第13話 Al

翌朝起きると、すでに水銀はいなくなっていた。黄リン曰く、朝早くから鉱山の様子を見に行ったらしい。

「水銀は鉱山の管理者なの?」

疑問に思って尋ねると黄リンが頷いた。

「うん。水銀を使って金を採掘してるんだって!」

彼の言葉になるほどと頷く。

水銀を使った金の採掘は俺たちの世界でも行われていることだ。しかし、金を含むアマルガムから水銀を蒸発させる際に発生する水銀蒸気が人間には有害ということでこの採掘方法は現在問題になっている。生き物のいない化学物質だらけのシアンタウンだからこそ気兼ねなく出来る採掘方法だろう。


朝食を取りに台所へ行くと、ダイニングテーブルに座っていた硫化水素と目があった。

「おはよう」

そう声をかけると硫化水素が「おはようございます」とぺこりと頭を下げた。彼女とはラジウムのお陰で少し仲良くなれたようだ。

「おはよう、人間さん。昨日はよく眠れた?」

硫酸に尋ねられ「はい、お陰様で」と答える。

「そう、それなら良かったわ。ハニートーストを作ったのだけど、食べられるかしら」

「はい」と大きく頷く。その間にもはちみつの甘い匂いが鼻孔をくすぐって、お腹がぐうとなった。

顔を赤らめ慌ててお腹を抑える。それを見て硫化水素がくすりと笑った。

「たくさん食べてちょうだいね」と硫酸も微笑む。

「ありがとうございます」

俺は恥ずかしさを感じつつもお礼を言うと料理を受け取った。


朝食を食べ終え、外の空気を吸いに玄関に向かう。深呼吸をし、大きく伸びをしながら眩しく照らす太陽に目を細めた。

(理科の国にも太陽はあるんだなあ)

俺が住んでいた世界とほとんど同じだと考えていいのだろうか。

(まあ、物理法則は一緒のはずだもんなあ)

それにしても、化学地方があるということは、同じように物理地方や生物地方もあるのだろう。同僚の物理教師や生物教師が来たら喜ぶだろうなあ、と俺は彼らに思いを馳せた。

空は雲一つない快晴だ。これだけ天気がいいと気分がいい。俺は軽い体操をして、日光を余すことなく全身に浴びた。

(そろそろ戻らないと)

黄リンにすぐに戻ってくるよう口を酸っぱくして言われていたので、物足りなさを感じつつも家に戻ろうと扉の方を振り向いた。

「……貴様が水銀が助けたという人間だな」

なんの前触れもなく、後ろから氷のように冷たい声をかけられて心臓が跳ね上がった。

驚いて振り返ると、いつのまにか目の前に全身真っ黒な服を着た女性が立っていた。ミニタリーハットを目深く被り、出来るだけ素肌を出さないような格好をした彼女の瞳は、酷くよどんだ青黄色をしていた。


今まで風でザワザワと揺れていた木々がぴたりと静止し、この場は完全な静寂が支配していた。まるでシアンタウンに俺と彼女しかいないような奇妙な感覚にとらわれる。

太陽が雲に隠れたのか、あたりが須臾にして暗くなった。彼女の顔が陰り、目だけが異様に光って見える。

その女性から腐臭が漂ってきているのに気づいて、ぞわりと背筋が寒くなった。思わずごくりとつばを飲み込む。

(この人、今までの化学物質と雰囲気が違う……)

殺されるかもしれないという明確な恐怖が俺を襲った。じりじりと後ずさりをし、彼女から距離を取ろうとしたが、その瞳に見据えられて体が石のように固まる。まるで頭から冷水をかけられたかのようだった。

「貴様に少し話がある。私についてこい」

それは有無を言わせない業務的で威圧的な口調だった。俺はほぼ無意識に頷くと踵を返して歩き出した彼女の後に続いた。


女性は黙って歩みを進めていた。どれだけ歩いたか分からないが、いつのまにか見たことのない場所に来ていた。左側に見える真っ赤な湖にごくりと息を飲む。

(どこに連れて行かれるんだろう……)

俺は命の危険を覚悟しながら彼女の後ろを歩いていた。

不意に、彼女が足を止め、振り返った。風が吹き、湖にさざ波が立つ。強い風によって前髪をかき回しながら彼女が俺を見下ろして口を開いた。

「逃げずについてきたか。その勇気は褒めてやろう」

静かに、けれど高圧的な口調で彼女が俺に話しかける。

「あ、あの……。あなたは?」

恐る恐る尋ねると彼女がゆっくりと口を開いた。

「私の名はホスゲン。ここ、シアンタウンの治安維持を任されている」

(ホスゲン……)

ホスゲンは、吸引することで催涙、くしゃみ、呼吸困難などの急性症状を呈したあと、数時間後に肺水腫を起こして人間を死に至らしめる猛毒の気体である。

(彼女がその、ホスゲンか……)

