第58話 閑話 向こう側の世界

 11月の末には、まだ直史は東京に残っている。

 相変わらず完全にマイペースの調整をしているのだが、どちらかと言うと自分よりは、小柳川の練習のように思える。

 カーブを何種類も捕る練習。

 そしてストレートとチェンジアップの使い分け。

 チェンジアップにしても、落ち始める地点や落差、変化の仕方が全く違う。

 中にはまるでナックルのように、揺れながら落ちるものもある。


 さすがにナックルチェンジは、樋口でも初見では捕れなかった。

「つーか、お前はどこまで手を広げるんだ?」

 樋口から見た直史は、完全に過剰戦力となっている。

 かつて高校生の中に一人だけプロが混じっていると言われた選手がいたが、直史の場合は変化球禁止のリトルの中で、一人だけ好き勝手に変化球を使っているようなものだ。

 ずっとこの一年バッテリーを組んできたが、直史の投球へのこだわりは異常だ。

 それ以外の部分も色々と異常ではあるのだが、簡単に言えばオーバースペックなのだ。


 直史が投げれば、一点を取れば勝てる。

 ただし直史が最後まで投げきるのが条件である。

 直史以外のピッチャーから、他のチームが打てるようになる可能性が高すぎる。

 そして打線の方も、直史が投げると得点力が下がる傾向になりつつあるのではないか。


 西郷や北村といった、特別な選手は違うが、選手の中に直史に対する甘えが見える。

 強いチームメイトに頼りすぎてしまい、勝利を掴むのに安穏としすぎているのだ。

 そしてそれを引き締めるのが、監督ではなくキャプテンとなった北村であったりする。




 樋口はふと、北村に訊いてみたりする。

「ナオがどうだったってか? う~ん……今とはだいぶ違うけど、とにかく試合に勝つことには貪欲だったなあ」

「今とは違うって?」

「あんなに色ボケじゃなかった」

「それをあんたが言うんですか」

 北村に遠慮のなくなってきた樋口である。


 北村の最初に出会ったときの直史の印象は、白富東に入ってくるような選手だな、というものであった。

 つまり野球をしているのにも関わらず、文化系の気配をまとっていた。

 そしてそのピッチングスタイルは、コントロール重視の技巧派。

 もちろんその変化球の多彩さには驚いたし、球速にしても一年生としては充分すぎたため、なぜこんな学校に来たのかと思ったものだ。

 単純に、通える範囲で最も偏差値の高い普通科を受験しただけという。

 なお、それは同時に、一番近い普通科でもあった。


 佐藤直史という人間の人格について、樋口は彼特有の視点から考える。

 たとえば女性関係について。

 恋人以外にはひたすら塩対応の直史と思われているが、彼が本当に忌避しているのは、ある程度タイプがある。

 年上の女性、化粧のケバい女性、胸が大きくて女性を主張する女性など、このうちの二つが当てはまると、まず対応は決まる。

 年上であってもあまり女性を主張せず、童顔の女性などには、親切な対応をする。


 あと、基本的にはクソ真面目で遵法精神が高い。

 ただこれは自身の立場を考えて、足元を掬われないようにしているようにも思える。

 性癖などを考えると、おそらく恋人への独占欲が高い。

 樋口や星などの知り合いはともかく、自分が知らない男性と話していると、すぐにそこに割り込んでいく。

 あれをやっていると女によっては束縛されるようで嫌だと言う者もいるらしいが、実際はその恋人の格による。

 とりあえずキープ的に付き合ってる男であると、独占欲が強くて嫌ということになるらしいが、イケメンがやったら正義である。


 生物学的に言うならば、女は容姿、頭脳、運動能力、そして社会的地位や将来性で、男を選ぶものである。

 これは自分と、自分が産む子供をよりよい環境で生活させるためには、強い男を選ぶのが正しいということで、間違いではないのだ。

 男が割りと、女に対して求めるものが少ないのは、種を撒き散らして多くの女に子供を育てさせることが出来るからでもある。

 樋口などはそういうタイプだ。ただ、直史は違う。




 変わったやつだな、と樋口は思う。

 樋口も別に好き放題に女を食うわけではなく、一番都合のいい女を見つけたら、その女以外は切ってしまう。

 ある意味で樋口は、セックス依存症である。

 ただ必要以上に女を求めるわけでもないので、都合のいい女が一人いれば充分なのだ。

 地元に帰れば、その都合のいい女が一人いることだし。


 お前もたいがいだ、とおおよその人間に言われるであろう樋口であるが、また今日も仲良く直史と一緒にテレビを見ている。

 放送されているのは、NPB AWARDSの中継である。

 要するに、今年のプロ野球の年間表彰式である。


 既に二軍の各タイトルは表彰を終えており、これからが本当の一軍のリーグの表彰をするものだ。

 もっとも今年のタイトルは、おおよそ決まっている。

 ただ、全てを大介が取っていくかは微妙である。


 とりあえずシーズンMVPである最優秀選手には、当然ながら大介が選ばれた。

 まあ大介が選ばれないとしたら上杉なのだろうが、今年の数字上の対戦成績だけを見れば、大介の勝利と言える。

 今年の月間MVPの野手部門は、全て大介が獲得したのだ。

 これは史上初のことであるし、連続獲得記録も更新した。

 他にはオールターMVPと日本シリーズMVPも取っているので、クライマックスシリーズMVPを同チームの足立が獲得したのと、交流戦MVPでチーム勝率が一位でなかったので取れなかった以外は、三つの代表的なMVPを独占したわけである。


 それはまあ、そうだろう。

 交流戦の後にあった記事を思い出す。


・半分強の74試合が終わった時点で本塁打25本。従来の新人本塁打記録は31本。

 最終的には59本まで伸ばした。失速どころか後半の方が多い。新人記録? 歴第二位ですが何か?

