第30話 Zn

ウランと別れ再び正門の方に向かって歩き出す。

正門につくと、その両側に立っていた門番の二人が俺の方に近づいてきた。その二人の腕章にはそれぞれプラスとマイナスのマークがついていた。

「あなたがシアンタウンから来たという人間ですね」

そう言い当てられて驚く。ウランから情報が伝えられているのだろうか。

「は、はい。原子様にお会いしたいんですけど」

そう言うと右側に立っていたプラスのマークの腕章をつけた男が頷いた。

「私についてきてください」

そう言ってゆっくりと歩き出す。俺は左側に立っているマイナスマークの門番に軽く会釈をしたあと、歩き出した門番の後ろに続いた。

絢爛豪華な城内を口を開けて呆けたように見回す。こんなところには今まで来たことがなかったため、なんだか緊張して歩きがぎこちなくなってしまう。

しばらく赤いカーペットが敷かれた廊下を歩き、いくつもの角を曲がったあと、背丈よりも何倍も大きい扉の前についた。ここまで案内してくれたプラスマークの門番が扉の隣に立ち、俺に先に進むよう促した。

(この先に原子様が……?)

俺はごくりとつばを飲み込むと、ゆっくりと扉を開いた。

部屋の中は今まで通ってきたどの部屋よりも大きく、豪華だった。赤いカーペットが続く先に階段があり、他の場所よりも高くなったところに玉座が置いてあった。そこに、金色の髪をした若い男性が足を組み、肘掛けに肘をついて俺のことを見下ろしていた。

どこか幼さが残るその顔に、彼が俺よりもかなり年下である事が分かる。呆けたように扉のすぐ前で立ち止まっている俺に、彼が声をかけた。

「人間よ、そこに突っ立って何をしておる?万物の素である余を見て、その威光に思わず固まってしまったのか?」

そう独特な口調で彼が話しかける。その声も声変わりする前の可愛らしい少年の声であったため、まるで子供が王様ごっこでもしているような感覚を覚える。

「え?えっと……。すみません」

そう言って謝ると彼……原子が足を組み替えた。

「くるしゅうない。はよう近うよれ」

そう言って手招きをする。俺は返事をするとゆっくりと前に出た。こんなにいい返事をしたのは高校の卒業式以来かもしれない。

原子は俺のことを眺めたあと面白そうなものを見るように顎に指を添えた。

「ふむ、生の人間というものは初めて見るな。しかも、我々化学を信仰し、布教する者だと聞いておる。……下僕よ、そなたがここに来たことを歓迎するぞ」

そう言って原子が手を広げた。

「あ、ありがとうございます!」

思わずぺこりと頭を下げる。彼は体は小さいが一国の王としての並々ならぬオーラがあった。

頭を下げた俺を見て満足そうに原子が息をはく。

「昨今は物理地方の電磁気学区が首都として幅を利かせておるが、奴らが存在するのも我々化学のおかげだ。生物地方の者だって、元をたどれば余から皆出来ておる。まさに、化学こそが全ての根源……。そなたもそう思うだろう?」

彼の言葉になるほどと俺は納得した。物理は電磁気に関わる現象に関しては化学によるものが多いし、生物の体は皆、元は原子から出来ている。彼の言うことは一理あるかもしれない。

そう思い頷く俺を見て、彼が満足そうな顔をした。

「さて、聡い人間よ。今日は余のところに何をしに参ったのだ?」

そう聞かれて自分がここに来た理由を思い出す。思わず雰囲気に飲まれて忘れてしまうところだった。

「あ、えっと……。実は俺、いつの間にかこの国に入り込んでしまっていて……。それで、ここには元の世界に戻るために来たのです」

そう言うと「ふむ」と原子が考え込んだ。

「そういえば、数学の国の王、微分が人間を元の世界に送り返す術を持っていると言っていたな。……少し待っておれ。その方法が書かれた書を持ってこさせる」

そう言ってから原子が「陽子!」と声を上げた。すると音もなく女性がどこからか現れた。

「お呼びしょうか?原子様」

それを見て原子が頷く。

「うむ。この前微分からもらったあの書を持って参れ」

そう言うと陽子と呼ばれた女性が恭しくお辞儀をした。そして静かに去って行った。

(本当に陽子もいるんだ……。ということは、中性子も……)

そう思って辺りを見るが、残念ながら誰の姿も見当たらなかった。

少し経って陽子が帰ってきた。手には卒業証書のように丸められて紐で結ばれた紙が握られている。

陽子が恭しく差し出したその紙を原子が受け取り、紐を解いて紙を広げた。そして視線を巡らす。

「……ふむ、なるほど。よし、人間よ。そこに立つといい」

しばらくうんうんと頷いてそれを読んでいた原子が顔を上げて床を指差した。彼に言われた通り床に描かれた原子の構図の上に立つ。それを見た原子がぴょこんと玉座から降りた。

