第66話 東大の春

 今年の早稲谷は強い。

 六大学リーグではそんなことを言われるが、正確にはこういうべきだろう。

 今年の早稲谷は信じられないほど強い。


「そもそもナオとタケに細田がいて、バッターに北村さんと西郷がいるってのがなあ」

 帝都大学野球部において、既に作戦面の立案を任されつつあるジンは、そう愚痴を吐く。

「タケはまだともかく、ナオに弱点ってある?」

「瑞希さんを誘拐するぐらいしか思い浮かばない」

 シーナの問いに冗談を返すジンであるが、シーナはそれで考え込む。

「え? いや冗談だぞ?」

「分かってるけど、盤外戦しかないのかなって」


 盤外戦。

 球場の中ではなく、それ以外の場面。

 あるいはグラウンドでの勝負ではなく、ベンチ同士の読み合い。

 考えてみれば去年の秋、早稲谷の敗因はベンチの判断ミスであった。

 直史のことを理解していなかったのだろうが、ジンは高校一年の同じ頃には、直史のことを理解していた。


 直史は本質的には、プライドが高いのだ。

 ただそのプライドの持ち方が、一般的なエースとは違うだけで。

 それに能力の方も、全く把握していなかったようだ。

 ジンなら直史には、土曜日には必ず勝ってもらう。

 そして日曜日に負けたとしたら、また先発完投してもらう。


 少なくともジンであればそういったことが出来る球数のリードをするし、樋口であれば同じことが出来るだろう。

 セイバーは分からないが、秦野でもそうしたろう。早稲谷の辺見は選手への理解が浅い。

 まあ直史のようなピッチャーを見るのは、長い経験が邪魔して逆に判断が出来ないのだろうが。




 ノートパソコンを叩いて自分の思考も整理して、ジンはシーナに告げる。

「そんじゃま帰るわ」

「泊まっていかないの?」

「明後日からリーグ戦だしな」

「そのくせエッチだけはしっかりしていくんだから」

「あ~、じゃあ今度、一緒に偵察に行かね?」

 これがジンなりのデートの誘い方であるらしい。

「偵察? 早稲谷?」

「いや、それはまだ後でいいから、とりあえずは東大」

「東大なんていくらなんでも負けないでしょ」

 リーグ戦第二戦の相手であるが、そう侮るぐらい、東大と他の五大学には差がある。

 しかしシーナは忘れているのだろうか?

