第4話 贅沢な悩み
佐藤直史という選手は、色々と言われることが多い。
ブレないとか、安定感があるとか、機械よりも精密だとか、そういうことだ。
また悪意をもって見れば、伸び代はない、既に完成している、ダイナミックさがないなどというところか。
良くも悪くも印象論でしかない。
好意的に見ている人間は、まだ数字を出せる。
悪意で解釈する人間は、直史の高校入学時から最後の夏までの、成長の過程を全く知らない。もしくは知っても無視する。
二年の春のセンバツで全国デビューした時には、素晴らしい技巧派投手として誌面を飾った。
だがマスコミへの対応をセイバーが制限したため、悪意をもって書こうとする者も現れた。
そういうやからにはセイバーが報復したのだが、夏には伝説のパーフェクトを達成し、ほとんどその能力について疑問を洩らす者はいなくなった。
せいぜいいたとしても、絶対的にストレートのスピードが足りないので、プロでは通用しないだろうという口調であった。
なおそのすぐ後のワールドカップでの活躍により、これらの言説を唱えていた者たちは白い目で見られた。
三年生になって甲子園に戻ってきた直史は、長所を全く損なわず、弱点と無理矢理言われていた球速も増してきた。
それでも同期の150kmを投げるような選手たちと比べられたりもしたが、結局決勝をパーフェクトに投げ、その後の再試合でも完封し、文字通り倒れるまで投げ抜いた。そして勝った。
これにさえも色々と言ってくる人間はいたのだが、辺見が見たのは凄まじいまでのメンタルと、それによるコントロールだ。
直史が入学すると聞いて心配したのはただ一つ、あの甲子園で心身ともに燃え尽きていないか、というそれだけであった。
ボールを見れば、同じ投手なのだから分かる。
誰になんと言われようと、自身がなんと言おうと、佐藤直史は根性の塊であると。
自分に対する絶対の自身。それを支える実力は、見れば分かるのだ。
もちろん技術的にも優れているが、その技術を発揮するメンタルこそ、辺見の重要視するものだ。
同じことが樋口にも言える。この二人は高校時代は対戦するチームの中核戦力ではあったが、同時に友人でもあったと聞く。
ワールドカップの映像は、辺見だって何度も見直した。
ただ理解出来ないというか、惜しいなと感じるのはただ一つだ。
この二人が両方とも、プロの世界には全く興味を抱いていないということだ。
プロでは通用しないとか、そういうことではない。二人が既に明確な目標を持っているのだ。
文武両道というのは、まさにこの二人のためにある。
(この二人……バッテリーを組んで、白石大介と対戦したら、凄いことになるんじゃないか……というか、見たい!)
そんなことを考える辺見の前で、直史は三人の打者をあっさりと凡退させていた。
遠藤は三打席分全て三振であったが、他の二人は二打席分を三振させた後、内野ゴロかフライであろう打球に打ち取っていた。
何かの配慮か、それとも計算の上なのか。
とりあえず140km台でも、三振は奪えるのだ。
「あとはキャッチャーとの相性だが、樋口でいいのか?」
「お互いが大丈夫な時は」
「それじゃあ万一の時も考えて、試しておかないとな」
とりあえず直史は困っていた。
辺見監督が好意的過ぎる。
自分たちの計画が成功するにしろ失敗するにしろ、野球部の体制は崩壊して、外部からの監視の目は厳しくなるはずである。
その過程において監督や部長が、責任を取って辞任するのは当然想定されていた。
二年前の秋に会った時は、素っ気無い態度を取っていたものだが、釣った魚に餌をやらないタイプではなく、身内になったら甘やかすタイプであったのか。
あるいは直史の持つ影響力を、今はまだ計っている途中なのかもしれないが。
早稲谷大学の野球部には100人以上の選手がいるので、捕手だけでも10人もいる。
直史のおまけのように、いきなり出場の機会を与えられた樋口に対し、嫌らしい目を向けている者もいる。
いや、お前らより絶対に樋口の方が上手いから。
それぞれのキャッチャーが直史と組んで何球か球を受けていくが、全く期待でいないのもいる。
基本的にはストレートをまだ八分程度で投げているのだが、これをキャッチするのにミットが流れていくのだ。
それでも正捕手である四年はさすがに高い技術を持っている。
早稲谷の四年には今年もドラ一候補のピッチャーがいるだけに、それを受ける方にもそれなりの技術が求められる。
だがぶっちゃけてしまうと、樋口やジンの方が上手い。下手をしたら倉田や孝司の方が上かもしれない。
キャッチャーの技量と言うのは、当然ながら組んだピッチャーによって磨かれる。
なので直史や岩崎、それにど真ん中以外はノーコンで150kmを投げる大介や、155kmを超える左の武史、超変則派の淳を受けていた白富東のキャッチャー陣が、上手くなっているのは当たり前なのだ。
「次、伏見」
昔ながらのキャッチャー体型の三年生は、三年前の夏に県大会の準決勝で戦った、上総総合の伏見である。
大きな体に向かって投げると、微動だにせず受けてくれる。
散らした球も追いかけたミットが流れず、かなり投げやすい。
二番手候補はこの人だな、と直史は判断する。
