第60話 イリヤの導き

 推薦で進学が決まっている武史と違い、双子の妹である桜と椿は、東京大学を普通に受験する。

 日本の最高学府を受験する二人は、この年末、MHKの紅白歌合戦に出ていた。

 友情出演でケイティが出ているが、彼女には車代しか出ていない。

 普通に一億ぐらいは必要なミュージシャンなのだが。


 本人的には年末の、ドームコンサートのついでである。

 S-twinsとイリヤの四人で、二日間のコンサートが彼女のお仕事であった。

 そんな忙しい日々を過ごしながら、普通に東大を受験するのがツインズである。

 なお合格判定は余裕のA判定である。


 なんだかんだ言って、常人の範囲内の秀才が全力を尽くして到達する場所を、あっさりと蹂躙するのがツインズだ。

 そんな二人が生まれて初めて、同格のレベルにあると認めたのだ、権藤明日美である。

 イリヤはまた別だ。あれはレベルではなく次元が違う。


 その権藤明日美は天真爛漫な性格と、自由奔放な行動から誤解されることが多いが、とんでもなく学業成績もいい。

 偏差値が70ある、聖ミカエルの難関国立進学クラスに入れるのは、並ではないのだ。

 それでも身体能力に比べれば、頭脳の方は秀才レベルだ。

 よって真面目に勉強をしている。


 ツインズは東京で仕事があると、そのまま西に足を伸ばす。

 だいたい明日美と勉強するのが目的であるが、実際には邪魔しないだけで、まともに勉強などしない。

 教科書を一度見て、過去問を一度解いたら、軽く合格レベルに達するのが、この二人のレベルなのだ。




 なおイリヤの場合は、東京までは同行しても、そこからの行き先は違う。

 明日美とは別の道、芸大の音楽科を受験する、恵美理の元へ向かうのだ。


 神崎恵美理はかつて天才と呼ばれて、実際に多くの国際的なコンテストを席巻した、確かに才能に溢れた少女であった。

 専門はピアノで、ヴァイオリンも得意とし、ちょっと毛色の違うトランペットやドラムまでいけるという、指揮者の父を持つ少女だ。

 その受験の特殊性故に、実家に戻って家庭教師を雇って準備している。

 芸大の受験は過去の経歴などに、学業成績も重視されるが、やはり何より実技が大切である。

 恵美理の場合は、ブランクがあるのを取り戻すのが大変だと思っていた。


 だが、イリヤがいる。

 イリヤがもう一つのピアノを弾けば、それと連弾する恵美理の音が、自然と引き上げられていく。

 現在のイリヤは本当に体力がなく、30分も弾いていれば休憩をいれなければいけないのだが、それでもこの引き上げは多い。


 本格的に音楽をやるというのは、野球との決別を意味する。

 ピアニストの指は、強靭であると同時に繊細である。

 明日美のスピードボールをキャッチするのは、もう危険すぎるのだ。

 そんな恵美理の上達、あるいは復活度合いには、家庭教師も顔を引きつらせるものがある。


 天才の復活。

 それを目の前で見ているわけだが、イリヤの方が規格外すぎる。

 指の動きの滑らかで力強いことは確かなのだが、明らかに力を抜いているはずのその指から、感情の迸りが見える。




 思えば、不思議なものである。

 たった一人の行為が、世界を動かすことはある。

 世界を動かすことの出来る者が、連鎖して動いて世界を変えていく。

 白富東高校の、究極的には佐藤直史の存在が、セイバーを野球部運営に関わらせ、イリヤを音楽の道に引き戻し、そして才能を持て余していた双子に枷をはめた。


 あのままであったら、セイバーはただ享楽のままに市場の数字を操作して、影響は与えても何も残さない存在になっただろう。

 イリヤは無気力の中で、過去の創作物から金を吐き出させ、死んだように生きていたかもしれない。

 双子は無意味に大介に付きまとい、その才能を、他の才能を縛るために使ったかもしれない。


 あの春、直史が投げたことが、セイバーを動かした。

 そしてセイバーがイリヤを動かし、ツインズを動かし、大介と上杉が噛み合って、今の日本のプロ野球の中心となっている。

 発端となった本人が、一番己の影響力を、無価値としているのが驚きではあるが。




 家庭教師のレッスンが終わり、イリヤとの楽しくも限界に近い連弾の後、恵美理は大きく息を吐いた。

 イリヤの方は酸欠に近く、途中で離脱してしまっていた。

 肺の片方を、半分ほども失うということ。

