第62話 倍返しまではしない
東洋亜細亜大学は東都大学リーグ一部の強豪大学であり、昨年の全日本大学野球選手権大会において早稲谷に土をつけ、優勝したチームである。
色々と評判は悪く、問題も多い大学らしいが、とりあえず強いことは間違いない。
その練習量を聞いて直史と樋口は、全く同じ感想を抱いたものだ。
「そんなに野球ばっかして、大学に何しに来てんだ?」
野球であろう。
東亜大学も早稲谷と同じく、去年はプロ野球選手を輩出した。
今年もプロ注の投手と野手がいて、去年の早稲谷との試合では、決定的な役割を果たした。
だが、佐藤直史が投げていたらどうなったか、というマスコミの疑問は尽きなかった。
直史がどれだけマスコミを嫌いであろうと、それとは全く次元の違う問題である。
民衆はスーパースターを求めている。
人格の破綻した芸術家や音楽家であっても、その生み出すものを否定することは出来ない。
直史はそこまでひどくはないが、基本的に自分の価値を他人に左右されることを嫌う。
実力の飛び抜けすぎた直史を、正直辺見はいまだに、どう扱えばいいのかが分かっていない。
辺見のような野球に生涯を賭けてきた人間には、その価値観が理解出来ないのだ。
あれだけの才能を持っていながら、どうしてそれによって人生を切り拓こうとしないのか。
いや、実際には生きて行くために有効に活用はしているのであるが、それでも辺見からしたら、もったいないと言わざるをえないのだ。
去年は結局対戦できなかった佐藤直史。
テレビなどでは散々に騒がれ、六大リーグの記録を塗り替えた男。
甲子園で大活躍し、そのままプロに進むと思っていたら、そもそもプロ指向がないという。
なんとふざけた男だ、というのが東亜大学の野球部員の認識である。
自分たちはこれだけ頑張って、努力し、苦闘しているのに、なぜあんな才能だけで勝ち進める人間がいるのだ。
実際のところは単に、努力の仕方を間違っているだけである。
それに直史も体格などから、既に最高到達点は計算されている。
あとはその中から、どのようにしてコンビネーションを組み立てていくだけだ。
球速という絶対値の才能がないのだから、他の部分でそれを補うしかないのだ。
140km台半ばの、それほど速くも遅くもないストレート。
直史は春のリーグに合わせて調整しているため、まだこの時期は球速が出ない。
まるでプロのような調整の仕方であるが、直史のプロ意識は高い。
実際のところ大学にさんざん援助してもらっているのだから、その分は働いて返すという意識がある。
そしてその直史の才能の範囲内で、東亜大学は制圧されそうだ。
こいつはいったいなんなんだ。
それが東亜大学の監督や選手に共通する、偽らざる本心であった。
曲げて、曲げて、落として、時々沈む。
決め球にはストレートを使ってくることが多く、それに全くタイミングが合わない。
速いことは速いが、打てないほどのスピードではないはずだ。
それなのに振り遅れて、バットに当たらない。
甲子園で三度のノーヒットノーランをし、大学一年の春のリーグでも、完全試合を二度も達成した。
六大学のリーグが低くなったのかとも思ったが、全日本では決勝まで上がってきた。
そしてその決勝で、直史は投げなかった。
記録だけを見ても、その偉業は分かる。
大学一年生の公式戦においては、15試合で79回を投げて、被安打10の無失点。
16個の四死球を与えておいて、ノーヒットノーランを達成。
六試合を完封しているが、そのうちの五試合が100球以内の球数で、試合を終わらせている。
高校時代に遡ってみても、対戦相手が強くなるはずの甲子園においてでさえ、85イニングをなげてわずかに三失点。
二年の夏以降は、登板イニングが減ったとは言え、無失点に抑えている。
とにかく打たれない。打たれても点につながらない。そのくせ球数も増えない。
まるで機械のように正確なピッチングであるが、機械にはありえない洞察力で、こちらの意表外の球を投げてくる。
もちろんそれはキャッチャーのリードもあるのであろうが、リードに応えて完璧な球を投げられるのだ。
同じ人間のピッチャーとは思えない。
機械よりも正確なコントロールなどとは言われたが、機械と違って、正確なだけではない。
狙い球を絞っていけば、結局一球も投げられない。
来たと思ったら小さく変化して凡打になる。
早めに打っていかないと、あっという間に追い込まれる。
そして追い込まれたら終わりである。
