六章 大学二年 ニューカマー
第61話 こんな時期から練習ですか
さて、時間は前後する。
恵美理や明日美の国公立大学の合格発表前に、既に武史は大学の練習に合流していた。
一月からってなんなの? 保険に入れってなんなの? 去年の兄ちゃんは違ったよね? などと武史は考えたが、内部進学組や野球特待生などはこちらが通常なのである。
なお寮にも入ったのだが、直史ほどのなんでもありの待遇ではない。
入学金、授業料は野球部に在籍している限り無料であるが、寮の方は費用がかかる。
食費や初期費用がかからないので、まだマシと言えるのだが。
それでも佐藤四兄妹の中で、一番のごく潰しであることは間違いない。
160km左腕がやってくる。
甲子園でパーフェクトというのは、ある程度バックの力もないと出来ないことであるが、160という数字はリアルである。
三振奪取率は直史よりも高いというのだから、どんな化け物かと早稲谷の上級生は戦々恐々としていた。
特に武史の高校時代、当たることのなかった四年生。
もっとも北村などは直史の弟であるということで、おおよそめんどくさいやつなんだろうなとは覚悟しているが。
キャプテンに任命されはしたものの、北村としてはもうすぐやってくる教育実習の方が重要なのである。
またもや危険物を取り扱うことになるのかと、しくしくと胃を痛める辺見であるが、世の中には毒を以って毒を制すという言葉がある。
「監督、こいつは基本的に野球部の扱いでは動かないんで、俺と樋口で面倒見ます」
問題児が問題を背負ってくれるらしい。
武史の表情は戸惑っているようで、しかしこの兄弟は共に、あの甲子園を制しているのだ。
人格的には兄の方が圧倒的に性質が悪いのだろうが、その兄が言うのなら任せてみよう。
「コヤ借りていいですか?」
「ああ」
そして連れられていく小柳川である。
樋口のいない時の、直史専用として鍛えられている小柳川は、ドナドナされながらブルペンに向かうのである。
どうせ樋口がいる限り、四年間ずっと控えが精一杯と思っている小柳川だが、キャチャーとしての力量は、確かにぐんぐんと上がっている。
直史のこの変化球を、簡単に捕っている樋口の技量には、もう嫉妬とかそんな感情はなしで、感心するより他にない。
そのくせ樋口自身は自己主張が少なく、直史が樋口を使おうとしない限りは、キャッチャーとしては黒子に徹している。
キャッチャーと言うのは、ああいう存在のことを言うのだろう。
ただしバッティングは隠しようがなく秀でているが。
「コヤ、こいつはなんだかんだ言ってストレートは速いから、まずそれを捕れるようになってくれ。タケ、お前は四月のリーグ戦までに仕上げろ」
小柳川は驚く。樋口は眉一つ動かさないが、既に佐藤の次男は一年から投げるのが決定済みらしい。
「俺、一年から投げるの?」
「俺だってそうだったし、高校時代もそうだったろう」
「兄貴が投げるなら、負ける試合はないだろ?」
認識の甘い弟に対し、直史は珍しく溜め息をつく。
「うちの最大のライバルはどこだ?」
「慶応……じゃなくて帝都? ジンさん行ってるし」
「だからお前は甘いんだ」
直史は、限りなく真剣である。
「東大に決まってるだろうが。うちの双子が入るんだぞ」
「あ……でもあいつら、わざわざ大学でまで野球するかな?」
「本当ならしなかっただろうな。しかし同時に、権藤明日美さんが入る予定だ」
「あ~、あいつらならしそう」
このあたり、兄二人は分かっている。
佐藤家のツインズは、この春からは二人暮らしをして東大に通う予定である。
合格前にその判断はどうなのかと思うかもしれないが、あの二人はこういったことでは絶対に失敗しない。
それに二人だけではない。一緒に遊べる明日美がいれば、ただ周囲をズタボロにするためだけに、野球部に入部する可能性は高い。
二人を縛る直史の監視はないし、安全弁になりそうなイリヤも、そんな面白そうなことは止めないだろう。