・同じく打点が83点、従来の新人打点記録は96点。

 最終的には190点に達した。日本記録更新である。半世紀以上更新されなかった記録を、ルーキーが更新した。

・同じく盗塁記録が45。従来の新人記録は56。

 最終的には72で、これは後半に落とした珍しい数字である。

・同じく四死球が70。従来の新人記録は97。

 127回で、これも後半は少なかった。ボール球でも構わず打っていった場合が多かったからだろう。

・同じく打率0.388。新人記録どころか、歴代シーズン記録と比べても二位。

 結局0.391で日本記録を更新した。一時は規定打席に到達した段階で、四割を超えていた。


 大介に送られるのは、正力松太郎賞もだ。

 例年であれば優勝チームの監督に送られるものだが、色々と記録を更新した選手に贈られることもある。

 大介の場合は実績が巨大すぎたので、まあこれも不思議ではない。

 あとはコミッショナー特別表彰や、ベストナイン、ゴールデングラブ賞などにも選ばれている。

 まあ初のルーキー、しかも高卒の三冠王で、守備における貢献度も高いとなれば、こういったものに選ばれるのも当然なのだろう。

 当たり前すぎて言う必要もないだろうが、新人王にも選ばれた。


 樋口としてはパの方に注目をしていた。

 無事に、と言っていいのかどうか分からないが、上杉正也が新人賞に選ばれた。

 終盤に脇腹の肉離れで離脱したものの、11勝4敗という成績で、シーズン優勝チームから選ばれたのだ。

 なお成績的にはやや正也を上回っているようにも思われた島は、特別表彰を受けている。




 白石のための一年であった、と人々は言う。

 ちなみに二年前には、上杉のための一年であったと言われていた。

 投打の輝く巨星が、プロの世界で競い合うことになったのだ。

 困ったことにリーグが同じであったため、パの球団はその恩恵に与ることが難しくなったが。

 興行的なことを言うのであれば、野手の大介の叩き出した経済効果は、上杉を上回る。


 この結果を知った直史は、特に表情は変えなかったものの、内心では思った。

 プロの世界もチョロいな、と。

「これで年俸いくらいくかな」

 直史としては卑近なものごとの方に意識がいく。

 こいつがそんなことを気にするのは珍しいな、と樋口は思った。

 だが直史としては、妹たちが大介とくっつくからには、婿の甲斐性は気になるのだ。

 もっともあの二人は、自分たちでも稼いでしまうタイプだが。


 周囲にいた学友たちは、金の話になると分かりやすいらしい。

「一億はいくだろ。上杉さんの二年目がそうだったし、白石の出した数字は、上杉さんを上回ってる」

 ただ上杉の場合、時代が違うので勝利数などは、さすがに過去を上回ることは難しいのだが。

「まあ、それぐらいはやっぱりいくか」

 直史としても不思議とは思わない。


 なんだかんだ言っても、野球の世界にもある程度の年功序列はある。

 ただそれは、過去の成績に対する信用度とも言えるのだ。

 もしこれがプロ五年目ぐらいで叩き出した数字であれば、最低でも三億はいっていただろう。

 三冠王で、しかも打点と打率の二つを更新したというのは、そういうものなのだ。




 直史はそんな大介の姿をテレビの中で見ながら、将来について考える。

「金だけを言うなら、MLBに行った方が稼げるよな」

「まあそうか。MLBのスカウトも注目してたんだろ?」

「MLBのスカウトというか代理人だけどな」

 MLBドラフトの対象内に、日本の高校生は含まれていない。

「ワールドカップを見た限りでは、間違いなくMLBにも順応出来るとは思うけどな」

「日本の他のピッチャーに物足りなくなっても、上杉さんがいるからな」

 ただ、その意味では真田が同じ球団になったことは微妙である。


 大介にMLBに対する興味があるかどうかは微妙である。

 元々上杉と対決するためにプロに行ったのだが、年間のシーズンで対決したのはわずかに四試合。

 クライマックスシリーズは、どちらもが勝ち進まないと対戦出来ない。

 大介がプレイオフであれだけの成績を叩き出したのは、相応しい相手が現れたからでもあると思う。


 直史から見たらシーズン中の大介は、そこそこ流して打っていた。

