第34話 大学生を取り込む迂遠で利他的な陰謀

 甲子園に向かった白富東の選手であるが、直史はさすがにパンダのマスクをしてバッティングピッチャーをするわけにもいかず、普通に応援に行く予定であった。

 今度は完全に観客であるので、ついでに大阪見物もする予定である。

 少し足を伸ばして京都まで行ってもいい。

 修学旅行で来たことのある場所ではあるが、あの時は団体行動であった。

 ややマイナーな観光地を、レンタサイクルで回る。こちらは瑞希の体力的にしんどくて、バスでの移動に替えた。


 この時期は夏休みということもあって、観光客はそれなりに多い。

 甲子園の贔屓を応援する間に、京都まで観光に来る者もいるのかもしれない。

 そもそも直史たちがそうであるが。

 旅館の予約もちゃんとして、もしこれで白富東が一回戦で負けたりした、本格的に観光旅行になってしまう。

 それはそれでいいのだが。


 ただ、布団の上で寝転んでいる瑞希は「なんだか新婚旅行のような」などと思っていたりする。

 婚前旅行であるのは間違いない。

 帯をくるくる回す遊びをしていた直史であるが、スマホが震える。

 誰かと思って表示を見れば、久しぶりの連絡である。


 普通に電話に出ると、話は進んでいく。

「ええ、はいそうです。はい。はい? そうですね。瑞希も一緒でいいですか? 分かりました」

 ここからめくるめく官能の世界を期待していた瑞希は、少しタイミングが悪かったな、と思っていたりする。

「セイバーさんからだった。白富東の試合、VIPルームで一緒に見ないかって」

「セイバーさん? 私も一緒に?」

「それは構わないって」


 瑞希にとってセイバーは、外見からは想像も出来ない、大人の強さを身につけている人間である。

 大人の強さというのは、社会的な強さだ。その社会の中で、どのあたりのカーストにいるかということだ。

 そして複数の社会に跨って存在している。

 甲子園に直史が応援に行くにしても、どこからか話を耳にしている。

「でも甲子園にVIPルームになんてあったのかな」

 直史はスマホで調べてみるが、確かに存在する。

 だがそれはプロ野球用で、企業が利用するロイヤルスイートだ。高校野球は球団の開催ではないので、使えないはずなのだが。


 まあ、それはまた聞けばいいことだ。

 そして直史は布団の上で瑞希の帯をくるくると巻き取り、珍しくも無邪気に楽しむのであった。




 直史と瑞希が案内されたのは、ネットで調べた特別通用口ではなく、従業員専用の出入り口であった。

 そして案内されたのはロイヤルスイートとネットでも紹介されていた、完全に企業向けの、一般には販売していない席である。

 そもそもこれを利用するのがプロ球団なのであるが、新聞社のお偉いさんなどは、高校野球でもここを使っているらしい。

 また世の中の秘密を一つ知ってしまった直史と瑞希である。

 書けない事実を知ってしまった瑞希であった。


 席にいたのはセイバーの他に、秘書のような男が一人、そしておっさんが二人である。

 そういえば、ここ最近はセイバーにあまり会っていなかったが、早乙女の姿を目にしていない。

 デリケートな問題なのかなと思ったが、普通に人間関係の挨拶として訊いてみる。

「早乙女さんは?」

「育児休暇です。彼はその間の代役の秘書ですね」

「それは……おめでとうございます」

 いつの間に結婚したのか、それと相手は誰なのかなどは、質問しない直史である。


 そして他にその部屋にいたのは、高校野球関係者でもなく、大学野球の関係者でもない。

 千葉でクラブチームを経営している人物と、その監督であった。

 白富東の試合が始まるまでに、話が進む。

「直史君は大学卒業後どうするのですか?」

