第69話 長男の力
なんだかほっておいたら可愛くてお馬鹿だった弟が、スーパースターみたいなことをやってしまったでござる。
弟が立派になって、ようやく手がかからなくなったかと思えば、スマホに「肩が痛い ぴえん」である。
いやさっさと病院か医者に行け、いやそういったところを知らないのかと思い直し、あれ? 俺がわざわざ調べるより、本人に調べさせた方がいいんじゃねと思いつつも、まずは監督に報告し、弟に付き添って辺見推薦の医者にやってきた佐藤兄弟である。
それで結局、筋肉の炎症だけだよ、つまりだいたい筋・肉・痛♪ などと言われたらどうしようもなくなる直史である。
「お前クールダウンはどうしたんだ?」
「神崎さんと会うのを優先して忘れてました」
「なら仕方ないな」
理解のある兄である。
月曜日は後から挽回できる講義ばかりを取っているとは言え、出来ればそんな二度手間は防ぎたい直史である。
来週の相手は法教大学で、次が帝都大。そして東大戦となって、最後が慶応なのはいつものことである。
早稲谷が午前中に試合があり、午後からは東大と帝大の二試合目が行われた。
そこで3-1で東大は勝利し、またも勝ち点を得ている。
慶応と帝都相手に四連勝ということで、東大の21世紀になってから初めての最下位脱出は決まったようなものである。
しかし、笑えることに武史の大記録などよりも、テレビや新聞の報道は、東大の勝利の方がはるかに扱いは大きい。
まあ美少女三人が主力となって、他の強豪である名門私立を撃破していけば、それはもう野球界にとどまらない人気になるはずである。
はっきり言ってしまえば、紅白に出るような歌手でもある美少女ツインズがガチ野球をやって、プロ入りを狙っているぐらいの選手たちをバッタバッタと薙ぎ倒す方が、はるかに画面映えがいいわけだ。
野球の裾野の開拓という意味では、上杉や大介と並ぶか、それ以上の貢献度であろう。女子野球がまたトレンドになっているし。
臨時に地上波で放送時間が確保されるぐらいなのだから、世間的な影響度を考えると、三年前のワールドカップ以上のものになるであろうか。
SS世代最後の甲子園も、たいがい非常識な視聴率を叩き出したが、土日昼間の時間帯に、どれだけの視聴率を叩きだすのか。
あとネットの世界では完全にバズっている。
日本だけではなくて、世界的にも。
なんだか男に負けない強い女ということで、偏った思想の団体まで目をつけているそうだが、おそらくそのあたりはツインズが自力で対処するだろう。
直史が考えるのは、二人がどこまで本気かということだ。
はっきり言ってしまえば、あの二人は単なる愉快犯である。
別に野球は好きではないし、世間を騒がせるだけ騒がせて、なんの責任も取りはしないだろう。
そもそも二人は野球をルールに則ってやっているだけで、それ以外に責任を取る必要などないのだから。
ここまで社会的な騒ぎにしてしまって、何か目的があるのか。
単に騒ぎたいだけという気もするが、こういう状況を何かに利用するのに、上手い人間を直史は知っている。
「私は無実よ」
電話の向こうでセイバーははっきりと言った。
「だってあの二人を下手に利用するのは怖いし」
セイバーだって、直接的で純粋な暴力の前には、ドンくさい運動神経しか持たない一般の成人女性に過ぎない。
社会的に見れば、セイバーは絶対強者である。
だがあの二人の、いざとなれば全てを捨てて相手を殺しに行く性質から、敵対しようなどとは考えないだろう。
納得する直史であるが、ではなぜあの二人が、わざわざ大学でまで野球をするのか。
時間を作ろうと思えばいくらでも作れるだろうが、それでも時間があれば大介に会いにいくだろうに。
「純粋に、お兄ちゃんと野球をしたかっただけじゃないの?」
それなら腑に落ちる。
佐藤家のツインズは、極端なまでに自分の欲望に正直である。
だがさすがに、全世界を敵に回しても平気だとは、高校に入学してからは思わなくなった。
セイバーのような人間がいるし、イリヤのような人間もいる。
それに大介に嫌われたくないだろうと思った。
今、大学野球界はあの二人のせいで、盛大に注目を浴びながらも、同時に嘲笑を浴びている。
女子三人が入ったガリ勉東大野球部に、朝から晩まで野球しかやってこなかった野球バカが負けていると。
それは、あるいは無責任で無関係な人間からしたら、爽快なことであるのかもしれない。
美少女が大の大人を倒すという図は、ずっと昔から日本人は大好きなのだ。
「でも必ず、それにも限度がある」
その限度が、お兄ちゃんと一緒に野球をやりたい、ということなのか。
それも同じチームではなく、敵対するチームで。
なんだかひどく利己的であるが、充分にありうる理由だと思った。
ただそれだと、つき合わされている明日美には悪いなとも思った。
明日美はどこまで考えているのだろう。
「権藤さんは……なんて言うか、周りを暖かくしてくれる人なんだよな」
