第12話 Mg

月明かりがあるとはいえども、街灯のない夜道はやはり暗かった。しかし、手元で光るラジウムの明かりのおかげで、なんとか先に進むことができた。

ざっざっと靴が地面を擦る音を聞きながらもくもくと歩みを進めていると、道の横に大きくて黒い何かがあるのが見えてきた。不思議に思って近づいてみると、それは、寝ているのか地面に突っ伏している男性だった。

(誰だろう……?)

不思議に思うのと同時に体調が悪いのかと心配になり、恐る恐る声をかける。

「あの……大丈夫?」

そう声をかけるともぞもぞとその人が動き、顔を上げた。そして俺のことを見る。

ぷーんと、独特な匂いがした。

「……あ?なんだぁ?兄ちゃん、俺に火を近づけんじゃねえ。火傷するぞ」

ろれつの回っていない口調でその人が大きな声で言った。

「え?火なんて持ってないよ」

「何言ってやがる、じゃあその手にあるものはなんなんだよ?」

そう言われ自分の手元を見るが、そこにあるのはラジウムが入った瓶だけだ。

「これは火じゃなくて、ラジウムで……」

そう言うとその人がむくりと起き上がり、頭を掻いた。ぼさぼさの髪をした、ワイシャツをかなり着崩したその男性は、手に酒瓶を持ち酔っ払っているのか夜でも分かるほど顔が真っ赤になっている。

「あぁ?嘘つけ、俺には分かるんだよ。お前、火持ってるじゃねえか」

「だから、よく見てよ!これはラジウムだって!」

そう否定するが相手も「それは火だ」の一点張りだ。どうやらかなり深酒しているらしい。

(参ったな……。もう無視して通り過ぎちゃおうか)

まだ何かをわーわー言っている彼を無視して歩き出そうとしたとき、

「おいおいメタノール、人間にうざ絡みするなよ」

そう言って彼の背後から音もなく誰かが現れた。全く気配がしなかったため、思わずとびのく。

現れたのは眠たげな顔をした、頭にナイトキャップを被った白衣の青年だった。ネクタイをだらしなく結んだメタノールと比べて随分と身なりのいい格好をしている。

(もしかして、この人も研究所の研究員なのかな)

まじまじと彼を見つめる俺の視線に気づいて、彼がふっと笑った。

「ごめんな。こいつ、いっつもこんな調子で酔っ払ってるんだ」

「何言ってやがる、クロロホルム!俺は酔っ払ってなんかいねえ!」

クロロホルムの言葉にメタノールが怒って否定するが、相変わらずろれつが回っていなくて全く説得力がない。

そんなメタノールを見てやれやれとクロロホルムが首を振った。

「……まあ、いつもこんな感じなんだよ。悪いね」

そう言ってすまなさそうな顔をするクロロホルムをみながら、

(化学物質も酔っ払うんだなあ)と思っていた。やはり人間とは酔うメカニズムが違うのだろうか。

「あ〜、まあいい。ほら兄ちゃん、お前も飲め」

そう言ってメタノールが手に抱えていたボトルを差し出す。そのラベルにメタノールの構造式が書いてあるのを見て、俺は首を振った。

「えっと……遠慮しておくよ」

「けっ、なんだよ!ノリの悪いやつだな」とメタノールが悪態をつく。

「こいつの言うことは聞き流してもらって構わないから」とクロロホルムが笑った。

「ふん、なんだよ。俺の苦労なんて一切兄ちゃんには分からないくせに……」

そう言ってメタノールがボトルに口をつけた。

「これ以上飲まないほうがいいんじゃ……」

そう遠慮がちに言うが、「飲まないでやってられっか!」と怒られた。

「人間なんかに俺の気持ちが分かるはずがねえ!」

そう言われて言葉に詰まる。確かに、劇物だと言われて差別される彼らの気持ちを完全に理解することはできない。メタノールの言うとおりだと俯いた。

そんな俺を見ながらメタノールがボトルから口を離す。

「お前ら人間はどうせ、寒い冬でも火を使って暖まれるんだろ?……俺ぁ、引火性が高いせいで火に近よれないんだよ……くそ……」

そう言ってメタノールが自分の服の袖で目を押さえる。

「今度は泣き上戸だよ……」とクロロホルムが呆れたように肩をすくめた。

「おい、人間!お前に俺の気持ちが分かるか!?」

メタノールがびしっと俺を指差す。自分が劇物であることに対するコンプレックス云々ではなくて、まさか冬場に暖まれないという愚痴を聞かされるとは思わなくて俺は目をぱちくりさせる。