 おそらく下手に戦力を出しすぎると、勝負を避けられることが多くなりすぎるためだ。

 あとは一年目ということで、ペース配分も考えていたのだろう。

「まあアメリカに行くとしても、25歳になってからだな」

「なんでだ?」

 樋口は知らなかったらしい。

「簡単に言うとMLBは25歳になるまで、球団有利の契約が結べるからだ。それ以降なら青天井になるんだけどな」

「白石はMLBに行くと思うか?」

「どうかな……。上杉さんは日本にいるとして、真田とも対決がないんじゃ、アメリカに行く可能性はないでもない」

 MLBには球速なら、上杉に匹敵するピッチャーが一人いる。

 そして上杉以下ではあるが、NPBと比べてもピッチャーの質は高い。


 ただ、直史は確信している。

 大介はアメリカに渡ったとしても、今年と似たような成績は残すであろう。

 160試合もあるシーズンであっても、大介なら耐えるだろう。


 そんな直史を見ながら、樋口も考える。

 こいつがプロに行ったならば、どういうピッチングを行うのか。




 樋口は直史の出なかったオープン戦で、プロの二軍と対戦した。

 そして思ったのだ。直史なら抑えられるのに、と。

 もちろん二軍と一軍で実力差はあるだろうが、二軍を簡単に抑えられそうな直史が、一軍で通用しないことはないだろう。


 直史はプロ野球において、プロとしてプレイすることには興味はないが、高いレベルの相手と戦うことには興味がある。

 ただ樋口の感覚的には、二軍レベルであれば直史の相手にはならないだろう。

 しかしその二軍との対戦において、もし高いレベルで野球をすることに興味を抱いたら……。


 直史の人生設計は決まっている。

 それを変えようなどとは、樋口も思っていない。

 ただ、より高いレベルの、データの少ないチームを相手に、直史がどういう投球をするのかには興味がある。

「お前、来年は練習試合も出ろよ」

「出場機会の少ない人間に分けるべきじゃないか?」

「でもぶっちゃけ、六大のリーグじゃ物足りないだろ」

 本当にぶっちゃけてしまった。


 直史を打てるようなバッターが、少なくとも六大学にはいない。

 西郷などは、出会い頭でほんの少しは打てるかもしれないが、それでも失点二つながらないピッチングをするのが直史だ。

「楽しみ方は一つじゃないからな。来年はどんどん、80球以内完封を目指していくさ」

「連投しても平気で勝ちそうだな、お前は」

「連投しただろ、甲子園の決勝で」

 あれは15回パーフェクトの翌日に、九回完封であった。


 高校生の中にも、既にプロで通用するような選手はいる。

 そんな選手が金属バットを持っている中で、直史は当たり前のようにアウトを積み上げていったのだ。


 樋口の目から見ると、直史のいるべき世界は、このテレビ画面の向こう側のような気もする。

 だがそれを言うなら自分だって、高校時代にはプロの調査書が全球団から届いていたのだ。

 もし自分が、と樋口は考える。

 プロの世界にいたとしたら、大介をどう抑えるか。

 単純に、抑えるためにはある程度の力のピッチャーがひつようなのだが。


 直史となら、とも樋口は考える。

 白石大介という怪物を、二人ならば抑えられる。

 そもそも高校時代の紅白戦などでは、直史の方が対戦成績は上回っていたのだ。




 とにかく、激動の大学一年目は終わった。

 分かれた道の、プロの激動の一年も終わった。

 来年からはまた、顔ぶれを変えて、色々と生活の風景が変わっていく。

(まあでも、こいつは当たり前のように、完封は続けていくんだろうな)

 樋口はそれを、当たり前のように想像できる。


 直史が、本当に野球を、限界の意味で楽しみたいなら、画面の向こうの世界へ行くしかない。

 ただ強い相手と戦うという意識を、どれだけまだ持っているのか。

 直史は入学以降は、プロ意識をもって試合に臨み、勝つことだけを楽しんでいる。


 直史をプロの世界へ誘うような、魅力的なものは何もない。

 ある意味で直史は、もう満たされているのだから。

 残り三年。

 直史と樋口が、ある程度の本気を出して野球をする時間は、それだけしか残っていない。

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