何より、権藤明日美だ。
恵美理の親友でもあるあの少女は、主力を抜いていたとは言え、白富東を完封した。
雨天コールドはあったし、主力を抜いていたという言い訳もあるが、後から考えれば分かった。
主力を抜いたのはいいゲームにするためではなく、女子に負けることによって自信がへし折れるのを防ぐためだったのだ。
「でも神崎さんがキャッチャーじゃないならまだ……でも、そうか、二人でバッテリー組んだら」
直史は頷く。
「権藤さんはバッティングの方が恐ろしいからな」
そう、明日美のバッティングは、三振かホームランか外野フライが、九割を占めるのである。
なお試合では歩かされることが最も多い。
大学野球は木製バットになるが、明日美のバッティングの本質はそんなところにはない。
もっとも、明日美が本当に大学でも野球をやるかどうかは、まだ確認もしていないのであるが。
下手にツインズに確認させると、野球をやる方へ誘導しかねない。
とにかくあの二人が、明日美と一緒のチームになる可能性があるのが問題なのだ。
直史は妹たちの、箍の外れた脅威を軽視していない。
チーム力がいくら違っても、バッテリーと主砲がいれば、どうにかなる面があるのも野球なのだ。
六大の大学野球最高レベルのリーグでも、油断できるものではない。
状況を把握した武史は、小柳川とのキャッチボールを開始した。
既にその時点で、小柳川には武史のスペックを感じた。
球のスピンが効いていて、ミットの中でぐるぐると回る。
アイドリングが終わってから、ブルペンマウンドに武史は登り、小柳川のミットに向けてボールを投げる。
速いのは分かっていた。
だがただ速いわけではなかった。
球が凄まじく伸びる。
単に伸びるだけではなく、キレがある。
これほどボールにホップ成分のあるストレートを、小柳川は受けたことがない。
直史のストレートも、回転を上げた時はすさまじいものだとかんじるが、武史のボールはことストレートに関しては、直史を上回る。
「154か……」
スピードガンを持った部長が、呆れたような声を出していた。
154kmのストレート。それもまだ、座ってから一球目である。
甲子園では最速161kmを出していた。
季節的なことはあっても、まだまだ上はあるはずだ。
「ケントはいらないよな?」
「上杉さんに比べれば普通だ」
横では異次元の会話が成立している。
早稲谷の野球部は春のリーグ前から、多くのオープン戦という名の練習試合を行う。
相手は違うリーグの強豪校であったり、社会人の強豪であったり、プロの二軍であったりする。
どのチームもお互いにメリットがある、強力な相手と対戦したいのだ。
早稲谷にそういったオープン戦の申し込みがある場合、条件を付けられることが多い。
即ち、佐藤直史の先発である。
辺見は昨年の秋、己のリーグ戦での選手起用の失敗を、切実に感じていた。
帝都大に二連敗して勝ち点を失ったことが、秋のリーグ戦の優勝を逃すことになったのだ。
春のリーグ戦で全勝優勝をしたので、勘違いしていた。
野球というのは、いいピッチャーがいればそれだけである程度は勝てる。
だがあくまでもある程度であって、それだけで全てが勝てるはずはない。
自分も同じピッチャー出身だけに、そんな常識が判断の邪魔をしたのだ。
早稲谷が春に優勝出来たのは、直史の力だ。
もちろん直史が大乱調だった試合はあったが、そこから修正してくるのも早かった。
野球はチームスポーツである。
だが野球に限らずチームスポーツでも、中心となる選手はいる。
そこを勘違いして、選手の運用を失敗したから負けたのだ。
直史自身はまだ無敗記録どころか、無失点記録を続けているというのに。
今年の戦力は、明らかに投手力がアップしている。
梶原と葛西がいなくなったが、それと入れ替えに入ってきたのが、160kmを投げるサウスポーなのだ。
性格というか、待遇においては問題が発生しそうであるが、強力な戦力だ。