「東大にはツインズが入っただろ」

 静止してしまうシーナである。


 シニアから高校へ、女子野球ではなくマネージャーの道を選んだ。

 だがそこへ急転直下、女子選手の参加が許可された。

 神聖なグラウンドに入らないとかどうとかいう話が、セイバーの存在によってなくなってしまったのが大きい。

 シーナは甲子園における、女子野球選手第一号だった。

 しかし六大学リーグまでくると、さすがにフィジカルの差が大きすぎる。

 それでもシーナが試合にリリーフとして出られたのは、魔球があったからだ。


 シーナが苦労して、直史がちょっと苦労して、ツインズはほとんど苦労もなく使うようになった魔球。

 スルーと呼ばれるジャイロボールは、今も使える人間は少ない。

「今さらあの二人、野球なんかするの?」

 確かに直史の監視も、イリヤの拘束もないので、好き勝手に振舞える。

 だがあの二人が、今さら東大の野球部で満足するのか。

「権藤さんが一緒だからなあ」

「ああ……」

 シーナが溜め息をつくのは、あの特別な一人のことを思うと自然なのだ。


 権藤明日美は女子野球選手としては、世界最高の選手だと言われている。

 男子に混ざって甲子園に行ったシーナと、どちらが上かと問われることもある。

 決まっている。明日美の方が上だ。

 もちろん野球は、単純なフィジカルのスピードやパワーだけで決まるものではない。

 だが140kmなどどうやってもシーナは投げられないし、国際大会も行える野球場でホームランを打つことも出来ない。

 ものすごいフルスイングでミートを無視すれば、運が良ければ入るだろうが。


 そのあたりも明日美を特別だと思う理由ではあるのだが、体格などはむしろシーナの方が優れて見えるのだ。

「あ、でもキャッチャーの子はいないんでしょ? 東大のキャッチャーじゃ、あの子の天然変化球、上手く捕れないんじゃない?」

「それこそツインズだろ」

 二遊間を守らせると鉄壁のツインズだが、バッテリーを組ませれば完全にノーサインで一試合を投げきる。

 バッピをやってもらった時など、実戦形式の場合、完全にノーサインで投げて、そして捕っていた。

 双子のオカルトパワーがあるとはいえ、それでも技術的にも優れている。

 言われれば言われるほど、今年の東大のダークホースっぷりに、怖れが出てくるシーナであった。




 他の大学の野球場がやや校外に位置するのに対し、東大のグラウンドは昭和12年に竣工された位置から変わっていない。

 なんでも既に文化庁から文化財指定されているので、動くにも動けない。

 ならばしっかりと利用してやろうと、ちゃんと整備はされてある。

 文京区という都内にあるこの球場は、偵察をするにも最適である。


 だが現在の東大球場は、完全にマスコミや野次馬によって埋まっていた。

 東大野球部が春のリーグの第一戦、慶応大学との試合に勝ち、勝ち点一を上げてしまったからである。

 リーグ戦で東大は、四半世紀以上最下位を独走している。

 それでも時々勝つことはあるのだが、二試合を勝って勝ち点を得ることなど、奇跡に近いことだとさえ言われていた。。


 だが、勝ってしまった。それも土日の二連勝でだ。

 三人の投手が三回ずつを投げて、両試合共に一失点。

 そして三人のピッチャーが打線でも活躍して、3-1と4-1というスコアで勝ってしまったのだ。

 偵察を提案したジンとしても、これは予想外であった。

 ツインズの片割れが先発し、試合を作る。

 そこから明日美が投げて抑えに回す。

 そしてもう一方のツインズが、最後まで投げて、相手の追撃を抑える。


 東大が勝ったというだけでなく、それが女子選手の力で成されたということで、散々テレビにも取り上げられた。

 去年の直史のデビュー戦も凄かったが、こちらはそれ以上だ。

 なにしろ芸能人が二人混じっていて、その二人があの佐藤兄弟の妹であるのだ。

 さらには双子でバッテリーを組むなど、設定盛りすぎのチームである。




 ただこれは、さすがのジンも予想していなかった。

 普通にテレビやライブで踊りまくっていたツインズと違って、明日美は夏以降は受験に専念していた。

 元々学力は高い少女であったが、現役で合格するためにはかなりの勉強が必要だったろう。

 その間に野球をやっている余裕などなかったはずなのだが。


 神宮球場で記録された球速は140kmで、ほぼ彼女のMAXと変わらない。

 権藤明日美は女上杉なのか。

 しかしホームランも打っているので、女大介とも言える。

 神宮球場がホームランの出やすい場所だとしても、限度というものがあるだろう。

「これだから天才は嫌いなんだ」

 さっそく帰って、帝大のクラブハウスで真剣に東大対策を始めるジンである。


 この事態に負けた慶応だけでなく、他の大学も三人の女子選手の情報を集めだす。

 すると明日美が高校時代に、白富東を雨天コールドとは言え無失点で完封しているというデータも現れてくる。

 当時の白富東は、二度目の春夏連覇をする前のチームである。

 ようするに甲子園優勝校を相手に、七回までは無失点のピッチングを続けたということだ。


 詳細を知るために、ネットが駆使され人が走った。

 そしてベストメンバーでなかったとは言え、それが事実だとは明らかになる。

 そんな過去のことはともかく、問題は今である。

 慶応は今年も弱いチームではないはずなのだ。それがそれなりに点を取られて敗北している。

 失点の内容は、三人の長打が絡んでいる。

 ホームラン以外にもフェンス際までなら、持っていけるパワーを持っているのだ。




 この事態に慌てていないのは、おそらく早稲谷大学の、佐藤兄弟だけであったろう。

 しかし動揺はしていないものの、直史には疑問があった。

 何故今さら、六大学リーグで野球をやる必要があるのかだ。

「兄貴と一緒に野球がしたかったんじゃないの?」

「なるほど」

 武史の言葉に、納得のいった直史である。


 ツインズの運動能力は、人間の上限に近いものだ。

 特に中学時代、まだ胸が大きくなっていなかった頃は、当たり前のように月面宙返りなどをしていた。