「変わってません。弁護士を目指します」

「訊き方が悪かったですね。野球はどうするのですか?」

 そう問われて、この他のおっさん二人がここにいる理由が分かった。

「社会人野球と違い、クラブチームには給料は発生しませんから、副業規定にも違反しませんよ」

 セイバーは直史をまだ野球に関わらせるつもりであるらしい。

 もっとも直史も、クラブチームというのは選択肢の中にあった。


 現在の日本は一時期ほどではないが、企業の社会人野球チームは減っていっている。

 それに対して増えたのが、独立リーグとクラブチームである。

 独立リーグはまだしも給料が出たり、寮があったりするが、クラブチームは完全に大人の習い事である場合が多い。

 だがそれでもスポンサーとなる企業が設備などを用意してくれて、草野球に比べたらはるかにいい環境でプレイすることが出来る。


 直史が大学で選手をやっていられるのは、四年生までだ。大学野球は年齢ではなく、在籍期間でその上限が決まっている。

 その後は直史も、手塚の野球サークルに混ざるか、クラブチームに入るかは考えていた。

 おそらく忙しくなるので、ほとんど練習にしか参加出来ないだろうが、それはそれでいいのだ。

 仕事がちゃんと出来るようになってきたら、弁護士というのはある程度時間の自由が利く。

 クラブチームは都市対抗などに出る可能性もあり、名門の社会人野球チームと練習試合なども行う。

 直史は野球を楽しみたいが、出来ればより高いレベルで楽しみたいというのも本音である。


 このクラブチームは千葉を中心に茨城、埼玉、東京の介護福祉サービス、株式会社マイライフパワーのバックアップを受けている。

 選手の過半数はこの会社の社員であり、仕事をしながらその後に練習をしたり、有給を使って試合に出ていたりする。

 実質的にはこの社員たちは、社会人野球に近い立場だ。

 ただそれ以外の人間の入団も受け付けており、関係者から関係者へ、情報は伝わっている。


 セイバーがこのチームを紹介したのは、単純にチームの練習場が、瑞希の父の事務所から近いからというのもある。

 近年都市対抗の予選で名門社会人チームを破ったこともあって、それなりに強いチームだ。

 何よりこのクラブチームは、練習を強制しない。

「介護施設の一部にリハビリ用の設備があって、そこをトレーニング用に使えるのも魅力ですね」

 なるほど、確かに介護は力仕事かもしれない。

 またチームのメンバーの中には、栄養士の資格を持っている者もいる。介護施設などでは必要となるものだ。


 大人になってからでも野球を楽しむという点では、確かにありがたいことである。

 費用は月に3000円で、明らかに施設などを維持するには足りない。

 会社の社長の持ち出しは絶対にある。

 企業チームとしては無理でも、それでも野球の出来る場所を与えたい。つまりそういうことなのだ。

「大学卒業後の俺を必要としてくれてるということですか」

「だってもったいないもん。佐藤君、明らかに天才だし」

 社長と監督が顔を合わせてにっこりと笑う。

「まあクラブチームも現在は社会人チームと同じだから、もしプロを目指すにしても、二年間は無理になるんだけどね」

 そういう制限はあるが、直史としてはそれは構わない。

 ただ、自分が野球ばかりをしているわけにはいかないだろうということは、当然ながら考えていた。

「僕は卒業後、こちらの瑞希さんと結婚するつもりで、もし子供でも出来たら、やはりそちらを優先するとは思います」

「そりゃそうだね。間違っちゃいけないのは、クラブチームは練習を強制する場所じゃないんだ。野球がやりたくて仕方がないから、野球をしにくる。自己責任だ。あ、でも在籍している間は、部費は払ってもらわんといかんけどね」

