第8話 パーフェクトピッチャー

 野球に触れていないと死んでしまう人間がいる。

 そう言うとさすがに大袈裟だが、野球を辞めてドロップアウトしたり、引退した後に犯罪に走る人間は確かにいる。

 それは子供の頃から野球ばかりしていた人間に多く、たとえば大介の父も、結局社会復帰するには野球の道を選ぶしかなかった。


 そのあたりのことを考えると、国立は幸せだったのであろう。

 高校時代にはそれなりに学業にも力を入れて、大学でも野球部に所属しながら教職課程を取っていた。

 故障して最高のパフォーマンスを出せなくなってからも、野球以外の選択肢があったのだ。

 だが世の中にはそんな幸運な人間ばかりがいるわけではない。


 六大学リーグでタイトルを取ってベストナインに選ばれたりもした国立であるが、大学の野球部の空気を自分の指導に持って来ようとはしなかった。

 大学の野球部の人間関係は、まるで軍隊の階級関係にも似ていた。

 これが社会の全てで通用するならそれでいいのかもしれないが、三里の選手などは多くが、卒業したら野球とは無関係の人生を送る。

 だから甲子園という夢の舞台を目指しながらも、そのために全てを注力させようなどとは思わなかった。


 それに現実的な話として、野球ばかりしすぎていては、野球が上手くならない。

 野球の練習がしたくてたまらない。そういう心境を作った上で、ボールに触らせるのだ。

 プロにまで行くような、たとえそれが科学的には効果が薄いと分かっていても、どうしても練習するのを止められないという人間はいる。

 国立がそうだ。

 故障の原因も、注意力が落ちたことではあるが、その遠因は練習のしすぎだったのかもしれない。


 国立が求める野球少年の将来は、大学でまで真剣な勝負の場に身を置くことではない。

 40歳になっても50歳になっても、あるいは60歳を過ぎたら指導者になっても、野球と関わっていきたいと思える人間を増やすことだ。

 勝手にフィジカルエリートが集まってくる中から、少しぐらい壊れる人材がいても、甲子園に行ったり、プロ野球選手を輩出するというものではない。

 古田にノンプロを紹介したように、野球を人生の中の、一部にしてもらいたいのだ。


 だがそれとは別に、高度な指導の場も必要だろう。

 頂点が下がってきてしまえば、裾野も小さくなる。

 裾野が広がれば頂点も高くなるのと、同じことが言えるのだ。

 だから学生野球の頂点である大学野球、その中でも最大のブランドの六大学を、まともな指導環境にしなければいけない。


 学年が違うから下の者を虐げるよりは、実力によって虐げられる、そこまでいかなくても優遇されないという方が、競争原理としてはまだマシだ。

 それに自分の教え子を、そういった歪んだ箱庭での犠牲者にするわけにはいかない。

 理論武装をしっかりとして、国立は久しぶりの試合の打席に立った。




 国立の年齢は、プロならばこれからが全盛期というものである。

 だが大学野球の過酷とも言える環境から離れて、公立高校の指導者となっていれば、かなり実力が衰えていてもおかしくはない。

 ドラフト候補の、しかも上位候補の自分の球を打てるのか。


 初球は打ち損じを狙うカットボール。

 膝下に入ったその球を、国立のバットが掬い上げる。

 球の行方を見送った国立は、そっとバットを置いて、ゆっくりとベースランニングを始めた。

 ネットの最上部の突き刺さったそれは、間違いのないホームランであった。




 そのスイングは美しかった。

 わずかに沈んだフォームがピッチャーの投球動作と連動して上がってからまた沈み、アッパースイング気味にカットボールを引っ張ったのだ。

 狙い球は絞っていたのだろう。しかしまるで、狙い球を引き出したかのようなスイングだった。