 そして頭脳は明晰でありながら、性格には問題があった。

 スポーツなどで競わせてしまうと、二人の前にはそれなりの才能を持った人間が、心を折られてその道から外れてしまうことにもなる。

 芸能界に行ってしまったので、才能はまた違った方向で発揮されると思ったのだ。

 それにイリヤがいた。


 ただ直史は、イリヤに期待しすぎである。

 元からアメリカの芸能界という、巨大な闇を抱えた存在で、普通に生きてきたのがイリヤである。

 彼女の倫理観は、基本的に恐ろしく悪い。

 もっとも基本的には、他人を傷つけることはない。ナチュラルに他人の才能をへし折ることはあるが。

 彼女の音楽が刺激的すぎるのが困るのだ。


 早稲谷も今年は、第二週からリーグ戦が始まる。

 去年の直史と同じように、武史もベンチ入りしている。

 ここのところ159kmは出ているのだが、どうしてもあと一歩が足らない。

 だがそれでも充分すぎるスピードだ。

 樋口に任せておけば、この状態でもリードは間違いないだろう。


 それにしても、東大か。

 今年の春のリーグは、最後が早慶戦に決まっているが、その前の週で東大とは対戦の予定である。

 正直なところ直史は、ツインズはともかく明日美と戦うのは、それなりに楽しみにしている。

 慶応との第一試合で、彼女は140km台後半のストレートをスタンドに叩き込んでいた。

 バッターとしても、そしてピッチャーとしての投げ合いでも、戦うのはちょっと面白そうだ。


 まずは今週末、立政との試合を考えなければいけないが。

 武史は何試合かのオープン戦によって、その力を示した。

 ストレートは150km台を安定して投げ、150km前後でムービングを投げ、緩急差には高速チェンジアップかナックルカーブを使ってくる。

 そんなピッチャーを相手に、まともに点が取れるはずもない。

 一応最近はプロを意識して、これまで無頓着だった配球も、自分で考えるようになっている。

 ただそれでも投げるのが無造作すぎて、樋口に叱られていたりするが。


 早稲谷としては、去年の秋に負けた帝都が、一番の仮想敵であろう。

 だが今年の早稲谷は、ピッチャーが豊富である。

 最終学年の細田に、佐藤兄弟。そして直史と同学年のサウスポー村上も、そうとうの数字を残してきている。

 あとはワンポイントや、対戦する相手によって、星がマウンドに上がることも多くなっている。

 いくら六大学の中でも最もピッチャーを集めやすいとは言え、これほどタレントが揃っているのは、今年が最後であろう。

 春のリーグも秋のリーグも優勝し、二つの全国大会を制すことも夢ではない。かなり現実味がある。

 野球はピッチャーで決まるという言うが、ピッチャーを集められることが、強いチームの条件ではあろう。




 そしてリーグ戦初戦に向けて、練習も調整メニューに移ったその日。

「佐藤、ちょっといいか」

 直史は伏見に呼び出されたのである。


 別に呼び出されたといっても、不穏なことではない。

 細田のことについて相談があると言われたのだ。

「あいつをプロに入れてやりたい」

 伏見の言っていることは、別に不思議なことではない。

 そもそも直史も、今の時点で細田の実績と実力なら、どこかの球団が上位指名するのではと思っている。


 それをそのまま口にすると、沖縄合宿での一件が語られた。

 大介を封じ込めたという話である。

 確かに大介は、細田のようなピッチャーは苦手だ。

 苦手と言っても右打席に入れば、それなりに打ててしまうのだが。


 今年も大介はおかしなペースでホームランと打点を重ねているが、その大介を抑えたというだけで、ある程度評価が高まっているのだろう。

 そんなこととは別に、直史は細田が優れたピッチャーだとは思っている。

 長身から投げられる140km台後半のストレートに、幾つかの角度で投げられるカーブ。

 球種としては現在使っているのはカーブだけだが、スライダーも一応投げられる。

 だがカーブの角度や速度、変化量を変えて投げるのが、やはり細田のピッチングスタイルなのだ。

 大介に限らず、左バッターには強い。


 その細田を、少しでも上の順位でプロ入りさせたいというのが、伏見の話であった。

 しかし武史が入った今、細田のポジションが揺らいでいる。

「まあ最終的に決めるのは監督ですけど」

 直史としても下級生にも気安く接する細田は、悪い印象を持つ人間ではない。

「これからも勝っていくには、細田さんは先発で使った方がいいでしょうね」

 普通に頼られたら、普通に応える。

 これが弁護士志望で、田舎の家の長男である直史なのであった。


 北村とも話した上で、リーグのピッチャーの起用法を逸見に進言する。

 細田と、スロースターターの武史を先発に、直史はクローザーに回るという形である。

「それは私も考えていた」

 辺見は主力陣の提案を頭ごなしに却下することはなく、話を聞いてくれる。

 事実だけの話をすれば、直史は大学入学以来、公式戦で一点も取られていない。

 しかしクローザー、あるいはリリーフとして投げた場合、一本のヒットさえ打たれていないのだ。

 全日本、そして神宮。

 両方を制するチャンスは、今年を逃せばしばらくは来ないのではないか。

 むしろ狙っていけそうな、今年の戦力がありえない。


 話は通った。

 とりあえず週末の立政戦は、土曜日を細田、日曜日を武史という先発でこなしてみせよう。

 ただ直史としては、せっかくこちらからこんな話を持って行ったのに、東大野球部の話を聞いてこない辺見には、困惑せざるをえない。

 根本的に辺見は、監督というポジションは向いていないのではとも思うのだ。

 もっともそれは、チームのオーナーである大学が決めることであろう。

 直史がいる間は、それなりに勝ってしまうかもしれないが。


 今年も春のリーグ戦が始まる。

 後に嵐の一年戦争と呼ばれる年に……なったら面白いのかもしれない。

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