第14話 花の消化試合
直史は真面目な大学生である。
卒業後のことを考えて勉強はしっかりしているし、講師や教授にも顔をつないでいっている。
将来的には弁護士になるために、しっかりと対策を一年から行っている。
そんな直史の目指す現在の日本の弁護士事情は、実は弁護士が余っている状態となっている。
90年代から政府が予想した弁護士案件の急増に対応すべく、弁護士を増やそうと司法試験制度が改革された。
これによってシステムが変わり、弁護士の数は増加した。
問題は日本の訴訟社会化などは進まず、弁護士が主に担当する民事事件も増えなかったことである。
問題解決のためにお手軽に弁護士に相談など、日本人は望まなかったというわけだ。
若手弁護士の中には年収が400万など、普通のサラリーマンと変わらないような人間もいて、さらには200万円ほどしか収入のない、あるいはいきなり開業する弁護士などもいて、はっきり言って貧乏が多い。
そんな職業をどうして直史が選択したかというと、ちゃんと理由はある。
まず弁護士というのは法曹資格という方が正しく、検事、裁判官、弁護士の三つに分けられる。
事件で言うなら事件を調べて起訴する検事、被疑者の側に立ってそれと相対する弁護士、そして両者の間で判定を下すのが裁判官である。
なお検事と裁判官は公務員であり、司法試験に通った人間の中でも、特に適性を見られてスカウトされたりなどして職に就く。
ただこちらは転勤がつきものなので、やはり直史の選択肢にはない。
犯罪者をネチネチ追い詰めていくことなどは、性格的には合っているのかもしれないが。
現在の弁護士で儲けようと思うなら、大手弁護士事務所に所属するのが一番である。
ただ給料は高い代わりに激務である。
他には弁護士事務所ではなく、企業の法務部に入るということもある。
それと微妙に知られていないことだが、弁護士は司法書士や行政書士の職分を行うことも出来るので、そういった人材をほしがっているところもあるだろう。
だが最も単純な理由としては、瑞希の実家が地域に根付いた弁護士事務所であるということだ。
中小企業の顧問をしていたりして名士と思われるし、また田舎の旧家の跡継ぎとして、恥ずかしくない職業だからという、直史にとっての古臭い価値観も関係している。
そんな直史にとっては、高校時代の貯金でどうにかなるリーグ戦より、司法試験に合格することの方が大事である。
どうにかなるくせにさらなる高みを目指しているあたり、根本的にはやはり野球が好きなのだろうとは思うが。
そんな六大学野球の春のリーグ戦も、ついに最終の第八週を迎えていた。
この第八週は優勝決定戦などのよほどの例外がない限りは、早稲谷と慶応の二校による対戦で終了することになっている。
なぜかというと、それが伝統だからだ。
元々六大学野球は、早稲谷と慶応の対決から始まっていたのだ。
途中でエキサイトしすぎた両校の交流の断絶などもあったが、早稲谷と慶応の試合に他の大学が加わっていって、プロ野球よりも古い日本最古のリーグが誕生した。
その端緒となった早稲谷と慶応に敬意を示してか、最終週はこの二校の対戦だけとなる。
早慶戦はテレビ放映され、リーグ優勝がかかっているとしたら、神宮球場が埋まることも珍しくはない。
そして応援団も気合を入れて、両大学の各サークルが観戦に訪れる。
応援の気合やキレのある動きは、高校野球ともまた違ったレベルである。
甲子園はまだ大衆の娯楽という側面が強いが、神宮の早慶戦は応援団も、相手を殺しそうな気合が入っている。まさに戦争だ。
実際に過去には色々と騒動が起こっていて、怪我人が出ることもしょっちゅうであったのだ。
まして両チームがここまで無敗の優勝決定の連戦だったりすると、さらに熱量は高まる。
今年はもうこの時点で、早稲谷の優勝は決まっている。
だがそれでも観客が多いのは、ちゃんと他の理由がある。
そう、この春のリーグで、特に早稲谷の試合にばかり、大観衆が訪れるのは理由があるだ。
