のピッチングを見続けることで見抜いてきた。
足を上げる。その時点でバランスが少しおかしい。
だが強力な体幹でそれを調整し、ボールを投げてくる。
手元でぶれた球を、そのまま見送る。
映像では確認できなかったが、やはりそうか。
二球目のこちらは、どちらかだ。
スプリット。落差は小さく、打たせて取るタイプだ。
(あんまりスプリットは多用しない方がいいんじゃないか?)
元々それなりに負担のある球種であるが、明日美のスプリットは小さく変化するものと、大きく変化するものの速度差があまりない。
わずかな速度差から、変化を見極めないといけないのだから大変である。
さて、形の上では二球で追い込まれたこととなる。
だが、ムービング系のボールと、そうでないボールの区別はついた。
投球フォームのわずかな違いで、フォーシームにスプリットのどちらかか、ムービング系かの区別はつく。
三球目以降はムービングをカットしていって、どちらかを狙い打つ。
桜のサインに、明日美は頷く。
元々自分で配球の組み立てなどは出来ないのだ。キャッチャーを信じて投げるしかない。
だが桜は組み立ての頭脳には優れているが、恵美理のような直感でリードが出来るタイプではない。
(その気迫、ストレートだと言ってるようなもんだぞ)
投じられたのは、二球目と同じリリース位置だが、明らかに球速が違う。
ストレートにタイミングを合わせて、直史は振り切る。
わずかに芯を外したが、打球はレフトで飛んで行く。
レフトの守備は椿だ。下手をすれば捕られる。
直史は打球の方向を見ずに、グラウンドを駆ける。
ツインズは、各種能力が壊れてはいるが人間である。
だから50mを五秒フラットで走れはしないし、陸上系種目ではたいがい、本職の一流には負ける。
このレフトを越えるフライ。椿は足を大きく前後に開いてジャンプ。
グラブの先にかろうじてボールは当たったが、そのまま落ちていくのか。
「へいやっ」
椿は着地した足を無理矢理にステップさせ、まだ空中にあるボールを追う。
そのグラブからボールは……こぼれた。
さすがの椿もそこで転倒し、カバーのセンターとは逆方向にボールは転がっていく。
倒れた椿もすぐに立ち上がってボールを探すが、運悪くころころと転がっていってしまう。
まさに、運だ。
三塁コーチャーがぐるぐると腕を回すので、直史は三塁も蹴る。
そしてツインズは、遠投の能力はそこまで優れていない。
ショートが中継し、キャッチャーへ。
直史はわずかに外を回り、左手でホームベースにタッチする。
キャッチャーの追いタッチは間に合わなかった。
審判は大きくセーフに両手を広げる。
ランニングホームラン。直史は立ち上がると、大きく息を吐いた。
もしも椿が、あと5cm手を伸ばせれば。
あるいは逆に見切ってしまって、普通の長打として処理をしていれば。
この一点は入らなかった。
ベンチに戻ると一応チームメイトはハイタッチを求めてくるのだが、直史は信念に従って左手だけでハイタッチをする。
下手に右手で勢いよくしてしまうと、わずかに痺れてピッチングに影響が出るので。
樋口はすっと右手を出してきた。
がっちり握手をするバッテリーである。
「驚いたな」
「俺も驚いた。なんであんなに返球が遅れたんだ?」
走るのに全力であった直史は、走塁の判断は全て三塁コーチャーに任せていたのだ。
「ぎりぎりグラブで取れると思ったら、こぼして変な方向に転がっていったんだ。運だな」
「運か」
野球は偶然性の高いスポーツだと言われる。
ジャストミートしても外野や内野の正面に飛ぶこともあるし、ヘロヘロのフライでお見合いが生まれたりする。
つまり運命が直史に味方した。
「ほれ、水分補給しろ。で、次の回はどうする?」
直史のこれまでの方針であれば、もう一点取るまで明日美とは勝負しないことになる。
「状況によるが勝負しよう」
あっさりと前言を翻す、我儘なエース様である。
「別に俺も、凄いバッターと戦うのが嫌いなわけじゃないんだ。負けない状況なら」
「我儘なやつだな」
そう言った樋口であるが、唇の端には笑みが浮かんでいた。
「ごめん」
ここは素直に謝る椿である。
「いや、仕方がないって」
「そうそう、俺らだったら普通に追いつかないし」
「そうそう、チャレンジした結果だから」
男共がそう慰める中、片割れの桜は難しい顔をしていた。
「お兄ちゃんへの対抗心が強すぎたよね」
「うん」
ツインズは責めるでもなく、お互いの失敗を分析する。
ツーアウトだったのだ。素直に打球を処理していれば、ツーベースまでで抑えられた。
扱いがエラーではなくヒットとなっているが、ヒットの後の打球処理はミスであった。
難しいことになった。
だがこれで、兄は明日美とも勝負してくれるかもしれない。
もちろん万全を期すならば、ここでも明日美は敬遠だろうが。
先にツインズのどちらかが塁に出たら、やはり敬遠されそうな気はする。
四回の表は、先頭打者の桜から。