そしてもう一枚、細田がいる。
細田もこの冬を越して、さらにピッチャーとしての能力を高めてきた。
今の早稲谷は、ドラフト一位レベルのピッチャーが三人もいる。
そして新たな戦力はそれだけではない。新しく入る一年生から、どれだけの選手が伸びてくるか。
ただ問題は残っている。去年からずっと残って、解決しない問題だ。
直史をどう起用するかということである。
学業において明確な目標があるため、直史は練習に出ないことが多い。
グラウンドに出てこないだけで、見えないところでトレーニングをしているのは、ちゃんと分かっている。
しかしそれが、チームの中でしこりとならないかどうか。
案外あれだけ突出していると、別枠扱いでも納得されていそうだが。
あとは辺見の問題になるのだが、直史を故障させることだけは絶対に避けたい。
そのためには直史とのコミュニケーションが必要なのだが、それもまた特別扱いにならないだろうか。
考えすぎて、やはり胃が痛くなる辺見である。
二月の後半に入ると、オープン戦が行われていく。
そしてベンチに直史はいるのだが、やはり二月の上旬には練習に出てくることが少なかった。
何をしていたかというと、学部のサークル活動に参加していて、そちらが忙しかったのだとか。
野球に全てを捧げたような辺見には、どうしても納得しがたいのだが、直史は野球に囚われていない。
体のキレなどを見れば、真摯に己を鍛えているのは分かる。
だが、世の中にはいくらでも、直史よりも努力をしている者はいる。それこそ故障するほどにやりすぎてしまう者が。
直史は結局、効率的にやっているのだ。
精神的な鍛錬など必要なく、技術と基礎体力を向上させる。
それが直史のやっていることだ
それに比べると武史の方は問題はあるがはるかに分かりやすかった。
この素材は直史以上のスペックを備えていながら、そもそも野球に対する愛着が全くない。
楽しむためにやっているだけで、辺見が信じる野球に必要なものを、全く備えていないのだ。
しかしプロにまで進んだ辺見には、こんな選手がいることも分かっている。
外国人選手はこんな感じなのだ。
実際のところ、新入生も含めた紅白戦を行うと、キャッチャーのリード次第ではあるが、武史も簡単にバッターを抑えてしまう。
バッターとして打てるのは、西郷ぐらいである。あとは、樋口か。
ただし樋口がバッターの場合、武史をリードするのは当然樋口ではない。
樋口がリードすれば、おそらく樋口でも武史は打てないのではないか。
春のリーグ戦を前にして、オープン戦が始まろうとしている。
とりあえず相手になるのは、昨年の全日本の決勝で敗北した、東亜大学である。
一軍はこちらの球場で、二軍はあちらの球場で行うことになってるが、樋口に二人の相手をさせるため、細田と伏見のバッテリーを、二軍の方へ送ることになる。
この二人にしても、リーグでは屈指のバッテリーだろう。細田の通算勝利数などは、三年になってからどんどん積み重なっている。
佐藤兄弟と細田。この三人ともが、完投能力を有している。
むしろ武史の、スロースターターぶりを知るに連れて、辺見はこれを先発以外では使えないなと判断することになる。
直史の方をクローザーとして使うべきだろうか。
その実績はある。去年の春のリーグ戦だけではなく、高校時代のワールドカップだ。
12イニングを投げてパーフェクトという、とてつもない実績だ。
それに直史は、大学に入学してからも、リリーフをしてはヒットを打たれたことがない。
先発として15回を投げて、翌日も九回を投げきった完投能力。
それは確かに有しているものだが、直史の本質としては、クローザーが向いているのではないか。
単純に能力だけではなく、その精神面までも含めて。
辺見の贅沢な悩みは、まだまだ終わらない。
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