直史一人で、万単位の人間を集めている。
ちなみにこれは過去にも似たようなことはあった。甲子園で優勝したエースが早稲谷に入学してからの大学野球は、一時的にではあるが神宮球場が毎週埋まるぐらいの人気になっていた。
だがスターの卒業はせいぜいが8000人前後の観客数となり、このリーグ戦でも早稲谷以外の試合では、それほど動員数に変化はない。
やはり野球はエースがいないといけない。
大介が入ってからのライガースは甲子園のみならずビジターでも満員御礼が続いているらしいので、この二者の人気がいかに高いかを示していると言えるだろう。
他にもこれだけの注目を集めているのは、これが全勝優勝の可能性を秘めているからだ。
既に早稲谷の優勝は決まっているが、他の五大学全てから勝ち点を上げて勝つことを、特別に完全優勝という。
その完全優勝の中でも引き分けすらなく、全ての試合で優勝していることを、全勝優勝というらしい。
字面では全勝優勝より完全優勝の方がすごそうな気がするが、実際は違うそうな。
なおこれまで全勝優勝は五回しか達成されていない。
この滅多にない全勝優勝を期待して、より観客は多くなっている。
歴史的瞬間を見たいという期待があるのだ。
直史は事前の予定では、第二戦の先発と言われている。
ただ状況によっては、この一試合目をリリーフして、明日の先発まで任されるかもしれない。
ネットなどでは早速、これだけ使われ方をしていたら壊れると散々に言われているが、直史は壊れないように投げている。
自分自身でも、壊れるかと思ったのは高校一年の夏だけだ。
二年の指も、三年の気絶も、さほどのことではなかった。
直史が壊れないようにトレーニングしているというのもあるが、純粋に投げてる球数が少ない。
ここまで先発で完投した三試合は、全て100球以内に抑えている。
追い込んだら粘られずに三振を奪える球があるというのも大きいだろう。
そして直史や樋口にとってはあまり盛り上がらない、花の早慶戦が始まる。
早稲谷の先発は梶原である。
なんだかんだ言いつつ辺見は、この四年生エースを開幕戦でも使った。
早稲谷のOBである辺見は、もう随分と前になる、甲子園のスターの大学での活躍を知っていた。
そしてプロ入り後の転落も。
ただ直史は明確に、プロ入りはしないと宣言している。
だからと言って使い潰すようなことはしないが、指導者として常識的に見ても、今後の三年間は使いたい戦力なのだ。
その梶原は、苦しい立ち上がりである。
全勝優勝は目指す方にも阻む方にも、多大なプレッシャーを与えることには違いない。
四球から出たランナーがベースを踏み、一点を先制された。
(だから先攻は有利なんだよな)
直史はそう考えるが、相手を完封するピッチャーがいてくれるなら、どちらでも変わらない。
先制点を取ってもらえた相手のピッチャーは、明らかに気が楽になっていた。
それでもやはり、普段よりは緊張感が違うだろう。
全勝優勝を阻むと言うのは、プロ野球で言うなら試合に勝った上で目の前で胴上げをさせるというのと同じぐらいの意味があるのかもしれない。
優勝を喜んでいても、お前ら俺らに負けたじゃん、というぐらいの感じだ。
早稲谷も反撃を考えるが、主砲の西郷が敬遠攻めにあう。
そして西郷は足がないため、次の北村が打ってもサードに達することが少ない。
そういった計算をしながら、慶応のキャッチャー竹中はリードをしていた。
(三浦さんも悪くはないけど、キャッチャーとしては竹中の方がはるかに上だよな)
そう思いつつちらりと樋口を見る。
「なんだ?」
「いや、相手のピッチャーもたいしたことはないのにな、と思って」
「だけどコントロールはいいからな。するともう、キャッチャーのリードとバッターの勝負になる」
直史は自分ならどう打つかまでしか考えない。ピッチャーの性向などは考えるが、竹中がリードしているとなると、その先まで考えなければいけなくなる。
だが樋口の場合は相手ピッチャーの攻略も考えてきたので、チームとしてどう攻略するかまでを考える。
