第71話 SSSS

 五月中旬。

 春のリーグ戦第六週。対東大戦。

 世間一般では単なる週末であろうが、日本中の野球ファンと、首都圏の大学野球関係者は、神宮に集まるか特別中継をテレビで見る。共にここまで勝ち点三を得ている、東大と早大。

 両チームのピッチャーのここまでの成績から見て、残りの一試合ずつはおそらく勝てる。

 つまりこの直接対決が、事実上の優勝決定戦と言えるだろう。


 先攻は東京大学。

 そして先頭打者は、佐藤桜である。


 マウンド上のピッチャーは、リーグ戦ここまで83イニング無失点の佐藤直史。

 無失点イニング記録を更新し、さらにそれを伸ばし続ける、今そこにいる伝説。

 そんな直史に対し、桜は満面の笑顔を浮かべている。

「さあ、ジェットストリームアタックを食らえ~」

「いや、それやったらダメなやつだろ」

 普通にツッコミを入れて、試合は始まった。




 東大の打順は、ひどく単純なものである。

 桜が一番、椿が二番、明日美が三番というものだ。

 なんでも東大三連星と呼ぶらしいが、ジェットストリームアタックでは踏み台にされるフラグであるだろう。

 その昔ファーストガンダムをテレビ版で見てから、劇場版を見て「こっちだけでいいじゃないか」とオタクの心を持たない直史は言ったものだ。

 だがとにかく東大は、最も得点力の高い三人を、初回の先頭から配置しているわけだ。


 初球から狙っていく。

 散々キャッチボールの相手も、投げる時のキャッチャーも、務めた時がある双子である。

 直史のボール自体には慣れているし、何よりタイミングや気配までも分かっている。

 打てるとしたら二人しかいないし、明日美でさえ確実に打てるとは限らない。


 兄が自分たちを侮ることはないと信じる二人である。

 まず桜は左打席に入り、なんちゃって振り子打法をする。

 直史ももちろん、妹たちを侮るつもりはない。

 プロのリーグ戦ならば別であるが、リーグ戦と言っても年に二回、それぞれに二度ずつしか対戦しない相手だ。

 本来ならばこのペースではピッチャー有利のはずだが、直史のことは一番よく分かっている二人である。


 初球はおそらく、ぎりぎり届かないところへカーブを外してくる。

 ブルペンでも双子を打席に立たせて投げていたこともあるだけに、それだけに変化球の威力は分かっている。

 直史の一番得意な変化球はカーブで、それを緩急や軌道を駆使して戦うのが、直史のピッチングスタイルである。

 だがこの初球は、ど真ん中のストレートであった。

 振り遅れて当たらない。観客席から呻き声が上がり、桜は球速表示を見る。


 150km。

 直史はトレーニングによって、ついに150kmの壁は突破していた。

 だが試合でも、投げるとしたら一球から数球で、ほとんどは見せ球に使ってしまう。

 だが初回の初球が、いきなりストレートを全力で投げてくるとは思わなかった。

 ストライク先行で入れたことにより、一気にピッチャー有利となる。


 二球目はシンカー。

 左打席からでは、逃げていって上手く打てないボールだ。

 引っ掛けた桜の球はサードゴロとなり、北村が安全に処理する。

 とりあえず、二球で先頭を切れた。




 二番の椿も左打席に入る。

 そしてその構えは、誰かさんに似ている。

「コピーかよ」

 思わず笑ってしまう直史だが、妹たちの瞬発力なら確かに打てるだろう。

 身長を10cm小さくした大介の構えであるが、甘く見るつもりはない直史である。


 よくスポーツでは、パワーとスピードなどと呼ばれることがあるが、野球においてはパワーというのは存在しない。

 エネルギー発生の方程式を考えれば分かることだ。速度と質量。それでエネルギーが発生する。

 平均的な身長のツインズであるが、体重は見た目よりもはるかに重い。

 そのほとんどは筋肉で、遠心力を上手く使って、ホームランさえ打ってくる。


 ここまでの試合で、明日美はともかくツインズはホームランを打っていない。

 だが、打てないわけではないはずだ。

 むしろここで打つために、隠していた疑惑さえある。

 初球は――。

 投げる瞬間、直史は椿が片足を上げるのを見た。

 そこから手首を返して、投げるはずのボールに違う変化を与える。


 チェンジアップ。椿は無理に打とうとはせず、それを空振りした。

 スルーのサインからチェンジアップに変えた直史であるが、樋口はワンバンのそのボールを捕ってくれた。

(完全に狙ってたな)

 あのスイングのタイミングは、スルーに合わせたものだ。

 投げる瞬間にボールを抜くようにして投げたため、幸いにも空振りさせることが出来た。


 次の明日美につなげるのではなく、自分の手だけで一点取ろうと思っていた。

 まあそれが、佐藤家のツインズであるのだ。

(全く油断出来ない) 