「よし、人間!これからそなたを元の世界に送り返してやろう!」

そう言って小さな杖を取り出し自慢げに掲げる彼を見て俺は頭を下げた。

「ありがとうございます!……あ、そうだ」

何かを思いついたような顔をした俺を見て原子が笑う。

「なに、特に礼などはいらぬ。今までのように我々に従事していればそれでよい」

話の噛み合っていない彼に対して「い、いえ……」と躊躇いがちに口を開く。

「あの、俺、またこの国に来たいんですけど、その時にはどうすればいいでしょうか?」

そう尋ねると原子が首を傾げた。

「こちらに来る方法は余は知らんぞ?勝手にそなたがこの国に入ってきたんだろう?」

そう言われて俺もきょとんとする。

「え?俺は、気づいたらここにいただけで、この国への入り方は分からないんですけど……」

そう言うと原子が腕を組んだ。

「……ふむ、なるほどな。この国の入り方、か……」

そう言って考え込む原子を見て、俺も首をひねる。

(どういう仕組みでここに来たんだろう……)

またシアンタウンに来たくても、そもそも理科の国に入る方法を知らなければどうしようもない。

頭をひねって考えていると、一足先に考えるのを諦めた原子があっけらかんと笑った。

「まあ、よい!お主がここにいつでも来られるよう、扉を開いておけばいいだけの話だ!」

その言葉に俺はきょとんとする。

「扉?」

俺の言葉に原子が大きく頷く。

「そう、扉だ。この書に書かれているのはそなたのいる世界とこの理科の国を繋ぐ扉を開くための方法だ。つまり、この扉を閉じずに開けたままにしておけば、そなたはいつでもこの国に入って来られるだろう」

彼の言葉になるほどと納得する。しかし、ずっと開けっ放しなのはそれはそれで危険ではないだろうか。

そう思いそれを口に出そうとした瞬間に目の前にぽっかりとあいた大きな穴が現れた。その穴の向こうはどこまでも真っ暗で、まるでブラックホールのようだった。

「さあ、人間よ!ここに入って早く元の世界へ帰るがいい!」

原子の言葉に俺は思わず躊躇する。

(こ、ここに入るのか……)

中に入る決心がつかない俺と反対にその穴は俺を吸込もうとしているようで、少しずつ体がその穴の方に引きずられ始めた。その力がどんどん強くなってきて、俺は抵抗する間もなく穴の中に引き込まれてしまった。


はっとして気がつけば、俺は職員室の入り口に立っていた。ぽかんとして辺りを見回せば見慣れた景色だ。数人の教師が机に座って銘々に作業をしているのが見えた。

(戻ってこられた……のかな?)

壁にかけられた時計を見れば、俺が理科の国に迷い込む前から時間はほとんど経過していなかった。どうやら、理科の国とこっちの世界では時間の流れが違うらしい。

なんだか長い夢でも見ていたような奇妙な感覚を覚えながら自分の机に座る。しかしシアンタウンでの出来事が夢ではないことは、右手にかかったボロボロになった白衣が物語っていた。

(夢じゃなかったんだな……)

そう思いながら隣を見ると、物理教師のタナカが背もたれにもたれかかってぼうっと天井を眺めていた。いつものように気だる気な彼を見て、なんだかほっとする。

俺の視線に気づいてタナカがこちらに振り返った。

「なんだよ?」

「な、なんでもないよ」

低い声で尋ねられて慌てて首を振る。その拍子に彼の机の上に真空放電管が置いてあるのが見えた。

「あれ?タナカ、なんでそれを職員室に持ってきたの?」

普通なら物理室に置いてある備品だ。不思議に思ってそう尋ねると、タナカがちらりとそれを見てから口を開いた。

「……まあ、色々あってな」

そう言い、疲れたようにあくびをした。不思議そうに彼を眺めている俺を横目で見てから彼が再び口を開いた。

「……なあ、以前スズキが数学の国に行ったって言ってただろ?」

教科の国の話をされ、俺はドキリとして頷く。

「う、うん。それがどうしたの?」

そう尋ねると、タナカが口を開き何かを言いかけた。しかし、すぐに閉じてそっぽを向いた。

「……やっぱりなんでもない」

焦らすだけ焦らしてそれはない。

「ええー、何それ。気になるじゃんか」

そう言うが、タナカは話す気をすっかりなくしたようで、机に突っ伏してしまった。肩を揺すって話しかけても反応がない。すっかり眠るモードに入ってしまっているようだ。こうなると彼はもう何にも反応しないことに今までの経験から分かっていた。

(まあ、また今度聞いてみることにしようっと)

彼の機嫌を損ねても嫌なので、これ以上尋ねるのはやめることにした。息をつくと近くにあった赤ペンを取り上げる。

結局理科の国への行き方は分かりそうになかった。しかし、水銀がしばらくシアンタウンに来なくていいと言っていたことだし、理科の国にすぐに行けなくても問題はないだろう。

(でも、黄リンは悲しむだろうな……)

「約束したのに!」と怒る彼の姿を想像して、俺は申し訳ない気分になった。

いつまた理科の国に行けるか、それは分からない。もしかしたら一生行けないかもしれない。

(だけどきっと、今までみたいに化学を勉強し続けていたら、また理科の国に行けるよね)

そう思うとなんだか急に力が湧いてきた。俺は笑みを作ると、活を入れるようにぎゅっと赤ペンを握った。

(まあ、今はテストの採点の続きでもしようか)

また理科の国に行けることを強く願いながら、俺は重ねられた答案用紙をめくった。

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化学事変 シュレディンガーのうさぎ @kinakoyu

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