「え、えっと……」

「全く、泣くか怒るかどっちかにして欲しいね」

俺とメタノールの様子を見くらべながらクロロホルムがため息をついた。

「やかましい!大体お前はいっつも甘い匂い漂わせやがって!くらくらすんだよ、このすけこまし野郎!」

そう言ってメタノールがクロロホルムに殴りかかる。しかし、クロロホルムは涼しい顔で上手にそれをかわした。

「そんなことを言われても困るなあ。これは俺が醸し出すフェロモンなんだよ。止めたくて止められるものじゃないのさ」

そう言ってクロロホルムが前髪をかきあげる。確かに彼の近くからは甘い匂いが漂ってきていた。

「けっ、いけすかねえ野郎だ」とメタノールが苦虫を噛み潰したような顔をしてそっぽを向いた。どうやらクロロホルムは軟派な性格で、メタノールの性格とは正反対のようだ。

「それに、言うならすけこましじゃなくてフェミニストと言ってほしいな」

「うるせえ!お前、俺の『妹』に手を出したらただじゃすまねえからな!」

そう言って凄むメタノールに「おいおい、『弟』の間違いだろ?」とクロロホルムが呆れたように言い返した。

「あの、君たちは二人とも研究所で働いている研究員なの?」

二人の掛け合いを遮って尋ねると、クロロホルムがこちらを振り向き頷いた。

「ああ。昼間はこいつも比較的真面目に働いてるんだけどね。夜になるといつもこんな感じなんだ」

(昼は真面目なんだ……)と意外に思い酔っ払っているメタノールを見る。

「こいつとは同期でね。まあ見ての通り面倒くさいやつなんだけど、仲良くしてやってるのさ」

「なにぃ?それはこっちの台詞だ」とメタノールが怒る。

「ふふ、仲がいいんだね」

そう言って笑うとクロロホルムがシニカルな笑みを作った。

「まあ、そうかもな」

そう言ってからボトルによりかかりうとうとしているメタノールの肩を叩く。

「おい、メタノール。明日も仕事だろ?そろそろ帰るぞ」

「何言ってんだ、まだまだ俺は飲み足りねえんだよ……ヒック」

そう言ってぐずるメタノールを見てクロロホルムがため息をつく。それから俺の方を見た。

「君も早く帰ったほうがいいんじゃない?」

クロロホルムに言われ、首を振る。

「ラジウムをラジオ局に離しに行かなきゃいけないんだ」

それを聞いて不思議そうな顔をしたクロロホルムが、俺の手元を見て理解がいったように微笑んだ。

「それなら代わりに俺がやっておくよ」

「え?いいの?でも……」

躊躇する俺に彼が笑いかける。

「いいんだよ。それに、早く君を家に返さないと俺が怒られちゃうしね」

そう言ってちらりとクロロホルムが俺が歩いてきたほうを見た。不思議に思い俺もそちらに目を送るが、暗くて何も見えなかった。

「ほら、俺に渡して。ラジウムは責任持って離しておくからさ」

そう言ってクロロホルムがこちらに手を差し出す。

「分かった。……ありがとう」

せっかくなので彼の好意に甘えることにした。

「おい兄ちゃん、これ持ってけ!」

ラジウムをクロロホルムに手渡した俺にメタノールがボトルを押し付けてきた。それはさっきまでメタノールが口をつけていたものだった。

「え?それ、メタノールのものなんじゃ……」

「いいから持ってけ!」

そう言ってぐいぐい押し付けてくる。困ったようにクロロホルムを見れば

「こいつもこう言ってるし、まあ貰っておいてくれよ」と肩をすくめながら言われた。

「あ、ありがとう……」

一応お礼を言って受け取る。ただ、エタノールならまだしも、メタノールは流石に飲めない。何に使おうかと考えながらボトルを腕に抱えた。

「えっと……じゃあ、俺はもう帰るね」

まだ何かをぶつぶつ言っているメタノールを適当にあしらいながらクロロホルムが俺に手を振った。

「気をつけて帰ってね。……まあ、護衛がいるみたいだからきっと大丈夫だと思うけど」

そう含みがあるように言うクロロホルムに、俺は首をひねった。


(あれ?)

家の近くに来たとき、水銀が玄関の扉から中に入っていくのが見えた。

(水銀も外に出掛けていたのかな?)

不思議に思いつつ、俺は彼の後を追って中に入った。

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