「次、芹沢」
問題の選手である。
近藤たち曰く、三年の清河は部員を自分の色に染めようとして、一年の反感を買った。
だが清河は当時の一年に対しては三年で、付き合いはせいぜい八月の終わりまでになるはずであった。
当時の早大付属は数年間甲子園出場を逃していて、チームの雰囲気も悪かったらしい。
だがそれよりも致命的だったのは芹沢である。
清河は支配者であることで満足したが、芹沢は暴君であった。
清河のやっていることは人道的に見ればグレーで、もちろん誉められたことではなかったが、芹沢は完全にアウトであった。
下級生への暴力や、犯罪の強要など、なんで問題にしなかったのか直史や樋口などから考えると理解出来ない。
それが許されてしまうのが、当時の早大付属の空気であったのだとか。
そんな中で坂本が辞めて、そして芹沢を脅かす下級生キャッチャーも辞めてしまい、空気はさらに悪化し戦力も低下。
結局清河や芹沢が現役の間に、名門早大付属は甲子園へ進むことが出来なかったわけだ。
こんなやつなので監督推薦での内部進学などは出来なかったが、様々な方法で大学にまで進学した。
まあ直史とは正反対の意味での特別扱いである。
芹沢はキャッチングの技術自体は下手ではない。
もっともその成果はバッティングの方にあるらしいが、フルスイングでケツバットなどをするのは論外であろう。
野球部寮に入っているわけではない北村も、その横暴については耳にしていた。
少なくともグラウンドの中では、北村は清河の専横も芹沢の暴虐も許さない。
ただ野球部寮にまでは目が届かない。
現在の三年生まではリーグ戦で優勝したという経験を持ち、ある程度の結束力でもって統制が取れている。
だが三年生以下が問題のようなのだ。
はっきり言ってしまうと、清河はどんな集団の中でも、自分の派閥を作ろうというタイプの人間なのだ。
芹沢はそれを利用して、清河の派閥に属することによって、同じ二年や一年を支配しようとした。
野球部内に政治と、上下関係という名の支配者と被支配者の関係を持ち込んで、反乱を起こされたというのが正しい。
「正捕手は四年生同士で固まった方がいいでしょうから、樋口がダメな時は伏見さんにお願いします」
直史はとりあえず、芹沢は選ばない。
ただ選ばない理由ははっきりとさせておく。
技術的な問題はともかく、重要なのは直史がしっかりと、キャッチャーミットに向けて投げられるかどうかということだ。
おそらく大阪光陰の真田が一時期調子を落としたのも、こういった理由があったのではないだろうか。
もっとも大阪光陰の大蔵は、同じ学年の豊田とは普通にかみ合っていたらしいので、真田のほうに問題があったのかもしれないが。
それにしても、贅沢になったものだと直史は思う。
中学校時代はまともに捕球をしてくれるキャッチャーがいれば、それで満足出来たものを。
ただ中学時代は皆で楽しく野球をやって、それで勝てればなおいいというのが考えであった。
大学野球が純粋に、手塚のサークルのように勝敗ではなくプレイ自体を楽しむのが目的なら、練習は健康を維持する程度のものでいいのだ。
これは高校にも言えることであるが、学生野球の基本理念に、実は勝利を目指すことが含まれていないことが、体制全体のアンバランスになっている。
部訓のようなものもあるが、これについて勘違いしている者は多い。なにせ高校時代、あるいはシニア時代から、野球だけで人生を決めてきた者が多いので。
高校生も大学生も、その本分は学業である。
野球の技術も、学業の内ではあると直史は思う。これだけ大きな市場となっているスポーツを、研究しない方がおかしいと思うからだ。
ただこの学問に、精神修養の要素などを入れてくると、また話がおかしくなってくる。
野球でのトレーニング、指導などは、野球が上手くなるためのものである。
そこに人間的成長だとか、精神力の強化などを言い出すとおかしくなるのだ。
セイバーはメンタルのコントロールなどについては解説したし、実際にそれを実感している者もいた。
だが基本的に人間というのは、肯定されることに快楽を得て成長する。
否定されることによって成長することもあるだろうと言うのは、精神論者である。
肯定されることの快楽を知ってしまった人間は、肯定されるための行動をする。
否定されないための行動をする人間と、どちらが成長しやすいかは、研究によって明らかになっているのだ。
正確に言うと肯定と否定は、厳密に使い分けるのが一番効果は高い。
ただほとんどの指導者は、この使い分けが指導される側に伝わらないので、結局才能をスポイルすることになる。
保守的な直史は、乳幼児期の言葉が通じない段階では、否定することを否定はしない。
色々と考えながら投げている直史であるが、実はそろそろ球数は100球を超えている。
平然と投げているが、辺見はそれもまた勘違いする。
推選組と同じように入学前から練習に混じっていたわけではないが、自分でちゃんと仕上げてきている。
直史は努力ではなく、必要なことをやっているだけという認識なのだが、500球の投げ込みをすることを、普通の人間なら努力と言うだろう。