 人によってはもう片方の肺が肥大し、能力の低下を抑えることもあるらしい。

 しかしイリヤは天才だが、特異体質ではない。


 ミネラルウォーターを飲みながら、恵美理は尋ねる。

「何も聞かないのね」

「何を?」

「たとえば、またどうしてピアノを弾くことにしたとか」

 そう言われてイリヤは、少しだけ考えたような表情をした。

「また弾きたくなったんでしょう?」

「それはそうだけど」


 確かにそれも間違いではない。

 ただ、どうして弾きたくなったのか。

 そして、弾かなければいけないと思うようになったのか。

「貴方が、前のように弾けないのに、それでも弾くことを見たから」

 恵美理の自信と言うか、音楽に持っていた感情は、イリヤによって粉々にされた。

 自分では到達しようのない極限。それを簡単に弾いてみせる。

 才能の差とかではなく、もっと巨大で絶対的な格差が存在したのだ。

 そこで自分の音楽にも価値があると思えるほど、恵美理は強くはなかった。


 イリヤが音楽を失ったと聞いた時、恵美理もまた絶望したものだ。

 自分には到達しえない領域で、音楽を奏でるイリヤ。

 クラシックの範疇から逸脱し、それはもうイリヤとしか呼べない存在になっていたイリヤ。

 失われた才能の巨大さを思いながら過ごしていたら、復活した彼女の姿を見つけた。

 そして偶然と必然が組み合わさって、また二人は再会することとなった。




「春からは一緒に東京ね。貴方は芸能活動はしないの?」

 イリヤの問いに、恵美理は苦笑する。

 過去の栄光をなぞって、ようやく指が表現するようになってきたレベルで、何を活動するというのか。

 そもそも自分に、それほどの力がまだあるのか。

 イリヤによって砕かれたそれは、おそらくもう失ってしまったものだ。

「イリヤこそ、もうピアノだけは弾かないの?」

「ピアノは表現の手段の一つでしかないから」


 イリヤの思考は、常人のものではない。

「来年からはツインズに、直史と武史も一緒だから、嬉しいでしょう?」

 イリヤの挙げた名前の中に、恵美理が強く意識している男の子がいる。

 いやもう、大学生ともなれば、男の子という言い方は不適切か。

「武史と付き合うんでしょう?」

 そしてイリヤは爆弾を投下した。

「へ? え? え?」

 一瞬で赤面する恵美理である。

「あら? まだ付き合ってなかった? でも両想いでしょう?」

「え? え? え?」

 美少女が残念なことになっている。

「ひょっとしてまだ告白してもされてもいないの?」

「え? え? え?」

 イリヤとしては、告白は男からという価値観はない。

 彼女はバイセクシュアルであるため、そのあたりはカジュアルなのだ。


 しかし、いきなり代理告白をされてしまった武史は気の毒である。

 いや、これぐらいのことがないと、何も進まないのかもしれないが。

「ごめんなさい。甲子園で優勝したら告白するとか言ってたから、てっきり」

 ナチュラルにひどいイリヤである。


 しかしこれで、ようやく二人の仲は進みそうである。

 ヘタレと箱入りのお嬢様の恋愛は、周囲がこれぐらいやらないとどうにもならないらしい。

 だが別にイリヤは、親切なだけの人間ではないのだ。

「もし貴方が武史とくっついた時に、お願いしたいのだけど」

 ぺちぺちと顔を叩いて、のぼせ上がっていたのを冷ましていた恵美理である。

「私が子供を欲しくなった時に、武史の遺伝子が欲しいの」

「……なんですって?」

 一気に顔色が青白くなった恵美理が、珍しくもドスの利いた声を発した。


 だがイリヤは冷静である。

 いつも通りの、年齢不明の表情で、詳しく言葉を発する。

「最近、友人のところが精子提供で子供を産んだの。それを見て可愛かったから、私も欲しくなるかなと思って。もしそうなった時に、どうせなら知っている男性の遺伝子の方がいいでしょう?」

 イリヤの言っていることは、確かにそこだけを聞くとそれなりにまともなのだが、基本的な部分でおかしい。

 恵美理はあくまで常識的な価値観を持っているので、イリヤの感覚が分からない。

「普通に結婚すればいいんじゃないの?」

「もちろんそういう相手が出来たらいいけど、子供が欲しいタイミングで、そんな相手がいるとは限らないでしょ?」

 いや、それは普通は順番が逆なのでは?


