第44話 閑話 青空へのエール

 ※ 続・白い軌跡の37話を先に読むことを推奨します。




 ×××




 七回の攻防、白富東は一点を先制し、その裏にすぐ大阪光陰が同点に追いついた。

 なんだか観戦する直史としては、不思議な気分である。

 彼が現役試合の時、大阪光陰と戦うと、必ずどちらかが完封されていたからだ。

 神宮はともかく、センバツも両方のチームが失点していた。

 もっとも真田がセンバツの決勝に出られていたら、やはり神宮と同じように、1-0で負けていたのかもしれない。


 真田からまともに点を取ったという点では、このチーム体制になってからは初めてのことだ。

「打つとしたら右バッターだと思ってたんだけどな」

 真田が甘く見たのと、悟のセンスが合わさって、得点に結びついた。

 鬼塚の外野フライからの走塁も、そのあとのホームへの走塁も、かなり隙を見逃さない性格をしている。


 直史はあそこまでアクロバティックな走塁をしないので、あんな発想で一点を入れるのには驚いた。

 大介の抜けたショートは、完全に埋まっている。

 あの日、スポ選の実技試験の後に投げたことは、無駄ではなかったようである。




 イリヤは観戦していた。

 そして少し退屈していた。

 武史のピッチングは素晴らしいものだが、予想から隔絶したものではない。

 直史のような、わずかにでも音を外せば終わりのような、静謐な緊張感がないのだ。

 それでもすごいことをやっているのだと、理解は出来る。

 だが心が動かない。


 武史なら、これぐらいはやるだろうと思っていた。

 なんだか夏の前から、色々と期待を背負ってらしくないような感じはした。武史らしいと思えたのは、あの初戦での完全試合達成未遂くらいだろうか。

 あれは笑わせてもらった

 ただなんだか、武史には無理なことを、やっているような気はした。


 武史は、直史ではない。

 同じ速球派の上杉でもない。

 もっと漠然としていて、どこか頼りがなくて、甘っちょろいところが面白い、そういうタイプであったのに。

 背伸びをしているのだ、とイリヤは思う。

 武史は誰かと一緒でないと、何かを達成することは出来ない人間だ。

 別にそれは悪くはない。人間には向き不向きがある。ピアノの演奏を独演する者もいれば、バンドを組んで演奏をする者がいてもいい。


 ポテンとヒットを打たれてノーヒットが途切れるのは、武史らしい。

 学校もそれ以外も、武史には期待しすぎている。

 彼はそんな人間ではないとはっきり分かっているのは、おそらくは佐藤家の人間だけ。

 そして一応は自分もか。


 エースらしいピッチャーと言うなら、イリヤはむしろ淳の方がそうだろうと思う。

 なぜそう思うのかは言語化しづらいが、マウンドに立っている時の姿でそう感じるのだ。

 聴覚ではなく視覚情報に頼るのは、彼女らしくない。

 だが自分らしさなどに囚われることを、イリヤは望んでいない。




 お互いに点数が入るのも、イリヤは静観していた。

 ゲームとしては面白くなった。だが、彼女の見たかったのはもっと別のものだ。

「本気出てないなあ」

 イリヤの洩らした言葉に、水分を補給していたツインズが反応する。

「まあタケだからね」

「一生あのままじゃないかな」

 ひどいが、ある程度は本当のことだ。


 イリヤにしても、才能をどうやって表現に結び付けるかは、大変な力がいる。

 自分のなかからそれを引き出すのに、一時的に目が見えなくなったり、片方の耳が聞こえなくなったり、声が出なくなったりもした。

 何かを生み出すということは、自分にとってはそういうことだ。

 おそらく武史はまだ、自分の限界を知らない。

 そのずっと手前で、とどまってしまっている。


 それでも試合は続く。

 終局に向けて、状況は流れていく

 灼熱の太陽の下、マウンド、グラウンド、ベンチに観客席。

 この舞台の中で、武史は主役として主張してもいいはずだ。


 イリヤにとって音楽というのは、才能によって規律正しく構成されたものではない。

 自分の中に染み込んだものを、魂を削るような思いで搾り出すものだ。

 大袈裟ではなく、一つの曲を生み出すのは、生命を生み出すのと同じぐらいの力がいる。

 スポーツの中の精神論などとは全く別のベクトルだが、イリヤは人間の精神の生み出すものを信じている。




 九回、これでこの試合は勝てるのだろうと思った。

 だがここまでには、まだイリヤの求めているものが演出されていない。

 優勝という、この最後の舞台を、最高に演出するには、まだ充分ではない。

 武史の力が、もっといるはずなのだ。


 そして、武史は揺らいだ。

 そんな武史は、イリヤは見たくなかった。

 何かを伝えるのに、イリヤには手段がない。


「武史さん、大丈夫でしょうか」

「これはもう、いっそ歩かせた方がいいかもな」

 そんな直史の声に振り返れば、恵美理と彼女のトランペットケースが目に入る。

 今日は直史と話をしているため、彼女はこれを演奏していない。


 違う。今は話している場合ではないだろうに。

「借りるわよ」

 そう一言告げたイリヤは、恵美理のトランペットを取り出す。

 今の自分に、どれだけの力が残っているのか。それも不安であったため、客席の一番前に進み出る。

 そして吹いた。


 トランペットの一音は、武史に届いたようだった。

 だがイリヤには、何かを伝える手段がない。


 言葉がない。音楽がない。

 自分の魂を伝える手段が、今のイリヤにはない。

 だから仕方がなかった。

 アメリカ式の、とにかく相手を怒らせるポーズ。


 中指をおったてる。

 これは情けない投球を見せられている、自分の怒りではある。

 だがこんなつまらない表現しか出来なくて、イリヤは恥ずかしくてすぐに背中を向けた。

 音楽だけではなく、聴覚情報で意思を伝達できない自分が、ひどく情けないと思ったからだ。

「ありがと」

 そしてトランペットを返したのだが、恵美理は目をまん丸にしていたし、直史は苦笑するのを必死で堪えていた。




 イリヤは視線をグラウンドに、マウンドに戻す。

 視覚情報に対して反応の薄い彼女だが、確かに武史がこちらを見た気がする。

 

 怒っている。

 音楽以外で自分が、他の誰かの感情を動かせるとは思っていなかった。


 武史が怒っている。

 まるで子供のような、感情の発露をマウンドから感じる。

 それは下手に大人ぶっていた、直史たちが引退後の武史に比べれば、ずっと好ましいものだった。

 子供のままでいい。今はまだ、そのままでずっと、自分の力を信じていけ。

 下手に投げてどうしようもなくなるぐらいなら、せめて打たれて潔く散ってほしい。


 カウントは明らかに、ピッチャー有利だ。ただ後ろの席で直史が、特大のファール二つについて解説をしていた。

 だが直史は分かっていない。武史は、直史ではないのだ。

 近すぎて気付いていないのだろうか。そう思いながらも、イリヤはマウンドを見つめる。


 届いた。

 自分の、他人の感情を好き勝手に支配したいという、どうしようもない悪癖が、武史にとってはプラスにつながる。

 今の武史の状況が、ようやくイリヤには納得のいくものになった。

 この最後の夏、武史は変なことを考えず、ただ思いっきり投げればいいのだ。


 終演へと。

 イリヤは、それを見届けた。

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