三章 大学一年 野球をしない男

第33話 自主的シーズンオフ

 この夏、直史の課題はただ一つ、現在の技術を全く失うことなく、球速を上げることである。

 リーグ戦などはない夏であるが、練習試合などはそれなりに多い。

 だが直史は完全にこちらには参加しない。

 直史の知る限りでは、適切なフィジカルトレーニングをしながら、同時に実戦も行うのは不可能であったので。


 普段は直史に合わせることの多い樋口だが、この夏は野球部にしっかり参加していた。

 別に喧嘩をしたとかではなく、野球部の遠征先が、故郷の新潟県であったからである。

 新潟にはプロ球団こそないが独立リーグのチームがあり、立派な県営球場がある。

 最大規模のものでは三万人が入り、プロ野球の興行も時折行われているのだ。

 地元の独立リーグのチームとの試合もするわけで、もし直史がいないためにそこで惨敗したら、それはもうチームとして情けない。


 樋口としてはどうせ夏の盆休みには帰る予定だったので、向こうでついでに降ろしてもらおうというわけである。

 なんともマイペースであるが、効率的ではある。

 他の一年は普通に朝から晩まで野球漬けであるが、直史は休む。断固として休む。

 そのために早々に球速を上げたのだ。

 瑞希と一緒に千葉へ戻り、そこから夏祭りだの海だのを楽しむ。

 高校時代はやってこなかった青春を味わうのだ。


 野球の練習はこっそりと母校の練習に混じればいい。

 と言うか普通にバッティングピッチャーをやってやる予定である。

 甲子園も見に行くつもりだ。弟二人が出場しているのだから、当然応援に行かねばいけないだろう。

 そしてその後は自動車免許の合宿というのが、夏休みの過ごし方の予定である。

 もっともその中で何日かは、学校の法律サークルの予定も入っている。


 あくまでも直史にとって野球は、人生を支えてくれるものではない。

 少なくとも本人の認識としては、人生の一部ではあるが大部分ではない。

 真面目に勉強しようとしている学生に、野球ばかりやらせようとする方が間違っているのである。

 まあそんな法律系サークルも、完全に堅いわけではなく、合宿などもあったりするが。


 ちなみに直史が遠征に参加しなかったことによって、佐藤重傷説などが流布するのだが、まったくもって噂というのは度し難い。




 白富東は今年の夏もまた甲子園出場を決めた。

 直史としては全く気にしていなかったのだが、そういえば今年もそろそろかと思って試験期間中に見てみれば、いつの間にか勝っていたという感覚であった。

 武史が姿をくらまして東京にやってきたこともあったが、とりあえず今の地元は忙しい。

 白富東のご近所の商店街が、急激に活性化するのである。

 普通にグラウンドの見物にやってくる人に、色々と物が売れていくわけだ。

 その分ゴミが捨てられたりして、それを野球部員が拾っていくのがまたニュースになるわけであるが、レギュラーにはそんなことはやらせない秦野である。

「手伝えば次の練習試合、無条件でスタメンで出してやるぞ~」

 そう言いながら監督が率先してやっていけば、ゴミを拾うトングが争奪戦になるのである。


 直史は親戚の集まりのついでに海に行く予定だったのだが、秦野に捕まって甲子園のベンチ入りメンバーに関して相談を受ける。

 さすがの秦野もここまでチームの人数が増えてくると、高峰やコーチ陣と相談しても、そうそう決められないらしい。

 なおアメリカのコーチ陣は、年功序列を普通に優先する。

 逆じゃないのかと思えたが、そもそもアマチュアの試合なのだから、無理に実力順になど考えず、上級生に試合の機会を作ってあげるべきだというのである。

 もう何年も日本にいて、高校野球の実力主義も分かっている彼らだが、その基本的なスタンスは変わらない。


 アマチュアだから、とそう考えるのは直史にとっては新鮮であった。

 アメリカだと実力の世界だと思えるが、アマチュアでそれを求めるのは違うだろうというのがあちらの感覚らしい。

 直史としては、そう言われればそれでいいのかもと思わないでもない。

 ただ競技であるからには、勝利を最優先に目指すべきという意見も、日本では主流だなと考えるのも分かる。

 だいたいMLBの暗黙の掟など、相手に必要以上にダメージを与えて尊厳を傷つけないなどと言っているが、実のところは試合時間を短縮してさっさと休むためにあるものだ。年間160試合もしていればそうなる。