事前に調べてあった資料と、今日の投手の調子、それに竹中のリードまでを考えると、狙い球は絞れてくる。
(せっかくの分析したデータを活用できてないんだな)
樋口としてはここで全勝優勝を狙う必要はない。
ただ試合に勝ちたいという欲求さえ薄れている。
この試合に勝つモチベーションとしては、一つしかない。
土曜日に負けてしまえば日曜日に勝ったとして、月曜日にもう一度試合をしなければいけない。
土曜のこの試合に勝っておけば、月曜日にまで試合をしなえればいけなくなる可能性は、極めて低くなる。
(充分な動機だ)
樋口は辺見に献策する必要性を感じた。
ピッチャーの狙い球を絞ることによって、一点を返して同点。
そして梶原の打順で代打を出し、逆転することに成功する。
慶応もピッチャーは交代し、再び膠着状態になりかける。
このまま膠着状態が続けば、早稲谷の勝利となる。
だが九回の表、リリーフした葛西が捕まり、ノーアウト一二塁の危機。
葛西は長いイニングはもたないタイプだと、辺見も分かってはいたのだ。
「ピッチャーとキャッチャー、佐藤と樋口に交代」
ブルペンでのキャッチボールを言い渡されていた時点でそう予想はしていたのだが、他のピッチャーではなく明日の先発のはずの直史である。
スタンドの観客は大喜びだが、逆転されてもおかしくない場面だと分かっているのだろうか。
これで明日も投げさせるんだろうな、とげんなりすることもないではない直史である。
とりあえず投球練習を終えたわけだが、あちらは下位打線。当然のように代打が出てくる。
スタメンと違ってややデータは不足していて、データ重視の技巧派バッテリーには、あまり相性が良くない組み合わせと言える。
一般的にはここは、内野ゴロを打たせてゲッツーを取り、ツーアウトにしてからはバッター勝負というのは常識的だろう。
ただ相手もここは送りバントか、内野ゴロを上手く打って、進塁打には必ずしてくる。
「バントだな」
直史も頷く。
六大学リーグはベンチメンバーが25人となっており、一試合ごとにそのメンバーを代えることが出来る。
ピッチャーなどは二試合目のことを考えれば、一試合目の登録から外していても問題ない。
つまり代打代走守備固めに加え、バント職人なども揃えているのだ。
一度登録したら大会中の変更が出来ない高校野球に比べると、随分と楽なものである。
ここで選択すべきは、まず一つはワンナウトをもらった上で、ランナーの進塁は許容する。
だがこれだとスクイズや内野ゴロ、タッチアップでの得点に対応出来ない。
既に出ているランナーなので直史の自責点にはならないが、だからと言って自分がマウンドにいる状況で、相手チームの選手がホームベースを踏むのは不愉快な直史である。
二つ目は三振かバント失敗を狙う。現実的にはこれだ。
バントをさせた後に満塁策などという手段もあるが、それもこれも全ては、まずバントを失敗させてから考えればいいことだ。
「100%バントを失敗させるシフトにしたい気もするけどな」
「あれは失敗した時に一気に逆転になるからな。普通にバント失敗を考えればいいと思うぞ」
ファーストの西郷とサードの北村が前進守備をする。
それでも代打はバントの姿勢を崩さない。
よほどバントに自信があるのだろうが、選択肢を一つしか持たない選手は怖くない。
(腰の入ってない構えなら、いくらでも避けようがあるだろ)
直史の初球は、インハイと言うよりは顔元へのストレート。
打たれると危険と言われるインハイであるが、同時のこのコースは目から最も近いため、球速を速く感じるのだ。
ボール球であるのに、バントへの意識が強すぎたのか、バットに当ててファールとなってしまう。
そして二球目はアウトローへのスライダー。バットの届かないボール球。
三球目はまたもインハイのボール球で、いいかげん危険球と思われてもおかしくはない。
だが相手が避けているので、そのあたりは微妙な判断となる。