 一塁から何か牽制をしようとしていた樋口だが、動かなくて正解だったと思う。

 無駄な力が全く入っていないフォームとスイングだった。大介のような無茶苦茶な人間を除けば、バッターとしてはあれが最高峰だと思えるほどの。


 一塁側の待機グラウンドに戻って、樋口はやや興奮して口を開く。

「凄かったです。どうやったらあんな、脱力した状態からのスイングが出来るようになるんですか?」

 国立としては、出来るようになったというのではなく、そうせざるをえなかったのだ。

「片足を再起不能レベルにまで故障したらね、ああいうスイングにたどり着かざるをえないんだよ」

 それは壮絶な前提である。


 国立の膝は、完治している。

 少なくとも医者はそう言った。だが復帰後にはファーストを守ったし、プロに行こうとも思わなかった。

 何があっても大丈夫という自信がなくなったからだ。

 プロに行っても、この膝の心配をしながら、ずっとプレイしていくのか。

 そもそもファーストは本来のポジションではなく、それでもバッティングは出来たため、チームの一員として働いた。


 だがプロで何度も、毎日のように試合を行えるとは、どうしても思えなかった。

 わずかでも自分の自信に揺らぎがあれば、プロでは通用しないだろう。

 せめてこの技術を伝えようとして、第二の志望であった教職へと進んだのだ。

 初年度から監督になり、いきなり甲子園まで進めたのは、選手たちに力があったからだ。

 自分はその力を、どう発揮していいかわずかに支えてやったにすぎない。


 直史としてはやはり、こんな天才的なバッターでも、プロを諦めるのだという現実を確認するだけである。

 本当にプロになど行かなくて良かった。




 二点を先制したものの、一年生チームの下位打線は、そもそも打力に期待はされていない。

 甲子園に行くようなチームのスタメンではあったが、六大学のエース級にはとても対抗出来ない。少なくとも、今の段階では。


 そして二回の裏、上級生チームの四番を打つのは、二年生の西郷である。

 六大学リーグの中でもとびきりの名門である早稲谷で、一年の秋から四番を打つ西郷。

 高校時代は通算70本以上のホームランを打ち、プロ行きドラフト一位指名は確実と言われていた男である。

 だが直史が進学を希望し、プロには進まないと聞いて、己も大学進学へと志望を変えた。


 正直大学よりは、プロに行くべきであったと、直史の進学先が同じチームだと知った時には思ったものだ。

 だが何やら詳細は知らないが、普通の紅白戦とは違った、試合形式という名の練習で、夢にまで見た対決が行われる。

 バッターボックスに入った西郷は、笑みすら浮かべて直史と対決する。


 直史は西郷のような人間は、苦手ではあるが嫌いではない。

 表現は難しいが、好きな人間ではあるが、自分とは遠いところにいてほしいとでも言おうか。

 周囲への影響力という意味では、ツインズに似ている。

 もっともあれに比べたら、よほどまともではあるが。


 そんな西郷に対して、直史はいきなりスルーから入った。

 西郷は豪快に空振りする。さて、まずはストライクが取れた。


 樋口は初球の反応で二球目からのリードを考えるつもりであった。

 だがスルーを豪快に空振りするという選択は、彼の中では実現する可能性が低いものであった。

(もう一球スルー……いや、この人こう見えて、アジャストするのが早いんだよな)

 いかにもな空振りには、注意したい。


 ストレートで押すことも、カーブでタイミングを狂わせることも、どの選択でもそれなりに勝算はある。

 だがここはあえて、危険度の高い選択を選ぶ。

(次は北村さんなんだから、ランナーは出せないんだぞ)

