第15話 パレード
春のリーグ戦、第八週の日曜日。
早稲谷大学がここで勝利すれば、春のリーグ戦は終わる。
そして全勝優勝という、過去五回しか達成されていない偉業の達成である。
監督の辺見も、かなり長く監督をしているというのに、そわそわと落ち着きがない。
「いいか、ここまで一度も負けていないということは、普通にやれば負けないということだ。普通にやるだけでいい」
いや、それが難しいだろうから、どうすればいいのか伝えるべきだと思うのだが。
直史からするとプレッシャーを忘れさせてくれる指導者としては、セイバーが一番であった。
なにしろ彼女は、アマチュア野球の勝敗になど、何もプレッシャーを受けていなかったので。
「総力戦だ」
ここで勝てば全勝優勝。
早稲谷野球部のOBの間でも、一目置かれることになることは間違いない。
俗物だなあと思いつつも、別にそれを嫌悪したりはしない直史である。
「俗物め」
隣で小さく呟いた樋口の声は、聞こえなかったことにしよう。
いつも通りにクラブハウスからバスに乗って神宮球場へ向かうわけだが、それを見送る者もいる。
テレビは見ない直史であるが、ネットを探っただけでも、面倒なことになってるなとは思う。
スマホのSNSに自分の名前があると、全国の佐藤直史さんに申し訳ない気分になってしまう。
(大介の名前だって、そんなに珍しい名前じゃないけど、日本で一番多い佐藤とは比べ物にならないしなあ)
日本全国には佐藤姓が100万人以上いるが、白石姓は10万人以下である。
呑気なことを考えているうちに、神宮球場に到着する。
高校生の時の神宮大会もかなり観客は多かったが、やはり大学の早慶戦の方が盛り上がりは激しいのかと言うと、それは違う。
まず本日が日曜日だということもあるし、早稲谷が史上六度目の全勝優勝を賭けているし、甲子園のスーパースターが投げると思われているからだ。
(まあラスト三イニングも投げれば充分だろ)
そうは思うがスタメンが発表された時の球場の溜め息は、かなり大きなものであった。
直史が思うに日本の野球は色々と問題がある。直史たち選手にとっては指導者の問題と上下関係が一番めんどくさいものであるが、ファンの価値観もめんどくさい問題だ。
先発投手の完投を喜ぶし、クローザーはまだしもセットアッパーの存在など、昭和脳の野球ファンは理解していないのではないかと思う。
まあ自分も甲子園で延長再試合を全部投げ抜いたことがあるので、あまり偉そうなことは言えない。
ただ野球自体が変化しているのに、それを見る側も新しい情報を入れていないのでは、本当の意味で野球を楽しむとは言えないのではないだろうか。
もっとも娯楽と言うのは、ビール片手に団扇を扇いで楽しむ程度のもので、それを許さないお堅い物にしては、野球人気が落ちるだろうことも分かっている。
この日は前日と違い、早稲谷が先攻となっている。
ランナーが一人出た後、西郷がホームランを打ち、早くも試合は動いた。
「細田さんなら、三点あれば安全ゾーンか?」
「余裕を見て四点はほしいだろうな」
隣に座る樋口とそんな会話をする。
一発打たれて逆に気分転換が出来たのか、慶応の先発はそこからはランナーを出さない。
だが初回のこの二点は、かなり有効に働くだろう。
野球というのは、プレイする選手のためのものである。
草野球に価値を見出す直史は、そんなふうに考える。
その次に楽しむのが観客だ。プロ野球が興行である以上、それは確実だろう。
ただ大学野球と高校野球は、応援が楽しんでいる気はする。
特に高校野球は私立であれば全校生徒を動員したりするし、大学野球では応援団が全力過ぎて引く。
直史と樋口は、特に選手に声をかけるでもなく、淡々と試合を眺める。
大学野球はデータ班が充実しているが、だいたいこの二人から見ると、そのデータを活かしきれていない。
(いや、それは違うか)
直史はともかく、樋口はその認識の齟齬に気付く。
データを活かしきれるようなピッチャーは、直史ぐらいしかいないのだ。
梶原も葛西も細田も、持っている球種が限られている。
全てのバッターの弱点に、有効な球種を投げられるのは直史だけだ。
(つまり一つでも弱点があれば、そこを基点に攻められるわけだ)
味方となった今でも、化け物としか思えないようなピッチャーである。
(二度とこいつと戦わなくてもいいと思うと楽だな~)
なお、後に部内の紅白戦では戦うようである。
試合の展開は、ごく普通の野球ファンなら喜びそうな、点が入りそうで入らない、あるいはツーアウトからチャンスとなって点が入る、そういう状況が相互に起こった。
六回が終了して、細田の球威が落ちてくる。
「葛西、佐藤、ブルペン行け」
二人を出すということは、迷っているのだろうか。
点差は4-2で、一応はリードしている。
四年生のリリーフ葛西も、プロからの接触はあるらしい。
ここで結果を出しておけば、ドラフトへの最後の一押しになるかもしれない。