 結局秦野は、一年生のベンチ入りメンバーを削り、三年生を残した。

 直史たちの世代は、直史と大介は当然ながら、シニアからのガチメンバーは全員最後の夏をベンチで過ごしたので、それなりに満足ではあっただろう。

 実力が伴った年功序列で、それでも最後にベンチ入り出来なかった者はいる。

 秦野としては以前に監督をしていた頃も、ここまで悩んだことはなかったそうだ。

 私立は最初から、甲子園に行くべきメンバーが実力で選ばれるのが当然という認識があった。

 もっともその実力の差は、とても小さいものである。


 幸いと言ってはなんだが、一年生たちはまだ、体力的には不充分な部分はあった。

 だが来年からは、どうやってチームを構成していくか、その根本的な部分から考えないといけないだろう。

 しかしそれをしっかり作ったところで、秦野の任期は切れる。

 監督として戻ってくる予定の北村が、どういうチーム作りを理想としているか。

 ひょっとしたらそのジレンマで、胃を痛くするかもしれない。




 地元にいる間の直史の仕事は、上山を鍛えることであった。

 倉田も孝司も、直史の変化球の洗礼を受けているが、上山はまだ技巧派の最高峰と言えるコンビネーションを体験していない。

 逆に直史は、バッターには効果的だが、キャッチャーが捕球するのは難しい球も投げられる。

 さすがにグラウンドやブルペンで投げるとまずいので、室内練習場のブルペンをこっそりと使ったが。


 上山を鍛えるのは面白かった。

 そしてこいつのキャッチャーとしてのタイプは、倉田に似ているなと思った。

 体格としては倉田よりもさらに長身だが、体型はすっきりしている。

 だがキャッチングする時の安定感が、どっしりとしていて倉田に似ている。

 ジンや孝司などは、体を小さくしてミットに集中出来るように構える。

 どちらがいいというわけではないが、上山の場合はミットで捕れなくても、体で止めてくれるという安心感がある。


 実のところ、トニーの相性が、来年の正捕手になる孝司とはあまり良くないのだ。

 完全に気分的な問題なのだろうが、大きくおおらかに構えてくれる倉田の方が投げやすいらしい。

 キャッチャーなんかちゃんとキャッチングしてくれればそれでいいだろうと思う直史であるが、もしも初めてジンに投げた時のような、まともなキャッチャーに捕ってもらえる感覚に近いのなら、分からないでもない。

