第3話 斜め上に想定外

 直史の性格は本来、保守的なものである。

 だがそれは変えなくてはいけないものを、面倒だとか伝統だとか言って、変えないようなものでもない。

 たとえば野球部の正装は、詰襟の学生服となっている。

 これははっきり言って個人的にどうでもいいものなのだが、どうでもいいことならば変えない。

 変えた方がいいという人間が出てから考えればいいものだろう。

 個人的には軍靴の足音が~とよく言ってくるマスコミなどが、学生服についてあまり声を上げないのはどうしてだろうかなと、時々思ったりはするが。

 セーラー服は可愛いからいいのである。


 さて、そんな自称保守である直史は、樋口に加えて星と西を連れて、クラブハウスを訪れたわけである。

 本日より正式に大学の一員となったため、練習に参加出来るようになったのだ。


 新入生の中でも直史と樋口は特別であり、さらに直史は特別であった。

 野球部員の中には、学生コーチとも言われるスタッフがいる。

 コーチなどと言うと偉そうに聞こえるが、実質は奴隷。

 それでもまだマイルドに表現するなら、マネージャーであるが、いわゆる高校野球のマネージャーのような雑用とスコアラーなどのデータマン、そして本当にコーチ内容まで決めるのである。

 主務とはちょっと違う。主務であればかなり偉い。


 ぱっと見は地味なユニフォームに着替えて、グラウンドに集合する。

 本日から練習に参加する者もいるが、既に練習に参加している一年生も、改めてここで全員がそろうわけだ。

 早稲谷は基本的に、野球特待生は年に四人までとなっている。

 直史と樋口は、実はこの特待生ではない。

 両者共に学力においては、自力で入学しているのだ。少なくとも建前上は。

 特待生待遇については、野球部以外の部分でも存在する。

 言うなれば超特待生なのである。


 上級生たちを背後にそろえ、辺見監督が一年生の前に立つ。

「私が早稲谷大学監督辺見徹夫だ。改めて諸君の入学と入部を歓迎する。早稲谷大学野球部の理念などといった、口先だけのことは言わない。君たちのプレイを見て、私は判断する。では名前と出身、ポジションと目標を言っていくように」