もっとも辺見はあんまりそんなことへの斟酌はなく、実力順に使っていくタイプだ。
自分もプロの世界にいただけに、そんな中途半端な評価でプロに行っても、大成はしないという考えである。
それでもプロに行きたいなら、ノンプロを経験してでもそこで己の価値を高めればいい。
ノンプロで圧倒出来ないような選手が、プロで通用するはずはない。
プロの育成の環境で花開く選手もいるはずであるが、その可能性を信じるならば、選手自らが奮起すればいいことだ。
ちなみに直史的には、葛西はプロにいっても、一軍で通用するのは一年か二年だと思う。
だがそれは今の段階の話だ。人間は20歳を過ぎてからようやく急成長する者だっているのだ。
無理はしないように、ゆっくりとキャッチボールを始める。
それだけで歓声が湧きあがる。直史の今期の成績を知っているのか、それとも甲子園以来のファンなのか。
まあ新聞でも色々と騒がれてはいるが。
早稲谷側のスタンドの応援の勢いが増し、七回の早稲谷の攻撃は、一点を追加してリードを広げた。
そして七回の裏は、葛西がマウンドに向かう。
葛西にチャンスを与えたと考えるべきか、それとも直史の球数を少しでも減らすべく、九回だけに投げさせるのか。
どちらでも直史のすることに変わりはないが。
七回の裏と八回の裏、慶応は一点ずつを返した。
5-4でわずか一点差のリードで、九回の裏、直史はマウンドに立った。
(まあこういうこともあるか)
葛西のピッチングは悪くなかったのだが、強いて言うならボール球が多かった。
カウントを悪くしてそこから置きにいって打たれる。下手をしたら逆転されていたかもしれない。
リリーフとしては失敗だ。単純に相手に点を取られただけでなく、流れが向こうに行ってしまっている。
七回と八回と連続で点を取って、ここからさらに追いつこうという流れだ。
もっともそんな空気を読まないのが、直史であるのだが。
「中軸からって、悪い冗談だ」
マウンドに近寄ってきた樋口は、相手のベンチを確認する。
三番から始まる打線は、確かに面倒だろう。
ただ問題なのは、五番に入っている竹中が、三番と四番に指示を出している点だ。
竹中は樋口に似ている。
冷静沈着で計算高く、理論を持った上で選手の力を引き出す。
だが決定的に違うところは、樋口はいざとなれば力ずくで突破するが、竹中は力に頼るぐらいなら迂回する。
樋口はピッチャーの力を信じるが、竹中はピッチャーに信じさせる。
頭脳派のキャッチャーは高校時代にも何人もいたが、直史が渡されたデータの中では、一番リード面を含むインサイドワークに優れたピッチャーは、竹中だという数字が出ている。
樋口より上だ。ただ、もう一人だけ、データの母数が少ないため、評価し切れなかったキャッチャーもいたが。
何か作戦はあるのだろう。
しかし侮るつもりはないが、一イニング限定の直史を打てるとは思えない。
樋口も高校時代、直史を打つための研究はしてきた。
そして一度は確信したが、いざ対戦した時には進化していた。だから打てなかった。
竹中が知っている直史のデータは、高校時代のものと、大学の六試合。
それだけで直史のコンビネーションを読みきれるわけがない。
読みきれるとしたら、樋口のリードだ。
高校時代の樋口のリードと、大学になってからのリード。
直史と組んでいたワールドカップまで含めれば、その傾向は見えてくるか。
「何を中心に組み立てるかじゃなく、バッターに応じて組み立てるわけだが、今日はそれは避けよう」
樋口の提案は、普段のものとは違う。
「バッターの弱点は考えない。自分の長所だけで勝負する」
「……俺の長所なんてないと思うんだが」
直史の言葉は謙遜ではない。
どの部分を取っても、弱点がないのだ。
「ストレートは基本的に避けて、変化球オンリーで組み立てる」
直史の配球を見れば、変化球投手ではあるが、ストレートさ三振か内野フライを取っている割合が多いのに気付く。
緩い変化球に慣らしたところにストレートを投げ込めば、その下を振ってしまうのも当たり前のことだ。
実はストレートも強力な変化球投手が、ストレートを封印。
「それで行こう」
直史も頷いた。
佐藤直史から連打出来る可能性は低い。
竹中はデータの分析から、それが分かっている。
ならばこの一点がほしい場面では、ホームランを狙っていくしかないのか。
しかし相手はそれも分かっている。
出会い頭の一発が怖い、高めのストレートは、いくらそれが効果的と分かっていても嫌うだろう。
思考のアプローチは違うが、結論は同じである。
だがそれを読んだところで、確実に打てるわけではない。
低めに決まったカーブを掬って、三番がサードフライ。
四番はスライダーで泳がせてファーストゴロ。
魔球を使うまでもなく、ツーアウトとなり最後のバッターである。
一本出れば同点。
だが竹中のパワーでは、読みきった上で叩かないとホームランにはならない。
そんな竹中に対して、初球は膝元のゾーンに決まるシンカーであった。