 とりあえず分かったのは、イリヤが本気であるということだ。

 そして恋愛観については、恵美理とは理解しあえないだろう。

「別にセックスさせてとかそういうことじゃなくて、なんなら貴方たちが使ったコンドームの中の精液を分けてもらえたらそれでいいし」

「セ……」

 またも赤面するしかない恵美理である。

「そもそも前提として、貴方たちが結婚するまで付き合うとも限らないし、普通に武史は浮気ぐらいするかもしれないから、そこで提供してもらってもいいんだけど。ただ日本の場合だと精子提供者を選べないし、アメリカで選ぶとしても、全然知らない男の子供を産むのも変な気がするし」

 変なのはお前だ、とイリヤに言いたい恵美理であった。

 ただイリヤの場合は、周囲にいくらでも変人がいるので、本人が認識しないのも仕方がないのかもしれない。


 ともあれ、イリヤも反省したようである。

「どちらにしろ、気が早すぎたみたいね。他にも当たってみるから」

「はあ……。って、ちょっと待って。武史さんが私のことを好きなのは本当なの?」

 イリヤの言うことは信用がならない。会話の中で言われてことなので、かなり信用出来るような気はするのだが。

「本当だけど、あちらが告白してこない限りは知らない振りをするか、自分から告白することを勧めるわ」

「それとあと、その、遺伝子提供については、武史さんと話したりした?」

「したわね。武史とだったらセックスしても違和感はなさそうだし」

 イリヤの貞操観念は薄い。

「そんな……友人ぐらいでも、出来るものなの?」

「私は出来るわね。なんなら恵美理とでも出来るけど」

 そしてまた、顔色が青白くなる。

「え、イリヤって、同性もいける人?」

「この世界では珍しくないでしょう」


 ミュージシャンというのは同性愛者や両性愛者、はたまたジェンダー的な問題を抱えている者が少なくない。

 おそらくその自身の世間との乖離の苦悩が、音楽などの芸術性として発露するのだろう。

 もちろんごく普通の性的自認を持っている者もいるだろうが。

 少なくともイリヤの知る限りでは、ツインズは両性愛者だし、ケイティも両性愛者だし、早乙女律子などもそうだ。

 セイバーは元はストレートだったらしいが。


 しかし受験のためのレッスンだったはずが、ずいぶんとおかしな話になっている。

 受験前にこれだけ精神的に動揺していて、果たして大丈夫なのだろうか。

 おそらくイリヤは、そのあたりの優しさには決定的に欠けているのだろうが。




 ただ、おおよそは杞憂に終わった。

 恵美理は志望の学科に合格し、実家から通うことになる。

 明日美はその恵美理の実家に、下宿して大学に通うことになる。

 当たり前のように合格したツインズも、イリヤと同じ芸能人御用達の高級マンションに住むことになる。


 そして東京で再会した恵美理は、東京に出てきた他の知人たちと一緒に、武史も含めて合格祝いをすることにした。

 場所はイリヤのマンションで、パーティーが開けるぐらいの広さは軽くあった。

 なんでも家賃は60万円だとか。

 それを自分で、既に稼いでいるのだ。イリヤは。


 なお既に東京に出ている人間も、集まったりしている。当然のように直史と瑞希もいる。

 騒がしさの中、人いきれに少しのぼせた恵美理は、外の空気を吸いに出る。

「大丈夫? なんか酒飲んでる人もいたけど」

 明らかに法的にアウトであるのだが、ここは密室空間である。

 ドラッグをやってるわけではないのだから、芸能人的にはセーフである。


 追いかけてきた武史の姿を見て、少し雰囲気に酔っていた恵美理は、自然と言葉を紡いでいた。

「好きです」

 東京の夜景をバックに、はるか眼下の雑踏の音は聞こえない。

 武史は、ここで難聴系主人公になることはなかった。

 だが、ヘタレではあった。

 ヘタレではあったが、ヘタレすぎることはなかった。

「ああ~~~」

 顔を覆って、その場に蹲る。恵美理が返事を待っているのだが、その認識に重い至らないらしい。

「俺、何度も言おうとしてたんだけど、なんか間が悪かったり、勢いがつかなくて……」

 それでも立ち上がって、恵美理の前に出る。

「俺も、好きです。お付き合い、お願いします」

「はい」


 ほう、と息を吐く両者であったが、武史としては赤面の至りである。

 こいつはヘタレのくせに、告白は男がしなければいけないという、古い価値観は持っていたのだ。

「情けないな、俺。もっと早く言うべきだったのに」

「あの、でも私も、イリヤから聞いてたから」

「へ?」

「だから、好きでいてもらっているって聞いてたから、告白できただけで」

「……イリヤ~!」

 屋内に怒鳴り込んでいく武史は、自分が恵美理とイチャイチャして、上手く行けばそのままキスぐらいには到達したであろうこと機会に、完全に気付いていなかった。

 イリヤが二人にとって、結果的にキューピッドになったことは、運命の悪戯であろう。




 かくして東京と、ほんの少しは違うところに、主役と脇役は集まった。

 長い長い助走を終えて、本当の物語は始まるのである。




   第四章 プロローグ 了



×××


 次章「ニューカマー」

 やっとくっついたけど、それも人任せってどうなのよ。

 それに主人公出てねーぞ。


 なお本日2.5で、ワールドカップ組のお話も投下されています。

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