第14話 Si

「!?」

ぎょっとして顔を背けようとするが、恐ろしいほど強い力で押し付けられ、逃げられなかった。息を吸わないようにしても体は酸素を求め、意思に逆らって呼吸を繰り返す。

(これって……塩素!?)

特有の匂いとともに塩素が鼻に滑り込んてくる。それを吸っているうちに、段々頭が痛くなって来た。喉の奥から何かがせり上がってきて、思わず大きく咳き込む。

絶え間なく咳き込み始めた俺を見て、ホスゲンが瓶を離した。

その場に膝をついてしゃがみ込む。お腹が攣って痛くなるほどに咳き込んだが、まだ咳は止まりそうにない。胸が締め付けられるような圧迫感と喉の痛みに顔を歪める。頭も割れるように痛く、吐き気も酷い。

涙で滲む視界に、俺を冷めた目で見下ろすホスゲンが映る。

(苦しい……)

血を吐くかと思うほど咳き込む俺の耳に、咳の音に混じって誰かの声が聞こえてきた。

「人間!」

聞き覚えのある声にはっとして顔を上げれば、すぐ隣に水銀が立っていた。ここまで走ってきたのかわずかに息を弾ませている。

「水銀……」

俺がかなり苦しそうな顔をしていたのだろう。彼が目を見開きいつもの無表情を崩すと、俺の体を支えるように寄り添った。

「水銀。貴様、余計なことをしてくれたものだな。あのときこの人間を見捨てていればよかったものを」

ホスゲンが俺たちを見ながら冷めた口調で言った。

「お前、この人間に何を……」

俺の体を支えながら水銀がホスゲンを睨みつける。

「なに、案ずるな。その人間は軽い塩素中毒になっているだけだ」

そう悪びれもなく言うホスゲンをねめつけながら水銀が再び口を開く。

「どうしてこんなことを……」

苦い表情で言う水銀の言葉に彼女がふっと笑った。

「この人間が、貴様ら化学物質たちと一緒にどうしたらこの街が良くなるか考えたいなどとほざいていたからな。灸を据えてやったんだ」

そう言うと水銀が驚いたように俺を見た。

「お前、そんなことを……?」

息絶え絶えに頷いてみせる。

「……うん。ここの皆には親切にしてもらったし、化学教師としてシアンタウンや化学地方をいい風に変えたいと思ってるんだ」

そう言うと水銀が難しい顔をして考え込んだ。

「水銀、よく考えてみろ」とホスゲンが冷ややかな口調で言った。

「いいか、そいつは少しでも塩素を吸っただけですぐに中毒になってしまうような脆い生き物なんだ」

水銀の様子を見ながらホスゲンが続ける。

「塩素だけじゃない。私のことを吸っても、貴様の蒸気を吸っただけでもこの人間は死ぬ。そんな者にシアンタウンを、化学地方を良くすることなどできると思うか?」

彼女の言葉を水銀が黙って聞く。

「中途半端な改革は全てを駄目にするだけだ。それならいっそ、何も変わらないほうがいいだろう」

「……」

ホスゲンの言葉を聞いて悩むように水銀が俯いた。

彼女の言うとおりで、確かに俺は弱い。ホスゲンや水銀と違って少しでも劇物や毒物を摂取したら死んでしまう。

「……でも、俺は君たちの力になりたい」

咳き込みすぎて空気が肺に入ってくるどころか出ていくばかりだ。言葉を紡ぐために出す空気など生命維持のためには惜しまなければならないことかもしれないが、これだけは言いたかった。

足りない酸素を補うように短く浅い呼吸を繰り返す俺を水銀が黙って見つめた。そんな俺と水銀をホスゲンが傍観する。

「……まあ、せいぜい足掻いてみればいい。どうせ、時間が経てば経つほど貴様はこの街にいにくくなることだろう」

そう言ってホスゲンが踵を返した。そして、顔だけを少しこちらに向ける。

「私たち以外でも貴様を狙っているやつは数多いる。きっと、次に貴様を手にかけるのは私ではないだろうな」

「……」

ホスゲンはよどんだ瞳で俺を一瞥したあと、振り返ることなく去っていった。


彼女がいなくなってしばらく経ってから水銀が俺に話しかけた。

「立てるか?」

俺は頷くと、彼に支えられながらゆっくりと立ち上がった。塩素を吸わされたときに比べたら大分楽になったが、まだ胸が苦しい。

「家に戻るが……歩けるか?」

「うん。ゆっくりなら……」

そう言うと水銀が頷き、ゆっくりと歩き出した。俺に歩幅を合わせてくれるのをありがたく思いながら俺は歩みを進める。

どうやら、昨日俺が行かなかった硫酸湖の辺りに来ていたらしい。ホスゲンに連れられていたときは緊張のあまり周りを見渡す余裕などなかったため気づかなかったのだが。

「そういえば水銀、鉱山に行っていたんじゃなかったの?」

少しずつ本調子に戻ってきてそう尋ねる。どうして俺があの場所にいると分かったのだろう。

水銀がちらりと俺を見た。

「鉱山の様子を一通り見て帰ってきたら、黄リンがお前が日光浴から帰ってこないと騒いでいるものだからな。不審に思って探していたら、お前の咳の音が聞こえてきたんだ」

「そっか……来てくれてありがとう」

そう言って笑うと水銀が小さく息をついた。

「……笑う余裕が出てきたみたいだな」

「え?」

水銀の声が小さくて聞き取れず、きょとんとして彼を見る。しかし、水銀はその視線に返さずに前を向いてしまった。


研究所の近くを通りかかると、誰かの声が耳に届いてきた。

「兄さん、酔ってどこかに置いてきちゃったんじゃないの?」

視線を巡らせれば、研究所の前に髪の長い女性がいるのが見えた。よく見ると彼女は幼い男の子を抱きかかえていた。

「いや、そんなわけがない。昨日、たしかにラジオ局の近くで飲んでいて……」

女性と向かい合っていた男性が額に手を当てながら何かを思い出そうとしている。

(誰だろう?)