電話での通話を終えると、ある程度の接触がある武史はそんなことを言い出す。
「動作が多い子ではあるな」
「まあ、それも確かにそうなんだけど」
武史は少し考え込んで言葉を捜す。
「少し活発すぎて心配な、理想の娘、理想の妹って感じかな?」
「お前、あんな妹を持ってるのに、まだ妹がほしいのか?」
「例えだよ!」
武史をからかった後、直史は考える。
ものすごくいい子だが、恋愛対象にはなりにくいということか。
人間性は良さそうだな、とは分かる。
ツインズは人間性の良い明るい人間には、あまり近寄らないようにしている。
ただ大介は例外になったが。
明日美が今後どうなるかは、意外と心配はなさそうである。
恵美理の話を聞いた限りでは、彼女には味方がたくさんいる。
いや、ほとんどの人が彼女の味方になると言うべきか。
人の懐に気安く入り込む人間を、苦手に感じる人間もいる。
だが明日美はそういう人間からでさえ、好意を抱かれる人間らしい。
武史も割とそういう傾向にはある。
仕方のない奴だと溜め息をつかれても、見捨てられることがないタイプなのだ。
直史は羨ましいとまでは思わないが、得な人間性だとは思う。
「たぶん瑞希さんより先に知り合ってたら、兄貴は好きになってたんじゃないかな」
思いもよらない武史の言葉であったが、武史から見ると明日美は、好みにうるさい直史でも好意を抱く対象ということか。
たらればの話は別として、東大対策を考える直史である。
幸いと言うべきか、早稲谷が東大と当たるのは第四戦。
それまでには様々なデータが揃っていくし、味方のチームメイトも油断するようなことはなくなるだろう。
戦力分析を完了し、対策を整えて臨めば、勝つことは難しくない。
単純に妹たちと一緒に野球を楽しむのだと考えれば、悪い話ではない。
東大が優勝してしまえば、それはそれで面白いだろうし、直史としてはそれでも構わないのだが。
高校時代に比べると、本当にチームの勝敗に拘らなくなったと思う。
それはやはり、金銭や生活環境の見返りに、野球をしているからだろうか。
ちゃんとした数字を残していれば、それで文句を言われる筋合いはない。
直史には、野球部愛がない。
野球への愛情はそれなりにあるし、白富東を母校だとは強く感じるのだが。
直史の周囲は騒がしいが、彼自身は何も変わることはない。
メカニックの調整などをする以外は、勉学優先で大学生活を過ごす。
五月に入りゴールデンウィークを前にして、旅行の予定を考えたりもするのだが、先立つものがない。
大学からは奨学金として返済無用の金をもらっているのだが、これは未来において必要になる金として計算しているので、せいぜいがお休みに近場でデートをするぐらいとなるか。
そんな中オープン戦などは行われており、直史と同学年の近藤などは、そちらでもう完全に主戦力となっている。
おそらく三年からは完全に一軍のベンチに入ることになるだろう。
旅行をしない理由は単に金銭的なものだけではなく、普通にそこでもリーグ戦が行われるからだ。
本日の対戦相手は法教大学。
全日本では早稲谷を抜いて、最多の優勝回数を誇っている名門だ。
六大学は東大以外野球に関してはどこも名門だと言われるかもしれないが、やはりプロ野球選手の輩出数などを考えると、早稲谷が一番になるのかもしれない。
直史は愛する妹たちと、真剣に戦う覚悟を決めた。
ツインズの力を制限させることの多かった直史であるが、こと大学生にまでなってしまえば、もう兄離れしてもいい年齢だろう。
ただし惣領息子として、普通に妹たちに負けるわけにはいかない。
直史は純然たるアンチフェミニストであり、逆にフェミニストでもある。
男の場所に女が出てくるなとは言わないが、出てくるならば男に対して戦うのと同じように、女に対しても戦う。
それがフェミニストだと思っている。
土曜日の法教大学との試合、先発は直史である。
武史は大事をとって、ここはお休みであるのだ。
相変わらず神宮球場は超満員で、東大の観客が増えたからと言って、早大の観客が減るわけではない。アイドルオタは東大の試合に集まるが、野球ガチ勢と野球オタは、早大の試合に集まるのである。
そして直史は今日も投げる。
東大に、正確に言えばツインズに勝つには、いくつかの条件を満たせばいい。
簡単に言ってしまえば、一点以上を取り、それ以下の点数に抑える。
幸いと言うべきか、強くなった東大も全体の打力が上がったわけではなく、勝敗はロースコアだ。
そしてどの試合も、一点は取られている。
大介のような決定力はないまでも、西郷を四番とした早稲谷の打力なら、慶応や帝都のように、一点は取れるだろう。
あとは完封すればそれで勝てる。
この試合において直史は、あえてそこそこ球数が必要となるリードを樋口に要求した。
ただその代わりに、確実に完封を狙っていく。
