第28話 Ni

俺たちは、俺が水銀と初めて出会った場所に来ていた。

「……ふふ、ここに俺が倒れていたんだよね」

「ああ」

俺の言葉に水銀が頷く。

青酸ガスで死にかけていたときが懐かしく思えるほど長い時間ここにいたような気がしていた。

「あのときはまさかお前が生きているとは思わなかったから、お前が動いたときはかなり驚いたものだ」

昔を思い出すように言う水銀に思わず微笑む。

「あのとき、黄リンが俺を助けるよう言ってくれなかったら、俺は本当に死んでただろうなあ」

そうしみじみという俺に水銀が「そうだろうな」と頷いた。

「あ!人間!」

甲高い声がして顔を上げれば、トルエンがこちらに走り寄って来るのが見えた。俺の前で止まり、はあはあと息を整える。どうやらここまでずっと走ってきたようだ。

「トルエン?どうしたの?」

不思議に思って尋ねるとトルエンが体を起こし、俺のことを見た。上から下までをじっと眺めるトルエンを見て首を傾げる。

「えっと、どうかしたの?」

俺の問いかけに自分が妙なことをしていることに気づいたのか、トルエンが罰が悪い顔をした。

「べ、別に変な意味はなくて……。……似合ってると思うわよ、その白衣」

トルエンに恥ずかしそうに言われ俺は笑みを作る。

「ありがとう!……それにしても、これが新しいものだってよく分かったね?」

そう驚いたように言うとトルエンが顔を赤くした。

「別に、シミ一つなくて綺麗だからそうなのかなって思っただけよ!」

そう言ってそっぽを向く彼女に俺は思わず微笑む。

「ふふ、そっか。それにしても、わざわざ見送りに来てくれたの?」

そう尋ねるとトルエンが顔をしかめた。

「違うわよ。あんたが白衣を着てるかどうか確認してニトロに……」

そこまで言ってトルエンが慌てて口を塞いだ。ニトロという名前に首を傾げる。

「ニトロがどうかしたの?」

尋ねるとトルエンが誤魔化すように手を振る。

「な、なんでもない!ちょっと言い間違えただけよ!……とにかくその白衣、大事にしなさいよね!」

それだけ言うと、俺が何かを言う前にトルエンが逃げるように走りさってしまった。きょとんとする俺の隣で、水銀がため息をつく。

「全く、素直じゃないやつだな。……まあ、俺も人のことは言えないが」

そう言う水銀を見て、俺は首をひねった。しかし、彼は特にそれについて言及することもなく、俺の方に向き直った。

「よし、もう行くぞ。青酸雨が降ってきても嫌だしな」

水銀の言葉に頷くと共に青酸のことを思い出す。

「青酸様に別れの挨拶をしたほうがいいかな?」

そう尋ねると水銀が顔をしかめて首を振った。

「いや、いい。どうせ、俺たちがシアンタウンから出ていこうとしていることもあいつには筒抜けだろうしな」

そう言って水銀が鉱山の方を見た。俺もそちらの方を振り返るが、青々とした木の葉に邪魔されて何も見えなかった。

「よし、青酸の森に入るぞ。……念のため、ガスマスクを用意しとけよ」

水銀の言葉に頷きながら、俺はポケットにガスマスクがあるかどうかを確認した。


水銀と一緒に青酸の森をゆっくりと歩く。シアンタウンにいる間にもう何度も見かけたからか、今は青酸の森に恐怖を感じることはなかった。

隣を歩く水銀に話しかける。

「シアンタウンに来るときはニトロと一緒にここを通ったんだ。それで、この森がどうして青酸の森って呼ばれてるのかとか、青酸雨のこととかを聞いたんだ」

そう懐かしそうに言う俺を水銀がちらりと見る。

「そうか。……お前にとって、シアンタウンはどんな街だった?ここに来る前と何か印象が違ったりしたか?」

水銀の言葉に少し考えてから口を開く。

「劇物毒物だらけの街って聞いて、どんな街なんだろうと思ったんだけど……。俺にとっては面白い街だったよ。化学物質たちが色んな集団に属して暮らしている。同じく色んな考えを持っているから衝突することもあって……。でも結局は、皆が皆自分たちやこの街をよくしたいと思ってる。皆仲がいい、素敵な街だと思ったよ」

そうしみじみと言う俺を見て水銀が黙り込んだ。

「……そうか」

特に感情なく平坦な口調で水銀が答えた。けれど、その横顔はどこか嬉しそうであった。

そこから少しの間会話が途切れる。しばらくたって、沈黙を破るように水銀が口を開いた。

「人間。お前は青酸に自分のことを認めさせたし、家を出るとき黄リンにまたここに戻ってくると約束もしていた。お前は今、この街をなんとかして良くしようと意気込んでいるに違いない。……だけどな、しばらくこの街に来なくてもいいぞ」

そう言う水銀の方を驚いて振り返る。水銀は真剣な顔をして前を向いていた。意地悪を言っているわけではなさそうだ。

「……俺、この街にいると迷惑?」

そう不安げに尋ねると水銀が首を振った。

「そんなことはない。お前が俺たちに寄り添ってくれることはとても嬉しいし、お前のおかげでこの街の奴らがいい影響を受けたのは確かだ。お前には感謝してるし、期待もしてるよ」