 監督の挨拶があっさりと終わり、一年生たちがそれぞれの紹介を大声で言っていく。

 出身高校を聞けば、ほとんどが甲子園常連の強豪や名門の出身だ。

 中には甲子園で当たるかもしれないと、研究した選手もいる。


 近藤や土方も、それぞれ紹介をしていくが、彼らの内心を知っている直史としては、皮肉が利いた目標を述べていく。

「佐藤直史、白富東高校、ピッチャー、大学公式戦の防御率は0.2以内に抑えます」

 それほど大きな声ではなかったが、言っていることは無茶苦茶である。

 だがこの名前を知っている元高校球児たちであれば、それが不可能であるとは思えない。


 直史は甲子園に四回出場して三点しか取られていない。

 防御率はおよそ0.3である。

 それをさらに抑えた0.2とするのは、非常識だが直史にとっては現実的な数字だ。

 プロに行くと宣言した者もいれば、なんらかの目標を広言する者もいるが、これだけ具体性に富みながら、普通なら不可能なことを言う者はいない。

「樋口兼斗、春日山高校、キャッチャー、エースが抑えている試合では必ず決勝打を打ちます」

 こいつが甲子園を制覇した時、サヨナラホームランを打ったことを、知らない者もまたいないだろう。

 五回も甲子園に出ていることもあるが、打率は四割を超えているし、打点がやたらと多い。

 あの上杉勝也とバッテリーを組んでいたし、直史とバッテリーを組んで、ワールドカップの日本の優勝を決めた。


 他に四人、プロに行ってもおかしくなかった選手などもいるが、それと比べてもさらに別格の経歴である。

 近藤たちを合わせればこの10人と星と西を合わせれば、リーグ戦に勝てなくもないかもしれない。

「これから呼ばれる者を除いては、一年はコーチに従ってメニューを組んでもらう。佐藤、樋口、村上、遠藤、畠山、氏家。以上の六人は室内練習所へ」

 いきなり特別待遇である。伝統という名の古いメニューに対して第一話で反抗するという手段は使えないようだ。


 やっぱりこいつらか、と直史も樋口も思った。

 村上は確か岡山奨学のサウスポー、遠藤は仙台育成のショート、畠山は理知弁和歌山の主砲で、氏家は東北のどこだったかの一番を打っていたはずだ。

「お前たちは、佐藤と樋口はちょっと違うが、野球の実力で入ってきた、野球を使ってこの先も生きていく人間だ。良くも悪くも待遇は違う。だが特別扱いなわけではない」

 辺見は厳格さを見せるように睨み付けてくるのだが、こういうタイプは直史も樋口も嫌いである。

 ただこの程度ならば嫌いなだけで、わざわざ反抗するほどのものでもない。

「佐藤は春のリーグ戦、第二戦で投げてもらう」

 いきなりの抜擢である。投げてるボールも見ずに決めていいのだろうか。

 すっと手を上げる直史である。

「なんだ?」

「自分はもう試合用に仕上げてますが、ボールも見ないで決めてもいいんでしょうか」

「寮の近くの公園な、毎日自主練で走ってる四年がいるんだ。それがお前らの練習を見ていたんだ」

 にやりと笑う辺見。見られていたのか、とアテの外れた直史である。

「佐藤と村上に投げてもらって、他の四人にはそれを打ってもらう。現在の仕上がり具合で春のベンチに入れるかどうかは決める」

 上下関係とか言いながら、がっつり実力主義である。

 困った。これでは因縁をつけて無理矢理勝負に持ち込むという手段では不自然である。

「肩を作れ。それとキャッチャーは樋口と、伏見!」


 呼ばれてやってきたのは、直史も顔見知りの伏見。

 一年の夏、県大会の準決勝で当たった上総総合の捕手。去年の神宮大会の折に会ったことがある。

「伏見、村上の球を捕ってやれ。肩を作るのに10分必要か」

「充分です」

「大丈夫です」

 そしてピッチング……の前に当然、キャッチボールから入る直史と樋口である。




 困ったことになったな、と直史は思った。

 個人的なことだけを言うならば、特別待遇は今のところ悪くはない。

 どの道この先、直史は野球よりも優先することがあるので、そこで衝突は起こるはずなのだ。樋口にしてもそれは言える。


 近藤たちが決起するか、それとも他のどこかで問題が起こるか。

 清河の方はともかく、芹沢のやっていることには明らかに犯罪であるので、どうにか解決しないと野球部本体としても困るのだが。

 もっとも停部などになったとしても、直史は野球同好会に遊びに行くだけである。

 黙々とキャッチボールをする二人だが、徐々に距離を開けていき、ブルペンマウンドとキャッチャーボックスの中に立つ。

 そこから立ち投げで、直史は投球動作を開始した。


 直史は肩を作っていなくても、それならそれで球速以外で勝負するピッチャーである。

 バッターとして対するならば、樋口以外の三人はそれほどの脅威ではない。

 そして他の三人を完全に封じて、樋口には少しだけ打たれればいいだろう。

 ほんの少し手を抜けば、樋口なら打ってくれるはずだ。


 そういったことを考えながら、樋口以外の三人のデータを思い出す。

 高校時代は基本的に、配球はジンに任せていた。

 時折試したいことがあって首を振ることはあったが、バッテリーの間で配球の意識が統一されているのは重要だ。


 やがて樋口が座り、直史もセットポジションからの投球を始める。

 いつも通りにど真ん中に三球投げた後、樋口がミットを四隅に移動させる。

 そこへ投げ込む直史のストレートは、そのまま樋口のミットに収まる。動いて捕ることがない。

 やがてサイン通りに変化球に移り、これもまたミットを動かさずに捕る。

「大学生活自体での目標はともかく、直近では何を目指してるんだ?」

 辺見の質問に、直史は素直に答える。

「球速、あるいは球質のアップです」

「球質?」

「スピン量の調整、フォームの微調整で、ストレートの三振を取れるようにする予定です」

 もし春に登板がないのなら、それで良かった。

「ただ春のリーグに登板するなら、現状を維持した上で変化球の精度を確認していきます」

 直史の役割は、勝つことである。

 六大学のリーグ戦で、確実に勝つ。それを条件に高待遇を受けているのだ。


 はっきり行って学生野球憲章などがなければ、メーカーと契約していくらでも金は取れる。

 特に大介がプロの開幕戦であれだけバカバカ打っていたので、直史にも注目はさらに高まっている。

 そんな直史を見ていて、辺見も投手出身なだけに、このピッチングの桁違いの精度が分かる。

「よし、じゃあフェンスの準備しろ。佐藤もヘッドギア付けて、三人にまず三打席分投げてみろ」




 佐藤直史は、大学のトップやプロだけでなく、高校野球でもトップと比べると、球速ではいくらでも上がいるピッチャーである。

 ただバッターとの対戦における球速というのは、絶対値ではなく相対値が重要であるのだ。

 140kmしか投げられないピッチャーでも、バッターがそれを150kmと感じたなら150kmを投げているのと同じなのだ。

 現役時代の自らもコントロールに優れたピッチャーだった辺見は、自分の投球における価値が、直史と合致していることに満足する。


 まずバッターボックスに入ったのは、ショートポジションの遠藤である。

 素振りを見るにフルスイングをしながらも、フォーム自体はコンパクトだ。

(仙台育成では三番を打ってたけど、確か四番よりも打点が多かったんだったか)