ふらりと上がったボールが内野の頭を越えてヒットになった時、ようやくほっとしたのはベンチの中の全員の気持ちが一致していたことを示す。
直後にキャッチャーの牽制、そのランナーもアウトにされてしまったが。
早稲谷は確かに、六大学の中でも最高のブランドであるのだろう。
しかしあえてそこから外れて、一部と二部の入れ替え制のある東都の王者であるということは、それだけに負けられないとも思っている。
確かに有名なのはあちらだろうが、過酷な環境に身を置いているのは我々だ、と。
直史に言わせれば、環境が苛酷なだけで勝てるなら、戦争はいつも劣勢な方が勝つことになるのと同じような意味であるのだが。
正しい資質の検査に、正しい練習とトレーニングのメニュー。そして相手に合わせてこちらの力を最大限に発揮するオーダー。
加えて相手の力を発揮させない戦術まで駆使すれば、どのようにしてでも勝てる。
もっともどれだけ事前の準備をしていても、不確定要素の大きいのが野球であるのだが。
それでもレベルの高いところで、紛れの少ない守備力があれば、おおよそ序盤で試合の趨勢は読めるものだ。
そこから流れを変えてしまう力を持つ選手というのは、確かにいる。
しかし絶対的に流れを変えさせない選手というのもいるのだ。
そしてそれが直史である。
東亜のエースも悪いピッチャーではないのだが、相手が悪すぎる。
直史のピッチングの内容に引きずられて、制球を乱してしまう。
そこを打つのが、早稲谷のクリーンナップである。
ランナーを溜めたところに樋口の打順が回ってきて、スコンとタイムリーツーベースでランナーを一掃する。
六回のイニングが終わって、点差は4-0である。
だが点差以上に大切なのは、ここまで打者18人で抑えられていることだ。
牽制アウトになったランナーを除いて、フォアボールの出塁もない。
そしてここでバッテリーは交代である。
細田と伏見のバッテリーも、東亜大にそうそう打ち崩されるものではない。
最終学年を目の前に、細田に関してはプロのスカウトの視線が多く向けられるようになっている。
この試合も三イニングをヒット一本に抑えて、継投完封。
ベンチに戻って、直史とハイタッチである。
5-0で早稲谷の圧勝。
それでも高校野球と違い、二桁得点差での決着などはそうそうない。
九回を終わってもまだ時間がたっぷりと残っており、何が何やら分からないうちに、特に攻撃の手番が終わってしまった。
監督同士の挨拶などはあるのだが、そりあえず早稲谷の完勝である。
あちらさんのグラウンドで行っていた試合も終わり、二軍メンバーが帰ってくる。
練習試合であるため試合に投げた武史は、先発であったそうな。
被安打二の与四死球三。奪三振12で六回までを投げた。その後を投げたのが、星が一イニング、直史と同学年の村上が二イニングであったそうな。
こちらは近藤や土方などがクリーンナップを組み、8-1でやはり圧勝。
スコアを見て直史は納得する。
武史の打たれたヒットは、序盤の二回である。
そこから相手はボールに慣れるどころか、後半に行くに従って奪三振が多くなっている。
特に五回と六回は、クリーンナップも含めて全員三振だ。
相変わらず立ち上がりが悪いと言うよりは、これはもう立ち上がりが普通であることを計算して、キャッチャーがリードする必要があるだろう。
それにしても、星が打たれなかったのか。
キャッチャーは芹沢がしていたのだが、それでも武史は相手を0に封じた。
樋口だったらもっと上手く出来ていただろう。
村上も二回を投げて一失点と、まあほどほどの成績と言えるだろうか。
だが村上のピッチングを知っている樋口には、そうは思えなかった。
この三人で継投したのなら、ノーヒットとまではいかなくても完封は出来るはずだ。
しかし村上が武史と同じサウスポーだったということも、あまり良くなかったのか。
140km台後半のストレートを常時投げられる村上だが、武史の後だと打ちやすい球になってしまう。
そのために星を一イニング使ったのだろうが、それで普通に打ち取ってしまえば、結局武史の後に村上が投げたのと同じになってしまう。
完全に無意味とまでは言わなかったのだろうが。
ともあれこれで、東亜大学との練習試合は終了した。
四年生が卒業した後の戦力は、早稲谷の方が総合的に高い。
特に大きいのは、元々高校時代からプロのスカウトの目に止まっていた付属の選手たち。
近藤や土方が二軍では、充分な戦力になっていた。
