第2話 キャンパスライフスタート
敵を知り己を知れば百戦して危うからず。
孫子の兵法の中でも、おそらくトップレベルに有名な一節である。
直史は最終的な目的を考え、そのために使えそうな情報を集めて、自分の味方になってくれる者と、敵対する者を考えた。
まず最終的な目的であるが、最小の範囲であれば、自分の快適な大学生活である。
はっきり言って直史ほどの実績を残した者が過去にいないために、どれだけの無茶が通るかは、やってみないと分からない。
だが大学の野球部においては、学年が絶対だと言われていたりする。
ただスポーツにおいては、実力がその上下関係を左右するのが正しい。
いくら野球が上手くてもそれだけではダメというのは、年齢が上でもそれだけではダメというのと同じ理屈である。
直史は上級生の理不尽な命令を聞きたくないだけで、頼まれたり、直史が常識的だと思う範囲なら、力になるだろう。たとえば高校の先輩である北村などに言われたら。
状況も考える。
直史が積極的な破壊活動を行った場合、最悪野球部が廃部になる。
過去の他の事件などと比較しても、そこまで持っていくことは不可能ではない。現実的ではないが。
それにそれはあまりにも影響が大きすぎるし、さすがに自分の将来にも悪影響がありかねない。
何よりせっかくレベルの高い選手もいるリーグでプレイするのだ。わざわざそこまで大事にはしたくはない。
またこれも現実的に見るなら、報復が怖くなる。
さらに早稲谷野球部のOBの影響力などを考えると、自分がやりすぎてもある程度はトカゲの尻尾きりで済まされる可能性も高い。
窮鼠猫を噛むではないが、全てを失った人間は、平気で損得を考えずに破滅的な行動を取る。
自分だけならまだいいのだが、周囲に被害が及んではいけない。
狙われるとすれば、自分にとって弱点となりそうなのは一つしかない。瑞希だ。
だが彼女に限って言えば、危害を加えることは不可能だと、すぐに分かるだろう。
父親は弁護士であり早稲谷の大学の有力者と関係があり、本人も法学部にいる。
これに手を出す危険ぐらいは理解出来る脳みそを持っていると思いたいが、なにしろ相手は野球しかやってこなかったバカもいる。
そこで直史は不本意ではあるが、知り合いの伝手を使った。
イリヤである。
イリヤの活動の本拠地は、当然ながら東京である。
春休み中も必死で補習を受けてどうにか進級した彼女であるが、学校という箱庭の外に出れば、社会的に動かせる力はとんでもなく大きい。
たとえば芸能界というのは、マスコミや暴力団、そこまでいかなくても反社会的な組織と、悪い意味ではなく面識があったりする。
そこから何人かを瑞希の護衛につけることだって出来る。もっともそれはもう少し後の段階になってからだ。
イリヤは大喜びで引き受けてくれた。彼女は個人的に瑞希に好意を抱いているのもあるが、直史に貸しを作るのが嬉しかったらしい。
早急にこの借りは返さないといけないと直史は思った。弟を生贄に捧げたらすむかしら。
早稲谷のOBはマスコミにも相当数が存在する。
そして政治経済、または公務員の分野にもたくさんいるので、ある程度の融通を利かせることを考えている。
それに直史が集めた事前情報によると、どうやら現監督辺見や部長なども、現場に近い指導陣は改革を考えているそうなのだ。
ただ上下関係などの厳守など、OB陣の声もうるさく、体制自体を考えるには、なんらかのショックが必要なのだろう。
こういった情報をまとめて、樋口と一緒に策を練るわけである。
おそらく野球部のレギュラークラスでは、一番と二番目に頭が良く、同時に性格が悪い二人である。
「正統派の攻略も必要だが、もっと直接的な暴力にも備えておいた方がいいな」
それについては直史も思う。
「警察だな」
「そうだな。監督は通さずいきなり警察がいいか……しかし報復は避けたいわけだな?」
「野球部の人間なんて後先考えない馬鹿が多いと思うんだが、まあそいつらの人間性によるな」
「一応三年の清河という方はまだ計算高いらしい。二年の芹沢というのがとてつもない間抜けらしいが」
お前らが言うのか、という話題を続ける二人である。
なおこの会話には、野球部寮に入っている近藤たちは参加していないが、近くの寮の星と西は参加している。というか聞いているだけであるが。
直史は瑞希と一緒で法学部、樋口は政治経済学部、星は教育学部、西は商学部なのでキャンパスは同じなのだ。
「お前ら、いったい何考えてんだ?」
呆れると言うよりは慄くといった感じで西は言葉を洩らすが、星は自分たちの寮の部屋よりグレードの高い寮の部屋にきょろきょろとしている。
「四年間を快適な大学生活を送るために、邪魔なやつを排除するか、もしくは去勢するための計画だ」
排除はともかく去勢って。
股間がキュッとする西であるが、直史は自分に害を及ぼそうとする人間以外には、極めて無害な存在である。
直史は本棚にある法律書の中から、刑法に関するものを持って来る。