 そう思う直史であるが、樋口の意図も分かるので頷く。


 二球目、ベルトの高さのインコース。窮屈な内角を、西郷は腕を畳んで打ちに来る。

 だがこのストレートはツーシーム回転である。ボールのコース、デッドボールになってもおかしくない場所へ変化する。

 西郷はそれをファールで逃げた。

 内野ゴロにするのはやはり難しかっただろうが、これで追い込んだ。


 臭いところもカットしなければいけないため、西郷の意識は狙い球に集中出来ない。

 そして要求した三球目はストレート。

 ボールの下をバットが空ぶって、三振である。




 スピードガンの計測によると、146kmが出ていた。

 六大のみならず大学野球でも名門であれば、エースなら普通に出してくる数字である。

 それをぽんぽんとホームランにしていた西郷が空振りするのだから、ピッチングはやはり球速ではないということなのだろう。


 投手出身である辺見は、もちろんその特異性に気付いている。

 フォームの小ささに対して、肩から肘への旋回が大きい。

 軸になる部分が最後まで正面を向かず、タイミングが取りづらい。

 あとは左手の特性グラブの使い方で、テコのように右腕を前に出してくる。


 柔らかい体からしなやかなフォームで投げられるので、もっと遅いボールが来ると思わされる。

 それなのにあの球速なのだから、比較して速く感じてしまうというものだろう。

 そんな直史が対戦する五番バッターは、懐かしの白富東キャプテン北村である。


 北村への対策は、直史と樋口で考えてある。

 それはいくつかのパターンがあったが、この場合はまだ動かないパターンだ。




 バッターボックスに入った北村は、自分が直史を打てるなどとは考えていない。

 だが後輩の成長を、こういった舞台で見られるとはありがたい。


 高校入部した時から変わらない、セットポジション。

 ランナーもいないのにクイック気味で、体全体の動きは小さく見える。

 だが肩から肘、肘から手首、手首から指先へと、速度が重なっていく。

 そして綺麗なストレートが、インハイを抉ってきた。


 相変わらずのコントロールだ。おそらく次はアウトローぎりぎりか、あえてアウトローでわずかに外してくるかだろう。

 もしも続けてインハイであれば、その時はさすがに打てるだろうが。

 変化球が来たらなんでも打てない。


 二球目はカーブで、ゴリゴリに曲げてきた。これは振っても当たらない。

 そして三球目はスルーだ。沈む球に対応出来ずに三振。

 続く六番も三振で、この回は三者三球三振。

 ほとんどの打者が甲子園でも活躍した者なのに、当たり前のように凡退を重ねていく。




 投手戦である。

 だが一年チームの方は、一点を追加している。

 三塁にランナーがいる場面で、国立が外野の奥にフライを打ち上げたのだ。

 タッチアップで一点が入り、直史が絶対安全と満足出来る点差まであと一点。


 だが上級生チームの方は、それどころではない。

 七回が終わって、打者21人に対し、三振が10個で内野フライが五個、内野ゴロが五個で、外野フライが一つ。

 いわゆるパーフェクトである。

 外野はいなくても良かったのではなかろうか。あるいは二人だけでもどうにかなったような気がする。


 八回から上級生チームは、抑えのエース葛西を投入する。

 こちらもドラフト上位候補と言われており。サウスポーでスライダーを投げるところなどは、大阪光陰の真田を彷彿とさせる。

 だがあれに比べれば、と強く叩いた直史の打球が、右中間を破った。

 楽々のスタンディングツーベースであるが、本人としては打つつもりなどなかったのだ。

 だが沖田が深いライトフライを打ったのでタッチアップをせざるをえず、山口のクリーンヒットでホームを踏むことになった。

 これで満塁ホームランを打たれても同点の、四点差となった。


 さらなる追加点はなかったものの、あと二回。

 観衆の中にはスピードガンを持ったおっさんどもがいる。

 直史も既に顔は知っている、各球団のスカウトたちだ。




 直史がどのレベルまで通用するかというのは、スカウトたちにとっても興味深いことであった。

 あるいは大学やプロでは、全く通用しないかもという説はあったのだ。

 そしてこれは、大介に対してもあったものだ。


 大介の場合は身長と体格。

 直史の場合は筋肉の付き方とスピード。

 スピードだけがピッチングでないとは、NPBのトップレベルの選手でも散々に言っているのだが、現場の選手でないほど、数字に騙される。

 もっとも辺見は直史のストレートなどを見て、確実にこれはプロでも食っていけるとは思った。


 辺見にしてもスピードよりは、球種とコントロールで抑えるタイプではあった。

 だが直史はストレートを投げるにしても、微妙にタイミングなどを外して、実質的にチェンジアップと同じ効果を発揮している。

 同じ球種の変化球なのに、球速や角度を上手く変化させている。

 三振にはせずに凡退させているのは、その方が楽だからだろう。

 パーフェクトも驚くべきことだが、球数がここまでに70球に満たない。

 まさか次の試合も連投で投げるつもりなのかもしれないが、そんなことが可能であるのか。


 同じ投手がダブルヘッダーで投げるとパフォーマンスを落とすのは、疲労のためでもあるが球筋に慣れてくるからでもある。

 ただこのピッチャー、正確にはバッテリーにとっては、打席数が増えれば増えるほど、打ち取るための材料が増えていく気もする。

 観戦しているOBなどは、このピッチャーが一年から投げてくるというのは、チームにとってはありがたいことである。

 しかし入学したばかりの一年生にパーフェクトに抑えられるなど、後輩のバッターも不甲斐なさ過ぎる。




 そして八回の裏、ワンナウトから、レフト前へのクリーンヒットがようやく出た。

 一塁に出た北村はどこかホッとしながらも、違和感が拭えない。


 わざと打たされたような気がする。

 別に北村の好きなコースではなかったのだが、ここに投げてくるのではないかと思ったところに投げてきた。

(なんかまた考えてるのか)

 高校時代の直史とジンのバッテリーは、単純に目の前の打者を抑えるのではなく、課題を持っていたり試合全体の流れを考えてピッチングを組み立てていた。

 ここで打たれたのにも、何か意図があると思うのが自然ではあるのだが。


 北村には分からないだろう。

 直史と樋口が考えて、北村によってパーフェクトを破らせたのは、政治が絡んでくる。

 つまり「あいつのおかげでパーフェクトは免れた」という実績を北村に与えたかったのだ。

 パーフェクトを防いだ北村の存在感は、今後の野球部では大きなものになっていくだろう。

 清河派を牽制するためには、派閥が必要であるのだ。


 それはともかく初めて出たランナーであるが、辺見は送ることなどは考えていない。

 まずは一点などと思っても、ツーアウト二塁から何が出来るのか。

 どちらにしろ確率は小さいが、次の打者からは代打を使っていく。


 早稲谷レベルの大学であると、本当にバッティングに突出した選手がいる。

 だが初見で直史の球を打つのは無理である。

 この回も北村は残塁で、完封は続く。

 そして九回の裏、ツーアウトから先頭の清河に回り、最後の三振。

 一試合目は一年生チームの完勝に終わったのであった。

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