いや、お前今まで完封以外してないよな、と樋口は言いたくなったが、球数が多くなった状態でも、確実に九回を投げきる準備をしておきたかったのだ。
目標としては、およそ135球。
だいたい一イニングに20球までが、ピッチャーの限界と言われている。
15球で一イニングを抑えるというのは、標準的な完投ペースであろう。
確実に完封するにはどうすればいいか。
樋口が考えるに、より確実なアウトを取っていくことである。
確実にアウトを取る方法としては、まず打球を外野に運ばせない。
そして内野に打たせるにしてもフライがいい。
さらに言うなら、三振の方が確実だ。
樋口がミスをしない限り、アウトを確実に奪えるのが三振だ。
この日の直史はストレートを主体にしながらも、カーブとチェンジアップで緩急を取り、より大きく変化する球種を駆使する。
なんだかんだ言って打たせて取るというのは、イレギュラーなり太陽光の反射なり、エラーが出る可能性は高くなるのだ。
ストレートで150km出して、チェンジアップとの緩急差が50kmもあれば、それは三振も取れるというものだろう。
より疲労を少なくして、継戦能力を残しておくというのが、本来の直史のピッチングスタイルである。
だが今は、試合での自分の上限値を確かめておく必要がある。
ブルペンで300球を投げるのと、試合で150球を投げるのとでは、試合の方が疲れたりする場合もある。
それに樋口も、球種として持っているのは知っているが、これまで必要としてこなかった球を要求したりもする。
たとえばフォークだ。より深く握り、回転数を少なくしたフォーク。
直史はスプリットで内野ゴロを打たせるか、それなりに変化を大きくするため、フォークは必要としなかった。
あとはカーブの投げ分けが出来ていたので、必要としていなかったナックルカーブ。
結論から言えば、必要はない。
だがこんな球も投げられるということで、相手チームのバッターはさらに混乱するだろう。
この回も三者三振で済ませると、辺見が難しい顔をしている。
「お前ら、この調子でやるつもりか?」
主語はしっかりと言ってほしい。
「七回までで21奪三振って、本気かと聞いている」
辺見は頭を抱えるが、バッテリーは平常運転である。
「内野フライぐらいは打たれるかと思ってたけど、案外抑えられるもんなんですね」
リードをする樋口としても、自分のリードはともかく、それに応じて平然と投げてくる直史には驚く。
打者全員を三振でアウトにするというのは、ピッチャーなら誰もが見た夢ではあるだろう。
だが実際に、目の前でやられていると、引く。
そもそも対戦相手のチームだって、せめてバントを使えばゴロぐらいは打てるだろうに。
「なんでバントしてこないんだろうな?」
「そりゃあまあ、バントで記録を途切れさせるなんて、興ざめもいいとこだからじゃないか?」
のんびりとしたバッテリーを見つめる周囲の視線は色を失っている。
またか。
またなのか。
佐藤直史被害者の会筆頭である法教大学は、一年の春にパーフェクトをされて、秋にはノーノーをされている。
あいつはどれだけ、他の選手の、特にバッターの心を折れば気が済むのか。
だからと言って三振をただ止めるためだけに、バントをするなど逆に虚しい。
振って行け。
そして、三振はするな。
そんなことを言われても、打とうと思っただけで打てるなら、練習は必要ないのである。
練習していても無理であるのだが。
だが、コンパクトなスイングは、かろうじてボールに当てるだけのことは出来る。
そして大記録を更新し続けながらも、直史は己の限界を悟っていた。
確かにこれまで、奪三振ショーを展開している。
しかし三振を奪うために必要な球数は、武史よりもはるかに多い。
佐藤直史は鬼である。
容赦という言葉を全く知らない。
それでも22人目がキャッチャーフライを打って、記録は途切れたが。
味方の観客が「取るなー!」と叫んでいたのは滑稽であった。
落胆の溜め息が洩れるが、未だにパーフェクトピッチは継続中である。
これ以上の何を期待するのか。
だが、やはり27人全員三振というのは出来ないのだな、と直史は納得する。
ちなみに直史は、これまでのリーグ戦における連続奪三振記録が9であり、相手が東大であったことを知らない。
完封以上のひどい数字で敗北した法教は、春のリーグ戦はここから全敗することになる。
九回129球打者27人に対して奪三振24個で、先週弟の更新した記録を、今週兄があっさりと更新した。
なお三振以外のアウトは二つがキャッチャーフライで、残りの一つがピッチャーフライ。
……バッテリー二人だけで、この日の守備は終わらせてしまったことになる。
あまりにもひどいこの結果を、マスコミや大学野球関係者は「神宮球場の虐殺」と長く呼ぶことになる。
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