おそらく自分と樋口に、近藤たちと星たちの八人の人数がいれば、野球部の理屈で回っている上級生の悪行には対抗出来るだろう。
近藤たちは寮生活が一緒なので難しいかもしれないが、それはさすがに向こうにどうにかしてもらうしかない。
「育成だけとか勝利だけとか、野球に関係していることだけなら簡単なんだけどな」
樋口は直史と同じく、この諸問題の解決が一番難しい原因を分かっている。
即ち、野球部の権威維持である。
野球部の就職活動は強い。それはOBにも野球部がいたり、有名企業にいたりするからだ。
あと古くからの日本の企業の体質的に、営業に向いているなどと無条件で思われたりするからだ。
地獄のシゴキに比べれば、会社の小さな理不尽など耐えられると思われているのだろう。
だが実際は企業などの自殺者は、そういった圧力に強いはずの人間だっているし、鬱になるのに精神力は関係ない。
パワハラモラハラがうるさいこの時代、学閥と野球部というだけで採用を決めるのは、難しくなってきているし、そもそも企業の体制も変わってきているのだ。
このあたりは直史よりも樋口の方が詳しい。
「とりあえずこれを渡しておく」
樋口から受け取ったこれは、直史はちゃんと分かるが、星たちは初見のようだ。
レコーダーである。
「スマホで証拠とか残すのは限界があるからな。まだ用意できてないけど、近いうちに盗撮用のカメラも渡すから」
「おいおいおい」
西はかなり引いているが、星は案外面白そうにレコーダーを見ている。
権威と権力を相手に、その土俵で戦ってはいけない。
違う権威と権力で対抗するのだ。
そして日本においては野球部の伝統よりも、法律が優先される。
法律を厳格に運用するためのものが、証拠である。
「最悪野球部が嫌になったら、野球同好会もあるからな。そっちに入ればいいぞ。クラブチームとかと試合してて、意外と強い相手も多いらしいし」
直史としては純粋に野球を楽しむならば、むしろそちらがオススメである。
クラブチームにも色々あるのだが、早稲谷の野球同好会は、他の大学の学生でも参加が可能で、上下関係が緩いのは聞いている。
なにせジンの前の白富東のキャプテンである、手塚が所属しているので。
ただ、とりあえずは野球部を改革しよう。
一度潰してしまって一から作り直す方が簡単だとは分かっているのだが、それでは大学との契約において問題があるし、最初からやりなおす手間をかける気は二人にはない。
それにブランドを完全に崩壊させるのは、直史や樋口にとっても不利益が生じる。
「まあどうしようもなくなったら消えてもらうしかないけどな」
直史の感情のない言葉には、さすがに樋口も背筋が冷たくなった。
入学式が終わり、直史と瑞希は連れ立ってサークルへの入会に来ていた。
早稲谷大学には法律系のサークルがいくつかあり、法曹の道に入るほどでなくても、ゼミでの授業やテストの範囲など、便宜を図ってもらえることは多い。
直史としてもこちらが本業のため、先輩の犬になるのは当然と思っていたりする。
まあ法律系サークルであるため、それほど危険なことはないのだが。
複数のサークルの内のどれに入るかだが、事前に調べていた二人は、すぐに決める。
他のサークルの勧誘なども受けたが、さすがに直史はそこまでは手が回らない。
「メガネ似合ってる」
少しからかうように言うのは、直史がマスコミ対策でわずかながら変装をしているからだ。
元々文化系の見た目をしている直史がメガネをかけると、古き文学青年っぽく見えたりもする。
瑞希の言葉にも動ぜず、直史は言う。
「瑞希とおそろいだな」
「……そうね」
少し頬を赤らめる瑞希である。
実は大学入学を機にコンタクトにしてみようかなどと思った瑞希であるが、直史は明確に反対した。
大学のようなチャラい男もいるような場所で、隠れ美人を明らか美人にしてもらうのは、直史の精神の安定上良くない。
そんな二人であるが、勧誘の嵐の果てに発見した。
「ええと、あった」
整法会という法律サークルは、瑞希の父も入っていたものである。
ごりごりに法律系の職業に就くなら、ここがいいだろうと言われている。
会員数は100人ほどで、大学のサークルとしては大きいほうなのだろう。
週に三回の活動であるが、全てに出席しないといけないわけではない。
ただ曜日によって特に専門とする分野があり、憲法、民法、刑法の三つに分かれている。
授業の五限目と六限目を活動にあて、イベントなどもそこそこあるのだとか。
さっそく入会した直史と瑞希であるが、相手は直史に気付かなかったか、気付いても反応しなかった。
まあいくら有名人とは言っても、名前が比較的普通であるし、拙いながらも変装をしている効果があったのだろう。
明後日にはさっそく新入生歓迎の飲み会があるらしい。
もちろんたいがいの新入生は未成年なので、法律サークルらしくノンアルコールであるらしいが。
一年目の基礎教育クラスも、直史と瑞希は同じクラスになっている。
さすがにここまで誰かの手が及んでいるはずもないが、ラッキーなことである。