それほど投げる割合の多くない球種ではあるが、意外性はあった。
続いてはスローカーブ。これはアウトローに決まる。
打っても単打というボールとコースで、二球で追い込まれた。
ここからなら、ストレートの可能性もある。
そう思った三球目はアウトローのストレート。ドンピシャで手が出なかったが、ぎりぎり外れていた。
そして四球目はアウトローからボール球に外れるスライダー。これにも手が出そうになった。
並行カウントになり、ここはバッター有利。
インコースのボールがツーシーム気味に内角を抉ってきた。
これでフルカウントである。
フルカウントにした内角へのボールの後は、外の球で勝負というのが鉄則である。
さらに内角攻めを繰り返すという手もないではないが、明らかに今ので腰が引けてしまった。
思考の上では次は外だと分かっていても、それを打ちにいけるか。
体の反応には自信がないが、それでも外を意識はする。
樋口からのサインに頷いた直史が投げたのは、内へのベルト高のボール。
失投かあるいは誘いか。それを判断する前に、竹中は体に染み付いたスイングをしてしまう。
わずかに手元で沈んだのは、スプリットのはずだ。
弱いゴロがピッチャー前に転がり、直史はそれを難なく捕球。
一塁への送球が暴投になることもなく、キャッチしてスリーアウト。
試合終了であり、早稲谷の全勝優勝が決定した。
六大学リーグにおいて、全勝優勝というのは、過去に五回しか記録されていない。
これが六回目だとするとその長い歴史においては、非常に価値のあるものである。
一度負ければ終わりの高校野球が抜けていない一年生は、むしろこれには合っていたのかもしれない。
これにてリーグ戦は全て終了で、閉幕式が行われる。
そしてまたマスコミのインタビューがなされるわけだ。
直史の記録は、次のようなものである。
登板 7試合
投球回 33
打者 101人
球数 324
被安打 1
四死球 0
奪三振 46
失点 0
防御率 0
完全試合 2
丸々投げた三試合で、打たれたヒットがわずか1。
もちろんリーグ戦一期で二度の完全試合など、空前絶後の大記録である。
しかも先発したのはたったの三試合。防御率は0であり、まさにミスター0とでも言おうか。
歴史を変えた投球であったのだが、直史としてはこだわるのは、完封に抑えたかどうかである。
ホームランを打たれて一失点だけの準完全試合より、10本のヒットを打たれての完封の方が価値はある。
もちろん点を取られないためには、出来るだけヒットの数は減らしたい。
四球は球数も増えるのでもちろん減らしたいし、本塁打だけは防がなければいけない。
だがノーヒットノーランでも完全試合でも、点数を取られないことを考えた上で、結果的にそうなるだけである。
この後、タイトルの個人表彰と、ベストナイン表彰が行われた。
当然と言うべきか、まず防御率の一位は一点も取られなかった直史。
そしてまた、三勝無敗四セーブという数字によって、ベストナインにも選ばれた。
実は規定打席に到達していなかったのだが、樋口も打率で三位には入っていた。
散々長いインタビューを終えた後、優勝チームはパレードを行うことになる。
神宮外苑から大学までのパレードなので、はっきり言って面倒である。
準備が整ってパレードが始まるまでの間、直史は小六法を取り出し、既に憶えているはずのそれを、再度読み直したりした。
夕方ではなく夜の時間帯になり、一校はキャンパスに到着。そこでもまた学長などから挨拶があり、試合よりもずっと長いお祭り騒ぎとなっていた。
このまま祝賀会に突入であるが、早稲谷の学生は多いため、東京の一部が占拠されたような状況になっている。
直史としては皮肉な気分である。
甲子園の優勝の時などは、昨今の情勢を鑑みて、パレードなどは自粛されていたのだ。
だが大学でのパレードは別扱いらしい。
ちなみに一般投票においてはMVPの選出もされるのであるが、こちらの方も想像通りと言うべきか、圧倒的な得票数で、直史が選ばれた。
勝ち星の数では梶原の方が上だったのだが、それを決定付けたクローザーは直史なので、まあ妥当な選出であろう。
かくして大学野球、春のリーグ戦は終わった。
「では諸君も、来週からの全日本選手権に向けて、いっそうの奮起を期待したい!」
祝賀会では部長なども学長なども集まって、三年生以上は酒盃を手にしている。
もちろん未成年はウーロン茶である。なぜか酔っ払ったような者もいるが、ウーロン茶なのである。
直史としても将来の顔つなぎのために、ある程度の人間関係は構築していく。
基本的には不遜な態度の直史であるが、彼は田舎の旧家の惣領息子なのである。
面倒なご近所との付き合い方も、ちゃんと分かっている。
夜が更けていく中、さっさと脱出して瑞希のところへ行きたいな、と思う直史であった。
一年・春のリーグ戦 了
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