「社長、いっそのこと保育園とかにも事業拡大してみたらどうです? 特に子供がいる社員にしたら、安心して野球をする理由にもなりやすいですし」

「いいね! さすが名監督!」




 セイバーの目的は、とにかく直史と野球の接点を切らさないことである。

 そして直史のためには、ある程度以上のハイレベルな野球環境を、整えないといけない。

 他の仕事をする、アマチュアのスーパースターがいてもいい。

 オリンピックに野球が復帰できたら、直史はプロに混じってでも選ばれるだろう。

 このクラブチームは本当にセイバーの作為がなく発見したものであるが、まるで直史に野球を続けろと言っているようではないか。


 もしも将来、何かの理由で直史が野球に全力を投入するようになっても、それまでに鈍っていたらさすがに通用しない。

 大学の四年間はともかく、ほぼ最短に近い年月で弁護士になったとしても、そこからまた時間を自由に使えるようになるまで、二年のブランクは空く。

 二年ものブランクがあれば、さすがの直史でも勘を取り戻すにはかなりの時間がかかるだろう。

 そこへ最適な環境を与えられるのは、間違いなくこのチームである。


 この日、直史と瑞希は、快適な時間を過ごした。

 高校野球や大学野球の、アマチュアで自分が望んでいるはずにもかかわらず、なぜかやらされている感が強い野球。

 それをこの社長と監督からは、全く感じない。

 これもまた、野球の一つの形だ。

 現在では高校野球は甲子園を狙うのが主流で人気すぎて、それ以外に高校生がガチの野球をするルートは、現実的には存在しない。

 だがセイバーは、おそらく名門強豪などでは開花しなかった直史や大介を、ずっと見てきた。

 おそらく日本だけではなく、関東を見ただけでも、そういった選手はいるだろう。

 高校野球以外に、アマチュアのルートがほしい。さもなければ高校野球の練習環境は、まだまだ変わらない。


 そして瑞希は、また直史の歩む未来に、野球が関わってくるのを当然のように受け止めていた。

 直史はいつでもどこでもだいたい、ぐたっとしていてもかっこいい恋人であるが、やはりマウンドで一人立っている時が一番瑞希は好きだ。

 レベルやゾーン分けはどうでもいいが、直史は体が動く限りは、野球をしていてほしい。

 そしたらまた瑞希はそれを本にして、夢の印税生活を送るのだ。……いや、冗談であるが。


 瑞希は色々と調べたのだが、高校野球はプロとの間に壁がある。

 プロという少なくとも日本国内では最高の技術を持つチームと、高校野球の間に接点がないというのは、学生野球の建前から考えても、今の時代ではおかしいのではないだろうか。

 サッカーにはチームのユースなどがある。日本にも球団と関係のあるリトルのチームなどはあるのだが、それが高校野球で一度は完全に断ち切られる。

 おそらくこれは、高校野球の利権に巨大なものがあるからだ。

 まともな意味で社会派の意識がある瑞希は、この構造はどうにか変えないといけないのではと思う。

 しかしそれは、野球をしない自分の役目ではないであろう。




 真夏の甲子園で、高校球児たちが熱い戦いを繰り広げる。

 それを涼しい特別席から見物するというのは、限りなく贅沢なことである。

 高校球児たちの多くは、ひたすら甲子園を目指しているのだろう。

 それは否定する気はないが、それしか選択肢がないのは間違っている。


 高校野球の闇、大学野球の闇、それにドラフトの制限。

 最近では一部の球団による育成枠での飼い殺し。

 瑞希にとっては社会正義的に、セイバーにとってはマーケティング的に、有望な選手が埋もれている。

 様々なルートで選手は上のレベルを目指す。いっそのこといきなりメジャーに行ってもいい。

 プロでやる気はないが、高度な野球をしたいという選手は、直史以外にもいる。

 たとえば樋口なども、草野球ぐらいはやってみたいと思うだろうし、時間が使えるのならば教えたがりではあるのだ。


 それでも今は、まだ球界と言うよりは、日本の野球全体が変わる、夜明け前の段階だ。

 セイバーはここから、野球人口を回復させて、競技のレベルをアップさせて、MLBと対決できるぐらいの体制を作りたい。

 最初はもっと簡単な気持ちであったが、自分の中で事業化すると、これは巨大なスポーツの産業コンテンツとなってくる。

 MLBの球団は、選手の一年の年俸の総計が、200億を超えている。

 だが一説によると夏の甲子園の経済的な価値は、500億円以上であるともいう。放映権だけである。


 セイバーが白富東でやったのは、MLBにおける短期決戦勝利のメカニズムであったはずが、甲子園で勝つチームを作ることに変わっていた。

 頭髪は完全自由で金髪がいて、それについて何かを言われた時「私の髪も金髪ですが?」と答えてみた経験もある。

 全体練習は少なく、選手の適正に合わせたメニューを考案した。

 これらは金があるからこそ出来たと言えるだろうが、金がなければ本当に出来ないのか。

 今では情報は、知ろうと思えばいくらでも集められる時代だ。古い野球監督などより、選手の方がよほど野球を分かっていたりもするだろう。


 そして甲子園以外の高校野球に価値が生まれたとき、日本の高校野球は本当に変わらざるをえなくなる。

 変えようとするのではなく、変えなかったら生き残れないという状態にしてしまうのだ。

 どんなスポーツであっても、間口が広くて出入りがしやすければ、競技人口は増えやすい。

 既存のルートを必死で守ろうとする人間もいるだろうが、それ以外でプロに送り出す手段が確立すれば、高校野球などを選ばずに、高校生のころからクラブチームに参加し、プロに入る者が出てきてもいい。

 選択肢を与えることは、子供に対する大人の義務である。


 そのために必要なのは、普通ではないルートをたどったスーパースター。

 大介はなんだかんだ言いながら、最も正規のルートをたどってプロへ行った。だが白富東というチームは一般的ではない。

 落合のように紆余曲折を経て三冠王になるプレイヤーがいてもいいし、江川のように三度も意中の球団以外から指名されるのもひどいことだし、野茂がプロですら監督と合わずに地力でメジャーへの道を切り開いたのも偉大である。

 直史は、今はとにかく勉強をすればいいのだ。

 だが、人生には何かきっかけがある。その時に、ルートをしっかり用意しておく。

 セイバーは遠大な計画を立てているが、その計画は邪悪なものではなかった。

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