だが春のシーズン前には、これから何度となく練習試合が組まれている。
直史や樋口と違って、特待生入学の武史は、ここから野球漬けの日々が始まるのだ。
そして直史はだいたい、練習はしても試合に出ることは少ない。
早稲谷の力を強くするためには、直史一人に頼る状況というのは良くない。
しかし直史としても、データの揃っていないチームの打線と戦うのは、リーグ戦で勝負するのとは違った趣がある。
「春休み中ほとんど試合って、野球ばっかやってんの? いつ遊ぶの?」
武史の言葉は、だいたい他の特待生の一年や、付属から上がってきた一年にとっては、不思議なことに思えるらしい。
この時点で合流している一年生は、そもそも野球をやるために入ってきた者なので。
「え、お前って特待生だろ? プロ行かなかったのも驚いたけど」
甲子園のマウンドで、真田と対決した姿は、同年代の球児たちの目に焼きついている。
「いや、俺は普通に推薦で大学に行けるから来ただけで、別に野球に青春賭けるつもりはないんだけど」
この時点でも武史の将来の選択肢に、プロ野球選手というのははっきり浮かんでいない。
武史は完全に、自分の中での野球の地位を低く見積もっている。
「高校時代だって、禁止期間以外は普通にずっと練習試合入ってなかったのか?」
「うちの学校はそんなになかったな。兄貴だってそんなに練習してないはずだし」
だがそれで、全国制覇を成し遂げたのだ。
意味が分からない、という顔をしている者しか周囲にはいない。
「じゃあお前、大学卒業したらどうすんだ?」
「まだ決めてない。そのためにわざわざ大学来たんだけど」
なんだこいつは、という視線を向けられる武史である。
だが武史にとっては、そういう環境が当たり前だったのだ。
仕方がない面も、ある程度はある。
白富東や三里は、やはり例外なのである。
「え、お前って学部どこよ」
「兄貴と同じ法学部。さすがに弁護士なんかは目指してないけど、役に立つ資格はそこそこ取るつもりだから、あんまり野球ばっかしてるのもおかしいだろ」
「……プロ行かねえの?」
この質問には、首を傾げる武史である。
兄の直史でさえプロには行かないのだから、自分が行かなくてもおかしいことはないだろうに。
「決めてないけど、行くとしても在京球団かなって。他のとこに指名されたら社会人野球に行って、そのまま就職する感じかなあ」
「え? いやプロは?」
「社会人まで行ったら、もうそのままそこに就職した方がいいだろ。そこまでしてプロ野球選手になろうとも思わないし」
この発言は本心であるだけに、同学年の部員たちの反感を買った。
だいたい大学でまで野球を続けるのは、諦めが悪い者が多いのだ。
高校の時点ではまだ足りなかったが、あと四年鍛えれば、プロへの力が手に入るかも。
そう考えて推薦で入ってくる者が、早稲谷には多い。
六大学で野球をやるということは、そういうことなのだ。
武史が野球部内に友人を作るのは、一般入試で合格した学生たちが、野球部に合流してからのことになる。
この時点では完全に、武史は同学年の中でボッチであった。
幸いなことに、上級生はこういった価値観を、直史と樋口で慣れていたため、変なイジメなどにはつながらないのであるが。
だが、直史としても武史の言いたいことは分からないでもない。
大学野球は春の休みに、練習試合を詰め込みすぎている。
しかし相手は、他のリーグの強豪大学であったり、名門の社会人チームであったりと、対戦相手として戦うには面白い。
相手のデータが少ない場合は、樋口と手探りで情報を収集していかなければいけないからだ。
三月は一軍は、沖縄キャンプへと出発する。
しかし当たり前のように直史は東京に残り、武史も残った。
こちらは二軍でも、試合はそれなりにあるのである。
ただ樋口は、一軍の方に帯同していったが。
沖縄は今の季節、練習するには良いだろう。
しかし直史は法律サークルの誘いもあるので、沖縄になど行けるはずがないのだ。
武史ははっきりと暇を持て余して、仕方なくこちらで練習をして、練習試合に出ることになったが。
小柳川と、一年の新入生キャッチャーが、これに付き合わされることになった。
千変万化の変化球と、160km近い剛速球。
この二種類を体験出来ることを、キャッチャーは幸運に思うべきだったのだろうか。
二年目の四月を迎えるまでに、まだしばらくの時間はあるのである。
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