 トニーが上山に投げやすいというのは、ピッチャーに気持ちよく投げてもらうためにも、キャッチャーが研鑽されるにしても、いいことではあるのだろう。

 なお淳の場合は倉田より、孝司に投げた方が投げやすいらしい。




 直史はキャッチャーに対して投げるだけでなく、バッティングピッチャーもしてのける。

 ただ目立つとまずいので、やはり室内での練習となるが。

 驚いたのは鬼塚の成長である。

 正直なところ、自分たちがいた頃の鬼塚は、まだ便利屋的な悪い意味での小器用さがあった。

 だが今の鬼塚は、スコアを見ても分かるとおり、立派な長距離砲として成長している。

 あとは一年生の水上悟が、少し小粒にした大介といった感じで、かなりの打撃成績を残している。


 大介が突出していたことを除けば、今年の方が打撃面では隙がない打線を組めるだろう。

 だが来年まではまだしも、再来年はピッチャーが小粒だ。

 文哲の他に山村というサウスポーもいて、県強豪レベルなら確かに問題ないのだが、全国制覇を狙うには厳しい。

 秦野はピッチャーを多数用意して乗り切る手段らしいが、やはり投手力は去年が一番上であった。


 確かに球数制限がさんざん言われて、ピッチャー一枚に頼るわけにはいかなくなった現在、エース以外にもピッチャーは必要なのだ。

 壊れるならしょせんそこまでなどと言っていた時代ではない。

 壊れるのは単に無茶をやらせるだけ、あとは間違った投げ方を教えているだけと、はっきり言える時代だ。

 その証拠にMLBではなかなか壊れにくいピッチャーが出てきている。

 正確には壊れにくい技術的な要因であるのだが。


 かつてそれは違うだろうと思われていた技術が、時代の変化と共にむしろ合致してきたりする。

 それらを考えても、気温上昇で夏の甲子園は厳しすぎるが。

 大学以降ではそんな過酷な環境で試合をするのは一切ないのに、なぜわざわざ暑い中で練習をするのか。

 直史には全く分からないことである。

 使うカロリーに対して、身につく技術やフィジカルが少なすぎる。

 筋トレをするなりメカニックの修正なりをして、やるべきことはいくらでもあるだろうに。

 プロは夏の試合もあるが、おおよそナイターである。

 全員にプロへの道筋をつけるための、体力を叩き込むつもりなのだろうか。

 そういう体力より優先すべきことは他にあると思うのだ。


 根性論や精神論の大嫌いな直史であるが、後輩たちに向かって投げた、実戦を想定した球は300球を超えた。

 なんだかんだ言いながら、練習しないと上手くならないと分かっている直史である。

 秦野としても、大学に入ってからは高校よりはずっと色々なことをしているとは聞いていたのだが、明らかにレベルアップしている。

 高校時代の蓄積だけでも、大学レベルまでなら戦えるだろうと思っていた秦野であるが、こいつはいったいどこまで上手くなれば気が済むのだろう。

 社会に出ても草野球ぐらいは出来ると言っていた直史であるが、このレベルをぶつけるべき対象は、明らかに草野球ではない。


 単純に野球が好きだから上手くなりたい。

 だが別に野球を仕事にしたいわけではない。

 しかしこのレベルにまで磨き上げた技術で、どう楽しむというのか。

 社会人のクラブチームに入れば、都市対抗などのノンプロの最高レベルで試合をすることは出来る。

 だがおそらく、それでも直史の相手にはならないだろうし、あとはおそらくこれを捕れるキャッチャーはそうそういないのではないだろうか。




 直史が他にやったことと言えば、武史の進路の確認ぐらいである。

 ある程度早稲谷との話は進んでいたのだが、最終的に大学進学で決めていいのか、それともプロ待ちをするのかということだ。

 鬼塚のプロ待ちと違って武史の場合、大学の進学をやめてプロに入るということになれば、かなりの問題になる。

 もっとも白富東の場合の、指定校推薦などを使うなら話は別だが。

 高校入学後、武史の学業成績は落ちている。早稲谷に入るなら推薦か特待生しかない。


 ちなみに特待生ならば入学金や学費の免除はあるが、野球部をやめたらこれが発生する。

 直史の場合は返済の必要のない奨学金で、むしろ貯金を増やしていっているのだが、これは将来に備えてのことである。

 武史が最終的に何を目指しているのかは、直史も分かっていない。


 甲子園に向かうまで、自分がバレバレの正体を隠して後輩の練習に協力するというのは上手くいった。

 特に帝都一の水野は、ほとんど直史の劣化版である。

 球速さえも備えた直史に、優る部分は何もない。

 だが大阪光陰の真田は別だ。あのスライダーを左で投げられるはずはない。

 春に勝てたのは、相手が故障していたからだ。そんな話は確かにある。


 秦野に誘われて大阪光陰の映像などを見たのだが、むしろ直史は緒方の方に目がいった。

「センバツはこいつから打ったんですか」

「春の映像もあるけど、そうは変わってなかったな。だが……」

「伸び代がすごくありそう、ですか?」

 直史の言葉に秦野も頷く。


 大阪光陰は真田だけのチームではない。

 強打者としては後藤が、好打者としては毛利がいる。それに加えてこの緒方は、野球経験がまだ少ないという。

 体の使い方が、普通の野球選手とは違う気がする。

 バランスについていつも考えている直史だからこそ、そう気付いた。

 ただこのタイプなら、ツインズも気付いて良かったような気がする。


 秦野は大阪の夏の大会の映像も手に入れていた。

 あちらでは普通に決勝レベルならテレビでも放送される。

 難しい相手にはともかく、緒方の方が投げている割合は多い。

 大阪光陰は確か毛利もエース級に投げられるはずだが。

「こいつ、伸び具合が異常ですね」

「だよなあ」

 ひょっとしたら真田よりも厄介なタイプになるかもしれないと思う直史であった。




 千葉にいる間、瑞希は珠美の書いていた『白い軌跡』の続きを監修し、取材すべき相手などをまとめておいた。

 それが終わって、後輩たちが甲子園に向かえば、二人きりで泊まりの海である。

 直史はあまり練習に出ないというわけではなく、練習は違うメニューをしているだけだ。

 それもあって水着になっても、野球部焼けはあまり目立たない。

「去年に比べると白くなった」

 瑞希はそう言って笑うのだが、直史も負けてはいない。

「去年に比べても綺麗になった」

「……何を言うの」

 さすがに海に来れば、瑞希もメガネは外す。

 体型は高校時代と変わらずスレンダーなのだが、どこか女らしさを増していると思う。

 体重が変わっていないのは、しょっちゅう持ち上げて計っているので分かっている。


 青い空、白い雲。

 そして水着の恋人。

「こういうのでいいんだよ」

 誰にというわけでもなく、呟く直史であった。


×××


 昨今のピッチャーの壊れやすさには、肘の抜き方が関係しているようですね。

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