 とりあえずストレートを投げたが、完全に振り遅れて空振りである。


 トラックマンでそれを見ていた辺見だが、球速はわずか140km。

 遅くはないが、大学でもエースとして使うならもっと球速の出せるピッチャーはいくらでもいる。早稲谷だけでもピッチャーに五人、そしてピッチャーではないがこれぐらい出せる選手はいくらでもいる。

 ただ、初速と終速の差がわずかしかない。

 スピン量はかなり高めだ。これが減速しない理由であろう。


 二球目は内角にストレートを投げ込み、これはバットに当たったものの前には飛ばない。

 球速は141kmで、やはりたいしたことはない。だがやはり前に飛ばない。

 そして三球目のカーブは、112kmしかなかった。

 これで体が泳いだ遠藤は、そのまま潔く空振りした。


 二打席目は変化球を主体に使った後、ストレートで空振り三振を取った。

 明らかな高めであり、これは打たれるかと辺見も思ったのだが、バットがボールの下を振っていた。

 確認すれば、球速は142kmである。

 ただ、スピンレートが高い。

(球速ではなく、球威で勝負するタイプか)

 おそらく体感では5~10km近くは上に感じるのではないか。


 マウンドの直史に歩み寄って、辺見は声をかける。

 どこかいちゃもんをつけるのかな、と思っていた直史であるが、辺見は小声で囁いた。

「次、ストレートだけで抑えてみろ」

 反駁を許さず、背中を見せる辺見である。


 ストレートだけ。

 雑魚ならばともかく、野球特待生で大学まで入ってくる相手に、それはけっこう難しいのではないか。

 ただどうせ練習ならばと、直史は自分でサインを出す。

 それを受けて樋口もサインを出し、直史は頷く。


 初球はアウトローいっぱいに、速球が決まった。

 球速自体は144kmと、これまでの中では最速が出た。

 そして二球目はインハイにわずかに外れる球だが、134kmまでスピードを落としてある。

 バットが出たがファールになるような当たりだ。

 だがこれは初めて、前に飛んだボールである。


 三球目はアウトローに外した球だ。これはめずらしくはっきりと外した球で、球速も明らかに出ていなかった。

 アウトローに遅い球で目付けをさせるならば、最後はインハイのストレートがセオリーか。

 遠藤は常識的な配球を考えながらも、わずかにバットを寝かせて構える。

 高めを意識しているのは、樋口から見ても明らかであった。

 ただそれでも、樋口は高めにサインを出す。


 インハイというほどでもない、高めの甘いストレート。

 しかしそれを遠藤は空振りした。

 完全に球威がスイングを上回っていた。




 投球術だ。

 スピードだけでも、コントロールだけでもない、両者を合わせた上での配球。

 遠藤は最後の球を、狙ってはいたが狙いすぎていた。

 振らなければボール球だ。


 なるほど、と辺見も納得する。

 春のリーグ戦に出ないのなら、球速強化に取り組むと言っていたのは理解出来る。

 ピッチャーとしての基礎は完全にプロレベルであるが、それでも伸び代を残している。

 これでプロに行くことを全く選択肢に入れていないというのが、辺見のようにプロで20年近く食ってきた人間には理解出来ない。

 だが既に明確に、将来の展望は考えているのだ。


 直史の待遇に関しては、辺見も聞いている。

 学業優先。建前ではなく本音から、これは徹底されている。樋口もだ。

 なので場合によってはこの二人は、土曜日の試合には使えない。

 東京六大学リーグは、週末の土日を使って行われる。時々月曜日にも行われる場合がある。

 辺見は体育会系の中ではかなりの理論派だと自分では思っているのだが、野球部で活動しながら司法試験を目指すなどという人間は見たことがない。

 樋口も似たような存在で、国家公務員の中でもキャリアを目指しているというのだから、野球に人生を賭けている人間とは全く違う。


 この二人は漫然と野球だけをやっていくつもりで大学に入ったのではない。

 野球は学生生活の一部であって、目的となるところが違うのだ。

 本来ならば全ての野球部員が、学問に関しても正しい努力をしなければいけない。

 だが特待生に限ったわけではなく、自己推薦などで入ってきた部員は、自分は野球だけをやっていけばいいと考えている節がある。

 ふざけるな、と言いたい。

 野球部の伝統や愛情とは、理不尽な上下関係を許容するわけではないのだ。

 直史たちは勘違いしているが、別に指導者の側も、改革の必要性は分かっている。

 それに野球部のブランドをそのままに、より成績も上げていきたいのなら、現場に投入するリソース、具体的には金銭を増やしてほしいというのも本音だ。


 こんなことを辺見が考えていた。

 そのため直史たちの爆弾の起爆は、しばらく後に行われることになる。

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