ちなみにこの一番と二番の決め方は、能力ではなく五十音順である。
(打つぞ~)
小さい頃から面倒をかけてきた妹が、こんなに立派になって。
やや涙ぐむ直史であるが、全く手加減はない。
完全にボール球になるスルーを見せつつ、ストレートとカーブのコンビネーションで三振。
実に八球も球数を使わされた。
直史はおおよそのバッターを五球以内にアウトにするので、それだけ妹たちを認めて警戒しているということである。
それに前にランナーがいれば、明日美と対決することは出来ない。
そして次の椿。先ほどのミスを穴埋めしようと、わずかに力が入っている。
ツインズはその能力の高さゆえに、大概のことは力押しでなんとかなってしまう。
だから自分のメンタルをコントロールすることは、案外苦手なのである。
(こいつらも人間なんだったな)
芸能界入りあたりから、またちょっと疑っていたことだが、桜と椿は間違いなく、同じ両親から生まれた双子の妹である。
各種スペックが人間の上限に近い。これが男の基礎体力を持っていたら、直史もどうしようもなかったかもしれない。
インハイのギリギリに投げて体を仰け反らせる。
そして次はアウトローではなくインローを攻めて、ファールボールを打たせる。
並行カウントからストレートを投げて、これもまたバックネットに突き刺さるファール。
しかし完全にタイミングは合っていた。追い詰めたが、やはり簡単にアウトにするのは難しい。
決め球をどうするか。
右打席に入ってくれているなら、変化量の大きいスライダーで、ボール球を振らせるのだが。
一応シンカーやシュートで利き腕側に変化する球は投げられるが、スライダーと違ってそこまでのスピードは乗せられないか、横への変化が足りなくなる。
大きく息を吸って、樋口のサイン通りに投げる。
(スライ――)
大きな変化球は斜めに落ちてきて、懐深くミットの中に収まる。
それを椿は空振りしていた。
ナックルカーブだ。今でもあまり意味がないので、あまり使わない球種だが。
これまでのリーグ戦、打率は三割ほどであるが、空振り三振はなく、打球が野手の正面ということが多かったツインズ。
それがここまで翻弄されるというのは、明日美にとっても驚きで新鮮だった。
(かっこいいなあ……)
明日美はものすごく同性にもモテるが、異性愛者である。
可愛い女の子が大好きではあるが、普通にかっこいい男の人も大好きだ。
明日美の好みは、ややファザコンが入っている。
スポーツマンであり、海外などにもいってバリバリ働き、そして休みには家族を連れて旅行に行く。
たくましい男が、明日美のタイプである。
直史はかなり違う。
かなり鍛えているその体も、ユニフォームを着れば細く見える細マッチョ。
髪も少し長めで、どちらかと言うとスポーツでも野球ではなく、サッカーやテニスをしているような外見だ。(偏見
それなのにこんなにかっこいい。
(恋人がいるんだもんなあ)
そのあたりを知っている明日美は大きく溜め息をついた後、長いバットを持って打席に入る。
そして樋口は立たない。
勝負である。
観衆たちもこの選択に、おおいに盛り上がる。
東大側応援団からは、大音量の楽器演奏。
そして明日美のための、帝国歌劇団。
対して早稲田側からも、すごく簡単に誰もが歌える、直史への応援歌。
そんな外野のことは完全にシャットアウトして、直史はマウンドから明日美を見つめる。
第一打席と同じような、謎のプレッシャー。
おそらく男女の性差を考えなければ、彼女のポテンシャルは上杉や大介並であるのだろう。
だが直史はフェミニスト。女だからと言って甘やかすことはない。
マウンドとバッターボックスの間で、視線が交錯し火花を散らす。
(いやいや、そんなわけはないし)
直史は右手で頭の上の空間を振って、馬鹿な妄想を消しておく。
明日美の打席で感じる、奇妙な圧迫感。
直史はどこでそれを感じたのかを思い出し、そして明日美の打席にその姿を見る。
日本のプロ野球におけるレジェンド。世界的に見ても唯一の、三度の三冠王を達成した選手。
あの偉大なバッターのフォームに、よく似ているのだ。
それを幻視してしまえば、それは投げづらくなるのも当然である。
明日美のフォームが似ているのは、偶然ではない。
「お父さ~ん、バッティングフォームって誰の真似したらいいの~?」と尋ねた時に、父が見せたのがこれなのである。
天才の真似をしても、凡人には意味のないことであるのだが、幸いと言うべきか明日美も天才であった。
ただ明日美は飛ばすことを主眼に置いているため、バットコントロールでテレビカメラのレンズを狙うなどといったことは出来ない。
早大VS東大。春のリーグ六週目。
四回の表、ツーアウトでバッター権藤明日美。
直史にとって過去最大の、負けられない勝負が始まる。
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