なお同じ高校から進学してきている者も、他のクラスだが数人はいたりする。
「私はそちらに顔を出すつもりなんだけど、直史君は?」
「俺は今日から野球部に参加するけど、待ち合わせしてるんだよな」
直史としては敵を相手に一人で戦うつもりはない。
だが野球の能力と引き換えに特権を貰っている以上、手を抜くつもりもない。
近藤たちとの話し合いの中で、樋口と共に意見を出し合った。
そこで確実に敵となりそうな者と、味方にはならないが少なくとも問題を起こしたくはない者。
そして明らかに味方をしてくれる者などを分けた。
結論としては、まず監督や部長などの大学側は、中立の立場を取るだろうと考えられた。
下手に問題を大きくして、マスコミなどに拡散してしまえば、進退問題となるからだ。
そして本来は上級生よりもさらに上の存在である監督などが中立というのは、実際には直史たちの味方も同様である。
あとは上下関係の絶対君主である四年生も、積極的には敵対しないはずである。
ドラフト候補もいて、就職先もおおよそ決まっていたり、波風が立つのを嫌うからだ。
だから問題は、徒党を組んで野球部内に自分の勢力を築いている清河。
そしてその集団の中でも、特に問題行動の多い芹沢。
この二人を排除したいというのが、近藤たちの主張であった。
だが直史は穏当な手段を、あるいは目的の変更を宣言した。
近藤たちのやり方では過激すぎる。相手には絶対に、自暴自棄になる一歩手前で留まってもらうしかない。
「早大付属も何年か前、馬鹿なことしでかして対外試合禁止になってるよな」
野球部全体にまで処分が広がれば、本末転倒である。別に直史はそれでもいいのだが。
確認するのは、まず清河を動けないようにして、それから芹沢の対処である。
真っ当な頭であれば、清河に加えて四年生の上級生からも制止されれば、動けなくなるだろう。
そこでも止まらないようであれば、あまり穏当ではない手段に移行するしかない。
それこそ大学の中だけで済むようなものではなく、ついでに直史が関与したとも気付かせないような。
野球が好きなやつに悪いやつはいない、などとは絶対に思わない直史は、いくらでも非常手段を取る準備は出来ている。
近藤たちは言及していなかったが、そんな選手……というか人間を野球部に置いていた、早大付属の片森監督にも、かなりの責任はあると思う。
相手が野球という舞台でお山の大将のマウントを取ってくるなら、こちらはそれ以上の力で制圧するだけである。
近藤たちの考えは、あくまでも野球という舞台を前提にしていて、中立者の善性を信じすぎている。
人は己の立場を守るためならば、いくらでも利己的になれるし、犯罪だって隠蔽するものなのだ。
大学野球は数年前にも他のリーグで問題を起こしている。
さらにその前にも、違う大学で問題を起こしている。
これらは全て大学の野球部というのが、特殊な環境に置かれているために起こりうることだと、関係者全員が認識しなければいけない。
そもそも片森が適切に処理していれば、大学への進学が出来なかったり、野球部として入部を拒否することは出来たはずなのだ。
今更外から入ってくる人間に、そういったことまで期待されるのは困るのである。
軍隊的な教練を意識していた、日本の体育会系。
それは他のスポーツでは、どんどんと変革されていっている。
日本の野球は下手に人気があり、そして実力者も出ていたため、伝統という名でそれがそのままになっている。
大介もプロの世界で色々なことをしでかしているらしいが、全ては結果である。
近藤たちの計画にあった正面突破も、直史は解決策の一つではあると思う。
しかしそうなると本来は中立派であるはずのメンバーが、ある程度は向こうに回ってしまいかねない。
現在の四年生はもう、良くも悪くも動けないと考えると、問題になるのは二年と三年。
人格的には北村や西郷などは、清河のようなやり方は好かないだろうが、特に西郷の方は読めない。
桜島実業の練習の苛烈さは、早稲谷をはるかに上回る。
それに西郷の腕っ節の強さを考えれば、上級生であろうとそうそう何かを言えたとは思えない。普段は温厚なので、勘違いしている者もいるかもしれないが。
「というわけで樋口、これがパターンに分けたものだ。どちらにしろ決定的な証拠とかは、映像が必要になるけどな」
「映像以外でもいくらでも証拠はあるだろうがな」
元は警察官僚を意識していた樋口は、警察の証拠主義などもちゃんと理解している。
「最悪マスコミを巻き込むことになるか?」
「そうなったら俺たちじゃなく、監督や下手すりゃ学長の進退問題になるだろ。それよりは早く、トカゲの尻尾きりが行われるはずだけどな」
ふむ、と頷く樋口である。
お互いがお互いを、自分よりもあくどいやつがいるもんだな、と考え合っている黄金バッテリーであった。
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