しかしいつまで投げさせるのか、と直史はそろそろメニューどおりに投げる必要性を感じ出した。
グラブを外して、右手にはめる。
そこから左手で、樋口のミットに投げ始めた。
しばらく呆然としていた辺見であるが、慌てて声をかける。
「ちょっと待て、なんだその左の投球は」
「体の左右をバランス良く鍛えるためのものです。これをしないとコントロールが悪くなるはずですけど」
白富東で同じことが出来るのは、武史だけである。
岩崎や淳でも、せいぜいキャッチボールまでをそうしたり、左右バランスよく鍛えるための体幹トレーニングはするが、実際のブルペンで投げることは直史と武史しか出来ない。
バランスよく鍛えるというのは、辺見にも理解出来る。
野球のピッチャーというのは、一つの動作を何度も繰り返す。
それに必要な筋肉と共に、それだけをやっているのを支えるための筋肉が必要だというのも知っている。
だが実際に左右で投げて調整している者は見たことがない。
「けっこうテレビの取材とかでもされてましたけど」
そう言って投げる直史の左は、120kmは出ている。しかもゾーンを外れない。
左右バランスよく鍛えることは、体軸を意識する上で確かに重要だ。
しかし動作を左右で同じく行い、鍛えるというのは普通は出来ない。
普通は負荷をかけて、バランスよく鍛えていくもののはずだ。
とにかく直史のやっていることは非常識的すぎて、辺見の度肝を抜くことにだけは成功した。
本日のメニューを終えて、樋口のメニューを手伝いながら、二人は会話をしていた。
「失敗したな」
ウエイトをしながら樋口は言う。直史はそれを補助しながら、確かに、と頷いた。
当初の予定では野球部の旧弊や、意味のないトレーニングなどをあげつらった上で、じゃあ効果的なトレーニングをすればどなるか試しましょう、などという展開に持っていきたかったのだが、上手くいかない。
一つには思ったよりも、辺見を筆頭とする首脳陣が、選手の能力に合ったメニューを課していた。
体質などにより発生するトレーニング効果は、ある程度生まれつきのものなのだ。
聞いていたよりもずっとまともなトレーニングと練習だ。それでもまだ、全然充分ではないものだが。
樋口はウエイトをするが、直史はしない。
なぜならばピッチャーだからだ。
ピッチャーはしなくてもいいのかと問われれば、もちろんする必要はあると答える。
直史も自分の役割を聞かされなかったら、ウエイトをする方向に回っていただろう。
だが、春のリーグ戦からいきなり投げるように言われた。
ウエイトで筋力を高めるのは、なぜなのか。
単純に言えばパワーと、そこから生まれるスピードを高めるためである。
スピードを高めるのは良いことなのか。
基本的には良いことである。だが状況にもよる。
スピードを高めるトレーニングと、コントロールを維持するトレーニングは、少なくとも直史には同時にすることは不可能だ。
ある程度のスピードを高めてから、コントロールのための調整をしていく。
それを公式戦の直前に行うのは無理だと、論理的に考えれば分かる。
だから直史も高校時代、球速が高まったのは冬の間のトレーニングによる。
それも一年目は筋肉の回復力の強化に努めたため、あまりスピードは上げなかった。
高校時代と違って大学では、シーズンオフは冬と夏になる。
夏には夏で色々と公式戦以外はあるのだが、直史は基本的にはこちらに参加する義務はない。
なのでリーグ戦前の今は調整期間であり、球速アップに励むのは夏からである。
直史の体格と体質は、160kmを投げるのは難しいとセイバーは言っていた。
はっきり言ってしまうと、速い球を投げるための骨格と筋肉が身に付くかは、才能であるのだ。
高校一年生の頃に比べると、体格は良くなっている。
ただそれでも直史は、基本的に筋肉は付かないタイプなのだ。
もっとも付かないのは、いわゆる見せ筋というものである。
細い身体からとんでもないバネを持つバレリーナのように、直史は必要な筋肉をどう付けるのかは教えられた、
大学四年間、うち一年はもう勉強に完全に割り振ると決めているが、どうにか150kmには達するかもしれない。
ただ現状でもパーフェクト出来る能力を持つピッチャーが、無理にスピードを求めるのはリスクとなるだろう。
しかし、直史の要望が通り過ぎる。
元から説得用にトレーニングメニューは樋口と共に作っていたのだが、ほとんど二人でやってしまっている初日である。
「騒動を起こす必要があるぞ」
ウエイトのメニューを変えながら樋口が言う。
「まあその辺りは近藤たち次第かな」
なんだろう、これは。
勇者として召喚されてしまったが、別に魔王もいずに、王様がちゃんとした治世を行っていたかのような。
少なくともこの二人にとっては、現状に不満がないのだ。
一年生は色々と拘束されると言うが、星や西も野球部寮に入っていないため、その悪辣さが分からない。
まあ聞いているだけで、色々と問題があるのは確かなはずだが。
首を傾げながらトレーニングを効率的に行う二人は、状況の良さに困っていた。
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