第11話 Na
夕食を食べ終え、水銀に言われたとおり家の裏に行こうとする俺を黄リンが呼び止めた。彼は非常に心配そうな顔をして俺のことを見つめていた。
「喧嘩しないでね?」と不安そうに言う黄リンを安心させるように微笑んでみせる。
「そんなことしないから大丈夫だよ。じゃあ、行ってくるね」
そう言って扉から出ていく俺を、心配そうに黄リンが見送った。
水銀に会いに行く前に食べ終えた皿を返却しに台所に向かう。
昼頃に食べたシチューもおいしかったが、夕食に食べたハンバーグもほっぺたが落ちるくらいおいしかった。
(硫酸は本当に料理が上手なんだなあ)
硫酸が手でこねたハンバーグだと硫化水素に聞いたときは食べても大丈夫だろうかと思わず躊躇したものだが、全くの杞憂だった。箸で切ると肉汁が溢れ出て、口の中でほろっととろけてしまう、いくらでもおかわりが出来るほどおいしいハンバーグだった。
(ちゃんとお礼を言わないとな)
台所に入ると、硫酸が忙しそうに調理器具を洗っているのが見えた。
「あの……」
後ろから声をかけると、彼女がゆっくりと振り返った。そして俺を見て人の良さそうな笑みを作った。
「まあ、人間さん。わざわざお皿を持ってきてくれたの?ありがとう」
「いえ、こちらこそ美味しい料理をありがとうございます」
そう言って頭を下げると硫酸が微笑んだ。
「お口にあったなら良かったわ。そこに置いておいてちょうだい。後で洗っておくわ」
そうは言われたが、料理を作ってもらった上に皿洗いまでしてもらうわけにはいかない。
「いえ、皿くらい俺に洗わせてください」
そう言うが、彼女は首を横に振った。
「いいのよ。あなたは大事なお客さんなんだから」
そう言ってから思い出したようにぽんと手を叩く。
「そうだ。水銀があなたに用事があったみたいなの」
「家の裏で待っているんですよね」
そう言うと「あら、知ってたのね」と目を丸くした。
「これから行ってくるつもりです」
そう言うと硫酸が少し眉を下げた。
「そう……。あのね、人間さん。水銀は不器用だから冷たいことを言うかもしれないけれど、本当は優しい子だから、誤解しないであげてね」
硫酸の言葉を聞いて、黄リンに同じようなことを言われたのを思い出す。俺は微笑むと頷いた。
「ええ。分かっています」
そう言うと硫酸が優しく微笑んだ。
「ありがとう。外は暗いし、風が強いから暖かくして行ってね」
俺は気を使ってくれる硫酸に丁寧にお礼を述べたあと、外へと続く扉のドアノブに手をかけた。
外に出ると冷たい夜風が吹き付けてきた。白衣の前のボタンをとめ、目にかかった前髪を払う。
家の裏に回ると、水銀が腕を組み壁によりかかって立っているのが見えた。俺を見つけると壁から背中を離す。
「来たか」
水銀の言葉に頷いてみせると、彼が俺の隣に座り込んだ。そして、俺にも座るよう目で指示する。
二人で並んで目の前にある青酸の森を眺める。夜の森は先が見えないほど真っ暗で、なんだか不気味に思えた。
呼び出したのに何も言わない水銀をちらりと見て、俺は口を開いた。
「……水銀。俺が勝手にシアンタウンのあちこちを歩き回ったこと、怒ってる?」
そう恐る恐る尋ねると、水銀が首を振った。
「……いや。お前が俺に内緒でここを歩き回ることは想定内だった。危険をおかしてまでシアンタウンに来た人間だ。家でおとなしくしているわけがない」
水銀に言い当てられて顔が真っ赤になる。
「だが……まさかPCBに会うことになるとは思わなかった。あいつ、普段は何かに興味を示すことなんてないくせに……」
そう言って水銀が顔をしかめる。
「まだ会ったのがPCBだったから良かったが、もし相手がTCDDだったら間違いなく殺されてたぞ」
PCBの出したテストのときに扉越しに会話をしたTCDDのことを思い出してぞっとする。確かにもう少しで殺されるところだった。
水銀は振り返ると、俺の瞳を見つめた。
「いいか?お前はもうこれ以上劇物や毒物に関わるな。一酸化炭素やセシウムみたいにお前に気を使う奴らばかりじゃないんだ。人間のことが嫌いなやつもいるし、人間を殺すのが好きなやつだっている」
水銀が静かに俺に言い聞かせるように話す。俺は彼の言葉を聞いて俯いた。
「そもそもお前は、どうして俺らと仲良くしたがるんだ?」
そう怪訝そうに言う水銀に、俺は顔を上げ微笑んでみせる。
「そうすることで、劇物毒物だからと差別されて傷ついた彼らの心を少しは慰められるんじゃないかと思って。……それに、人間にとって有用な使い方がある化学物質には、そうであることをちゃんと伝えたくて」