そこまで言って、水銀が口を閉じた。しかし、またすぐに開く。

「だけどな、余所者のお前に頼りすぎていたら駄目なんだ。シアンタウンの問題は、理科の国の問題だ。俺たちでなんとかするよ」

そう言う水銀はどこかすっきりした顔をしていた。彼の横顔を黙って見つめる俺の方を水銀が振り返る。

「……まあ、誰かさんも心を開いたことだし、俺も意地はるのをやめてみようと思ってな」

そう言って水銀が微笑んだ。

「え?それって……」

俺の代わりに水銀が続ける。

「お前に言われたとおり、コイルと話してみることにするよ。もしかしたら、あいつと話すことで何か変わるかもしれない。……何も変わらないかもしれないが、とりあえずやってみるよ。行動しなかったら絶対に何も変わらないしな」

水銀の言葉に俺は微笑んだ。

「そうだね。きっと、何かいい考えが浮かぶよ。君も彼も、同じ国の住民なんだから」

そう言うと水銀が頷いた。

「ああ。だから、しばらくお前の力は借りない。お前もここに無理に来なくてもいぞ」

水銀の言葉を寂しく感じながらも俺は頷いた。水銀たちが自分の力でなんとかしようとしているのだ。応援しなければならない。

「そっか……。分かった。陰ながら応援してるからね」

そう言いながらも残念そうな顔をしている俺を横目で見ながら水銀が口を開いた。

「でもな、人間……」

そこまで言って一度言葉を切った。そして顔を下に向ける。

「もし、また、どうすればいいか分からなくなったら、そのときはお前を呼んでもいいか?」

そう恥ずかしそうに言われた言葉に俺は顔を上げ、水銀を見た。その視線を受けて彼が照れくさそうな顔で頬を掻いた。それを見て俺は柔らかく微笑んだ。

「うん。もちろんいいよ」

そう言うと水銀が照れたように頬を掻き、

「……ありがとな」とお礼を言った。


青酸の森を抜けたところに、『この先シアンタウン』と書かれた看板が立っていた。それを見て、とうとうシアンタウンを出たことに気づき、なんだか寂しい気分になった。

その看板の近くにカドミウムが昨日と同じ服装で立っていた。彼は俺を見ると帽子をとり、軽く挨拶をした。

「カドミウム!」

駆け寄ってきた俺を見てカドミウムが微笑む。

「無事に青酸の森を出られたようですな」

優しい顔で俺を見ているカドミウムに大きく頷いてみせる。それから、彼の隣に立っている人を見た。その男性は、一度も見かけたことのない人だった。

「この人は?」

そう尋ねると彼がこちらを見てお辞儀をした。

「こちらが電磁気学区からいらっしゃったコイル様にございます」

カドミウムの言葉に俺ははっとした。

(この人がコイルさん……)

コイルは紺色の髪と青色の瞳が特徴的で、きっちりと前髪を分けた理知的で真面目そうな青年だった。左手に灰色のフォルダを持ち、左耳にはコイル型のイヤリングをしていた。

「はじめまして」と俺も彼に会釈を返す。

「お前がコイルか。よく来たな」

そう言って俺の後ろから声をかけた水銀を見て、コイルがはっとした顔をした。

「……あなたがまさか私に会ってくれる日が来るとは思いませんでした」

驚いたように言われて「まあ、少し気が変わってな」と水銀が罰が悪そうに後頭部を掻く。

「ここまでご足労いただき、まことにありがとうございます」とコイルが水銀に向かって深々と頭を下げる。

「それはこっちの台詞だ。……それで?はるばるシアンタウンまで一体何をしに来たんだ?」

くだけた水銀の口調とは対照的にかしこまったようにコイルがフォルダをめくる。

「我々物理地方の技術とあなたがた化学地方の技術の融合で、化学兵器に代わるものを作れないかと思い、今日はお伺いしたのです。……少々お時間をいただけますでしょうか?」

慇懃に言うコイルに水銀が頷いた。

「ああ。ここで立ち話もなんだ。俺の家に来てくれ。そこで話そう」

そう言うとコイルが驚いた顔をした。

「シアンタウンにお邪魔してもよろしいのですか?」

水銀が頷く。

「ああ。……これからのことを考えるにはお前がこの街のことを知っておいたほうがいいだろう」

水銀の言葉にコイルが微笑んだ。

「……ありがとうございます」

穏やかな雰囲気で会話をする水銀とコイルを見て、俺は表情をほころばせていた。

(良かった……)

この歩み寄りがシアンタウンを、更に言えば化学地方や理科の国を良くする大きな一歩となることを俺は心の中で強く願っていた。

コイルと会話を終えた水銀がカドミウムの方を振り返る。

「じゃあ、カドミウム。この人間を王都まで頼む」

カドミウムが頷いた。

「ええ。私が責任持って案内いたします」

そう言って恭しくお辞儀をするカドミウムを見てから、コイルが俺のことを見た。怜悧な瞳で興味深げに眺めてから彼が口を開く。

「つかぬことをお聞きしますが……あなた、もしかして教師ですか?」

そう言い当てられて思わず驚く。

「え?あ、はい!よく分かりましたね」

「いえ、なんとなくなのですが……」

そう言ってからコイルがふっと笑みを作った。

「……最近はやけにこの国に教師のお客が多いですね」

「え?」

不思議に思って聞き返すとコイルが首を振った。

「いえ、こちらの話です」

それから水銀の方に振り返り、「お待たせしました」と声をかけた。

「じゃあ、行くぞ」

水銀の言葉にコイルが頷く。コイルと共に青酸の森に向かって歩き出す水銀に俺は声をかけた。

「水銀!今まで本当にありがとう!」

彼への感謝の気持ちをありったけ込めて、その五文字を紡ぐ。水銀が足を止め、振り返った。

「また来るね!」

そう言って大きく手を振ると水銀が笑みを作った。

「……ああ。またな」

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