相手側応援席からはブーイングが飛んだりするが、当たるような球を投げるつもりは、直史には全くない。
四球目のインハイゾーン内のストレートは、バットの上に当たってキャッチャーフライ。
まずは得点の可能性を潰した。
とりあえずワンナウトを取ってしまえば、そこからの攻略は難しくない。
最低でも進塁打と振ってくるバッターを、スルーとストレートで三振。
そしてツーアウト一二塁からなら、直史が失点する要素はない。
スプリットやシンカーやチェンジアップを混ぜて球数をしっかり使って三振。
スリーアウトでゲームセットである。
全勝優勝へと、また一歩。
マスコミの報道も加熱してくる。
またこの時期にはプロ野球の方でも交流戦が近くなり、大介の入ったライガースが失速していたこともあり、野球のニュースが大学野球一色となる。
幸いにも寮の敷地内には入って来ないが、何か用があっても他の人間に頼まなければいけないような状況である。
高校生の頃は、いくら勝ったとしてもここまで加熱はしていなかったと思うのだが、なぜにここまで熱狂するのか。
「単純にここが東京だからだろ」
樋口は駒を手の中に入れたまま、盤面上を見ている。
時間外の食堂で将棋などをしている二人は、珍しく娯楽に興じていると言っていい。
「つーかお前ら、どうして野球部用の寮に入らないの?」
野球部のグラウンドのすぐ傍には、野球部員用の寮が存在する。
基本的にはレギュラー専用の寮であるが、二人はそのレギュラーなのだ。
実は現在の寮が朝夕の二食であるのに対し、野球部寮は三食が出る。
ただ立地的な問題で、現在の寮の方がはるかに住みやすいのだ。
既に最強バッテリーなどと言われている二人の将棋を傍目に見ながら、あちらではマジックなどをやっていたりもする。
「野球だけやっていればいいならあっちの寮なんだろうけど、俺たちは学業優先だからな」
直史の言葉に樋口も同意の頷きをする。
そもそもあんな所に住んでいたら、野球部の用事があった場合、すぐに呼び出されてしまうではないか。
北村もレギュラーであるが、あの寮には住んでいない。西郷は住んでいる。
野球だけをやるなら最高の環境であるが、そうでないなら最低の環境。
まあ別に大学の野球部だけでなく、高校の強豪校も野球部の寮とグラウンドが、陸の孤島のようになっている学校は少なくないらしい。
明日の先発は直史ではなく細田でいくと辺見は言っていた。
直史はリリーフ。ひょっとしたらロングリリーフになるかもしれないとは言われている。
今日の試合で梶原と葛西を使ってしまった上、直史にも一イニングだが投げさせてしまった。
だから負担の大きな先発は細田ということなのだろうが、それでいいのだろうか。
いや、直史はいいのだ。
細田はプレッシャーにも強いタイプらしいし、いざとなればまた直史も投げる。
ただ観客は直史の登板を期待しているのではないか、ということだ。
それに今日の試合にしても、慶応はかなり、早稲谷を研究してきたと言っていい。
まあ負けたとしてもリーグ戦の優勝自体は決まっているのだから、それはそれでいいのだが。
「そういや優勝したから東京ドームか神宮でやるんだよな。ナオは行ったことあるか?」
「ないけど、今年は冬休みに行く予定」
「冬? 何をしに?」
「うちの妹たちがケイティと一緒にコンサートするから」
「あ~、そういやそうだったか」
樋口にしても直史の、この交友関係の謎っぷりは時々当惑する。
言葉の通り、イリヤの考えたコンサートであるのだが、ツインズは受験生であることを忘れているのではないだろうか。
まああの二人のことだから、ほとんど勉強らしい勉強もせず、あっさりと入学してしまうのだろうが。
「それ、詰み」
「あ?」
「ほら、ここに飛車打ったら逃げ場一個しかないし、こっちは金あるから」
「あ~、一歩遅かったか。うん、気付かれてたら負けてたな」
最終戦の前夜、のんびりと過ごす二人であった。
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