 樋口のサインに、直史は一度首を振った。

 するとわずかに樋口は考え、新しいサインをくれる。


 二球目はスルー、のチェンジアップ。

 椿は盛大に空振りし、打席の中で回転した。

 変わらないホームラン狙い。

 だがツーストライクからだと選択も変わってくるか。


 スルーを狙っている。

 攻略しておかないと、難しい球だということもあるのだろう。

(高めのストレートを振らせて三振に取ろう)

(それは甘い。最高でもヒットまでにしかならないボールがいい)

(ヒットまでに……)

 樋口はこれまでの打席を見てきて、ツインズが基本的に決め打ちしかしていないのが分かっている。

 だからスルーを狙うならストレートで三振が取れると思ったのだが、それでは甘いと直史が首を振る。


 樋口はまだ、ツインズを過小評価している。

 これなら打たれないだろうという球を投げても、その選択ではダメなのだ。

 かと言って、これなら絶対に打たれないだろうという選択もダメだ。

 それはむしろ、キャッチャーをする選手にとっては狙い打ちの対象になる。


 スプリット。

 スピードはあるが、スルーに比べると減速がある。

 これはバットに当てて、ピッチャーゴロ。

 なんとか二人は倒した。だが、次のバッターが問題である。




 東大側応援席から、大音量でサクラ大戦のOPが聞こえてくる。

 そして男の重低音と、女の高音が混ざり、完全に異次元の調和となって、直史に襲い掛かる。

「お願いしまっす」

 メットを取って審判に一礼し、明日美は右打席に入る。

 その笑顔に、一瞬見惚れてしまった自分に、驚くのが樋口である。

(こ、この女……)

 160cmちょっとの身長で、それも一見すると細身なのに、ホームランが打てる。

 そんな女が普通なはずはないのだが、樋口の受けた衝撃はそれとは全く違うものだった。


 試合を動かすパワーを感じる。

 対した直史も、普通に話した時とは違うプレッシャーを感じる。

「打つぞ~」

 打ち気満々でほっぺたをふくらましているが、直史はまず相手が女子だという事実を頭から追い払う。

 これはまずい。

 打たれる予感がする。いや、打たれる予感しかしない。

 樋口も似た予感を感じているのか、サインをやり取りする。


 ベンチに向かってサインを送るが、辺見はぶんぶんと首を振る。

 直史と樋口は目で通じ合って、同時に頷いた。

 樋口が立ち上がる。

 佐藤直史、大学野球人生史上、初めての敬遠であった。


 ブーイングが東大側スタンドからだけではなく、味方の早大スタンドからも湧き起こる。

 神宮を埋める大ブーイングの中、直史はボール球を三球続け――。

 そして四球目の外した球を、明日美は打ちにいった。


 体軸を中心とした、下半身の力に頼らないスイング。

 打球はファーストの頭を超えていったが――。

「アウトです!」

「アウッ!」

 主審はコールする。明日美の足が片方、完全に打席から出ていたからだ。

 反則打球という、非常に珍しいアウトで一回の表は三者凡退に終わった。




「佐藤……」

 さすがに辺見も怒っている。ベンチ判断を完全に無視したからだ。

 ただその後の明日美の打撃を見れば、判断はバッテリーの方が正しかったのかとも思える。

 そこまで完璧に外した打球を、足を一歩踏み出していたとはいえ、完全なヒット性の当たりに出来るか?


 ベンチに戻ってきた直史は、開口一番に言った。

「俺は敗戦投手になるのはご免なんで」

 その後ろで樋口もうむうむと頷いている。

「あれはなんなんだ?」

「分からん。俺もあんな人間初めて見た」

「人食いコアラとかいたらあんな感じかな?」

「いっかくウサギみたいなもんか?」


 直史も樋口もバッターとの勝負は、究極的にはベンチではなくグラウンド内の判断が優先されるべきだと思っている。

 特に今回は監督の指示に逆らって勝負したのではなく、監督の指示に逆らって逃げて成功だったのである。

 もっともこれを問題視してピッチャー交代なら、直史は別にそれで構わない。

「他の大学のエースは、勝負していったぞ」

「監督、俺はバッターをアウトにするよりも、試合に勝つことを優先するんですよ」

「まあ今さら敬遠一回ぐらいしたって、他のピッチャーが打たれまくってるからな」

 樋口は辺見の考えも分かるが、あの空気は身近で感じないと分からないだろう。


 樋口はキャッチャーとして、上杉勝也や大介を知っている。

 明日美があの時に発していたのは、それに優るとも劣らぬオーラであった。

 唯物論者の樋口でさえ、あれはまずいと分かるのだ。

「二点取ってくださいよ。そしたらランナー置かずに、打席で勝負しますよ」

 そう、ホームランを打たれても負けないという状況になるなら、直史だって勝負をしかける。

 