ぴりりとした緊張感が張り詰める中、俺は彼女から目を離せずにいた。目を離したら最後、彼女に殺されてしまうような気がしたのである。

「その……一体俺に何の用ですか?」

とにかく相手のことを知らなければ話し合う事もできない。

彼女のことを探ろうとする俺を、ホスゲンが冷めた顔で見つめる。

「貴様の存在のせいでこの街の治安が脅かされそうだったからな。貴様を消しに来た」

「俺を、消す?」

ぎょっとして聞き返す。ホスゲンがわずかに頷いた。

「貴様はここの化学物質たちと親密になることを望んでいるようだが、そうなっては困る」

「どうしてですか?」

ホスゲンが死んだような目で俺を見た。

「貴様がここで化学物質たちと干渉すると、シアンタウンの均衡が崩れるんだ。シアンタウンは嫌われ者たちの街。それでいい」

「そんな……」

ホスゲンの冷たい言葉に俺は顔をしかめた。そんな俺を見ながら彼女が顎に指を添える。

「……ただ、そうだな。貴様ら人間共に今までのように大きな顔をされ続けるのは我々としても心外だ。貴様のように化学物質たちに敬意を持つ人間がこちらにとって気分がいいものであるのは確かだ」

そう言って少し彼女が興味を持ったような顔をした。

「人間共は我々を利用して自らが望むものを得てきたが、何一つ我々には礼をよこさなかった。貴様らが私たちを使いこなせていると思ったら大間違いだ。昔は人間共の間に私たちを畏怖する心があり、もう少し謙虚だったものだが、段々私たちの扱いが粗雑になってきているのは事実だ」

そう言い、ホスゲンが俺の方に手を伸ばした。何をされるかと思わず身構える。

「貴様をここで殺せば、化学物質を舐めくさっている人間共への見せしめになるかもな」

そう言って彼女の赤い唇が弧を描いた。

「!」

ぞっとして思わず後退る。彼女なら本当に俺を殺してもおかしくない。

「……まあ、たかが教師である貴様一人殺したところでどうこうなるとも思わないがな」

そう言って手を下ろす。まるで向けられていた銃が下ろされた時のように、俺はほっとして止めていた息をはきだした。

そんな俺にホスゲンがまた話しかける。

「さて、人間。貴様に問うが、ここの化学物質共は人の役に立ちたいと散々ほざいているようだが、奴らは今だって十分人間共の役に立っていると思わないか?」

「え?」

不思議に思い聞き返すと、ホスゲンの仄暗い瞳が俺を捉えた。

「私たちが作った化学兵器を使うことで救われる人間も必ずいるはずだ。それだって、十分人の役に立っていると言えるだろう」

「それに」と彼女が続ける。

「兵器を作らなくなったらこの街の奴らは仕事を失うことになる。貴様の言うとおり有用な使い方を持つ化学物質もいるのは確かだが、そうでない奴のほうが多い。そうしたら、奴らは今度こそ自分たちの存在意義を見失うことになるだろうな」

ホスゲンの言葉に(確かに)と俺は考え込む。

(じゃあ、兵器作りを止めることはよくないことなの?でも、化学物質たちが望んでいるのはそんな役の立ち方じゃないし……。きっと、彼らの『個性』を使って何かいいことが出来るはずなんだ)

とはいえども、俺一人で劇物や毒物の有用な使い方を開発することなんて出来ない。

(何がシアンタウンの化学物質たちにとって最もいいことなんだろう?)

水銀が言ったように適当な慰めをしてはいけないし、ホスゲンが言ったように後先を考えずに行動することもいけない。

いくら考えても堂々巡りをするだけで何も思いつかなかった。俺はがっくりと肩を落とす。そもそも正解があってないようなものだ。

こんなふうに先行きが不透明な不安定な状態は、大学の研究室で化学の研究をしていたとき以来かもしれない。

(いや……)

そう思ってふと考えた。研究室でもアイディアが出てこなくて研究に行き詰まったり、結果が出なくて嫌になったときが多々あった。でも、なんだかんだ乗り越えてきたのだ。

(そうだ。今は答えが見つからなくても、化学物質たちと話し合ったり、もっと長い時間考えたりしたら、何かいいアイディアが浮かぶかもしれない)

化学物質たちは自分たちの生活を、もっと言えばシアンタウンをいい街にしたいと思っているに決まっている。俺も同じ気持ちでいることを化学物質たちに伝え、皆で知恵を出し合って考えれば、何か名案を思いつくかもしれない。

そう思い、俺はホスゲンを真っ直ぐに見た。もう怯えはなかった。力が体の中から湧いてきているかのようだった。

「ホスゲン、お願いがあるんだ。俺をしばらくここにいさせて欲しい。ここで彼らともう少し一緒にいたいんだ」

ホスゲンが黙って俺を見つめた。

「どうしたらシアンタウンの化学物質たちが幸せに暮らせるか、どうしたら化学地方が良くなるか俺も一緒に考えたい。もしかしたら、部外者の俺が来たことで、今までになかった新しい考えが浮かぶかもしれない。だから、しばらく俺をここにいさせてほしいんだ」

そう説得するよう彼女の目を見て言った。

「……」

ホスゲンは何も言わなかった。その目からは彼女が何を考えているかさっぱり分からない。

ホスゲンの次の言葉を待っていると、彼女が瞬きもせずにこちらにゆっくりと近づいてきた。

「……そうか」

特に感情のない声でそう言ったあと、ホスゲンは静かな動作でどこからか瓶を取り出した。

そして、それを俺の鼻と口を覆うように押し付けた。

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