不思議に思い彼らを見ていると、男性が顔を上げた際に彼と目が合った。見覚えのある黒いぼさぼさ頭に着崩したワイシャツ……。

「メタノール?」

俺が声を上げるとメタノールが怪訝な顔をした。

「……ん?あんた、なんで俺の名前を知ってるんだ?」

水銀と共に彼にゆっくりと近づいていく。

「覚えていない?昨夜、ラジオ局の近くで君とクロロホルムの三人で喋ったんだけど……」

メタノールは少し考え込むと思い出したように手を叩いた。

「ああ!あのときの兄ちゃんか!」

思い出してもらえたようでほっとする。今の彼は昨夜のように酔っ払っておらず、素面のようで顔は白かった。きちんと白衣を着て、少し緩めではあるがネクタイを締めているところを見ると、クロロホルムの言うとおり昼間はちゃんと働いているらしい。

俺はメタノールを見つめている水銀に彼との出会いについて話した。

「そんなことがあったんだ……。人間さん、兄さんが迷惑かけてごめんね」

そう言ってメタノールの隣にいた女性が頭を下げる。腕の中に抱かれていた男の子が指をくわえて不思議そうに彼女の顔を見上げた。

「ううん、大丈夫だよ」

そう言って笑う俺にメタノールがずいと近づいてきた。

「なあ、兄ちゃん!あんた、俺が昨日口をつけてたメタノールボトルを知らないか?」

そう尋ねられぽかんとする。

「メタノールボトル?」

「ああ。まだ飲みかけだったはずなのにどこかに行っちまってよお……」

そう言ってメタノールが肩を落とした。記憶の糸をたぐり、別れ際にメタノールが俺にボトルを押し付けてきたのを思い出した。

「ああ、あのボトルだったら俺が持ってるよ」

「あんたが!?」とメタノールが驚いた顔をする。

「うん。昨日君が……」

理由を話す前にメタノールが怒り出した。

「さては兄ちゃん、俺の持ってたメタノールが欲しくて盗んだな?」

あらぬ疑いをかけられて思わず目を丸くする。

「ち、違うよ!あれは君が俺に持ってけって無理やり押し付けるから……」

「俺が大事なメタノールボトルを他人にあげるわけがないだろ!返せ!」

そう言って詰め寄ってくる。水銀がガードマンのように俺とメタノールの間に割って入った。

「ちょっと待て。こいつは今本調子じゃないんだ。文句があるならあとから言ってくれ」

「なにい!?大事なものを持っていかれて黙ってろって言うのか!?」

そう言ってメタノールが水銀に食ってかかる。どうやら、頭が固いのは普段から同じらしい。「兄さん、やめて!」と隣の女性が見かねたように言った。

「おいおい、メタノール。ボトルは昨日、お前が酔っ払ってたときに人間にあげたんだろ?」

そう呆れたような声が研究所のほうから聞こえてきた。そちらに視線を向ければメタノールの後ろから昨日と同じ格好をしたクロロホルムが現れた。

「クロロホルム……」

「やあ、先生。おはよう」とクロロホルムが軽く手を上げる。俺も挨拶を返した。

「クロロホルム、お前、何寝ぼけたこと言ってやがる?俺がメタノールボトルを人間に渡すわけないだろ!」

「お前こそ、まだ酔っ払ってるんじゃないのか?いい加減メタノールを飲むのを控えたほうがいいんじゃないの?」

そう煽るように言うクロロホルムにメタノールが憤慨する。

「……多分、クロロホルムさんの言ってることが正しいんだよね?」と女性が困ったように笑った。

「そのとおり。さすがホルムアルデヒド、こいつの『弟』とは思えないよ」

クロロホルムの言葉にはっとする。メタノールの弟がホルムアルデヒドということは、彼女が抱きかかえている更に幼い男の子がギ酸なのだろうか。

(この女性がホルムアルデヒド……。いや、女性じゃなくて男性?)

クロロホルムはホルムアルデヒドが『弟』だと言っている。しかし、昨夜メタノールは『妹』だと言っていたし、何よりホルムアルデヒドの見た目が女性だ。

(どっちが正しいんだろう……まあ、どっちでもいいか)

そもそも化学物質に性別など存在しない。どちらの性別であろうと構わないだろう。いくら考えても答えは出そうになかったので俺はそう結論づけることにした。

「とにかく、昨日君にもらったメタノールを持ってくるよ。ちょっと待ってて」

家の方に向かって歩き出そうとする俺を水銀が引き止める。

「お前は少し休んでいろ。俺が代わりにとってくる」

そう言う水銀に首を振る。

「大丈夫。もう平気だよ」

そう言って笑う俺を疑わしそうに見たあと、水銀がしぶしぶといったように頷いた。

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