 既に六大学野球は、そして大学野球の男子は、完全に面目を失っている。

 これ以上点まで失っては、何も残らないというのが二人の考えだ。

「甘く見たら負けますよ。あの三人だけじゃなく、東大全体を」

 直史の言葉は予言になる。




 東大の先発ピッチャーは佐藤桜。

 姉か妹から知らないが、片割れである椿のミットに、コースを分けて変化球を投げ込んでいく。

 そしてオーバースローで投げた後に、アンダースローからも投げてくる。

 一番と二番が凡退し、そして三番は清河。

 ここで桜は両利き用のグラブを、右手にはめかえる。


 映像では見ていたが、実際に対すると驚くしかない清河である。

 完全なスイッチピッチャー。

 直史も左手からバッピ並の球は投げられるが、妹たちのそれは次元が違うという。

 左打者の清河に対しては、確かに左ピッチャーの方が相性はいい。


 そして変化球を曲げまくる。

 あまりの多彩さと、ほとんどサイン交換を感じさせないタイミングに、清河は上手く対応出来ない。

 最後の球は、コースの甘いストレートかと思った。

 減速せずに沈んでくるボール。

(ジャイロか)

 どうにかバットに当ててサードゴロに終わる清河である。




 二回の表の直史は、あっさりと東大を三人で終わらせた。

 甘く見るなと他の者に言っても、そんな当人はあっさりと他の選手を雑魚扱いである。

 そして二回の裏、早稲谷の攻撃は四番の西郷から。


 ここで東大の守備位置が変更される。

 レフトを守っていた明日美がマウンドに登り、桜と入れ替わる。

 これは少し意外であった。


 西郷は基本的に、ストレートに強いバッターなのだ。

 そしてムービング系のボールでも、当たればフェンスまで持っていく打球が打てる。

 だから効果的なのは大きな変化量を持つ変化球を投げられる、ツインズの方であると思われていた。


 明日美の持っている球種は、ストレート、スプリット、チェンジアップの三つ。

 だがこのストレートは微妙に変化することがあり、スプリットは変化量が一定ではない。

 時折投げるチェンジアップは、基本的に目先を変えるためだけのものだ。


 最速140kmを投げる女子選手。

 九州男児である西郷は、どうしても女子相手に本気を出すという回路を持っていない。

 だがそれでも、四番であるからには打っていかないといけない。


 初球はそのストレート。

 振ったバットの上を、完全に素通りした。

 思ったよりもはるかに伸びて、そして速く感じる。

 球速表示には140の文字が出て、観客席は盛り上がるのだが。


 だが西郷に140kmのストレートなどというのは、本来ならば全く通じないものだ。

 150kmが出ていても、単に速いというだけなら打ってしまえるのが西郷なのだ。

(なんか)

 ただのストレートではないというのは分かる。

 そこで初めて、西郷は明日美の姿をしっかりと見る。

(みごっか……)

 おおきく振りかぶった明日美の姿は、後光が射しているかのようにさえ見えた。


 初球と同じかと思ったストレート。だがそれはカクンと沈む。

 追いかけてしまった西郷は、ピッチャーゴロに倒れた。

 早稲谷の四番を、確実に封じた明日美である。




 明日美のマウンドは、スポーツの競技場というよりは、スターの舞台と言った方がいいのかもしれない。

 キャッチャーからのボールを貰い、そこで歓声が上がる。

 帽子を取って、額の汗を拭っても、そこで歓声が上がる。

 そして振りかぶって投げて、三振を奪う。

 大歓声が上がる。


 五番の北村が三振を奪われ、今日は六番に入ってる樋口である。

 首を傾げながら帰ってきた北村らのアドバイスはない。

 樋口はネクストバッターサークルからも観察していたが、明日美の躍動感溢れるフォームは、美しいと感じる。


 最も力強いフォームは上杉。最も無駄のないフォームは直史。

 それと比較しても全身が連動して投げるボールは、派手で威力は増して見える。

 投げ終わった時には、完全に左足一本でマウンドに立っている。

 体重の使い方をよく知っているということだ。


 樋口は初球を見逃したが、よくバックスピンがかかっていた。

(これなら打てるが……)

 二球目、スピードはやや落ちる。

 そこからブレる変化球を打ったが、打球は大きくファール。スタンドの中へ。

 なんだかんだ言って、二球で追い込まれた。


 この打席だけで攻略するのは難しいが、あとはスプリットを見ておきたい。

(しかし……このぐにゃぐにゃしたフォームが、どうして最後にはまとまるんだ?)

 メカニックがまだ成熟していない。

 なのにこれだけの球を投げるのだから、まともな指導を受ければ男子に混ざってプロで通じるのではないか。


 そう思いながら、樋口はボールをカットする。

 隙あらば打ってやろうと思ったのだが、手元で細かく動く球は、打っても長打にはならないだろう。

 そしてこのピッチャーは、下位打線では打てない。

 七球目、ストレートに思えるが、変にブレてはいない。

(これか)

 バットを合わす。ボールが落ちる。

 思ったよりも鋭い落差のスプリットで、樋口からも三振を奪った。



×××



 ※ みごっか……薩摩弁の「美しい」の意味

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