そう言う俺を水銀が真剣な顔で見つめた。
「……もしそうだったとしても、現実は何も変えられないのにか?」
「それは……」
水銀に言われ、俺は言葉につまり口をつぐんだ。
「劇物や毒物にも人の役に立ついい使い方があることを知らせたら、ここにいる奴らが救われるとでも思っているのか?だからといってその使い方で生きていけるほど現実は甘くない。叶いもしない夢をちらつかせて淡い期待を持たせるのはやめてくれ。……今のお前がやっていることは、ただの自己満足じゃないのか?」
(確かに……)
何も言い返せずに黙り込む。ざああと強い風が吹き、木々を激しく揺らした。
膝を強く抱いて考え込んだ俺をちらりと見てから水銀が再び口を開いた。
「……まあ、別にお前が俺たちのことで気に病むことはない。これは理科の国の問題だ。人間であるお前が首を突っ込む必要はない」
水銀がそう励ますように言い、紺色の空を見上げた。
「もう今日は遅いから泊まっていけ。明日になったらこの街を出て王都へ行くんだ。俺の知り合いに案内させる」
水銀がそう言って立ち上がる。
「大分寒くなってきたな。中に戻るぞ」
そのまま未練がなくなったように踵を返した。しかし、俺はその言葉に従わなかった。肌寒い夜風を浴びながらその場に座っていた。
「おい、何をしてるんだ?」
立ち上がらない俺に水銀が怪訝そうに尋ねる。
「……俺、明日もここに残るよ」
そう言った俺を水銀が驚いたように見た。
「確かに、俺一人じゃ兵器の製造を止めることは出来ないし、シアンタウンの産業を変えることなんてとても出来ない。俺がやってることはただの自己満足かもしれない。……でも俺、もう少しここの化学物質たちと一緒にいたいんだ」
そう言うと水銀がキッと俺を睨みつけた。
「まだそんなことを言ってるのか!ここにいるとお前の命が危険にさらされるんだぞ!実際、PCBが与えたテストのときだって危なかっただろう!」
「でも、ちゃんと無事に帰ってきたでしょ?それに、PCBも俺ならここにいても大丈夫だって」
そう言う俺に珍しく感情的になった水銀が怒る。
「今までは運が良かっただけだ。お前の噂は今日一日でシアンタウン全体に広がってる。人間のことが嫌いな化学物質が、明日あたり行動を起こしてもおかしくないんだ」
俺のことを見ながら水銀が顔を歪めた。
「お前に死なれたら困るんだ。……もう、
俯いて小さな声で言った彼の言葉に俺ははっとして顔を上げた。
水銀は悲痛な面持ちで地面を睨むように見つめていた。そんな水銀を見ながら、今日一日行く先々で水銀の名前を聞いたのを思い出した。
(そんなにも人間である俺が死ぬのを見たくなかったんだ……)
そう思って、自分の顔が思わず綻びるのが分かった。
「水銀は優しいね」
そう言うとばっと水銀が顔を上げた。その顔は真っ赤になっている。
「いや、お、俺はただ、お前が死んだらあのとき助けたかいがないと思っただけで、別に優しいわけじゃ……」
視線を泳がせてゴニョゴニョとごまかす水銀を見て、俺は笑みをつくった。
「そうだよね。水銀が俺のことを守るように他の化学物質たちに頼んでおいてくれたから、今日一日安全にシアンタウンを見て回れたんだもんね」
そう言ってから水銀の顔を真っ直ぐ見て、微笑んだ。
「ありがとう、水銀」
水銀は赤い顔で眉をひそめると、そっぽを向いた。その仕草がなんだか可愛くて、俺はまたくすりと笑った。
夜中、コツン、コツンとガラスに何か軽いものが何度も当たる音で目を覚ました。ベッドから体を起こすと、窓から青白い月明かりがさしこんでいるのが見えた。
コツンという謎の音はまだ続いている。
(なんの音だろう……)
不思議に思い辺りを見回すと、机の上に置いてあるガラス瓶が目の端でわずかに動いたのが見えた。
振り返れば、瓶の中に閉じこめられているラジウムが外に出ようとして瓶壁に何回もぶつかっているのが見えた。そのたびにコツンコツンと音がなった。
(ラジウム、外に出たいのかな……)
今まで外を自由に飛び回っていたのに、こんな狭いところに閉じ込められてしまっては確かに可哀想だ。
(せっかく持ってきてくれたセシウムには悪いけど、逃がしてあげることにしよう)
俺はゆっくり立ち上がると、部屋の隅に座り込んで寝ている水銀と水槽の中にいる黄リンを起こさないように慎重に歩き、ガラス瓶を手にとった。そしてゆっくりと部屋から出た。
(さすがにここで離すのはまずいよね……)
家の前に立ってそう考える。ラジウムはこんなにも綺麗だけれど放射性物質だ。放射線区域でないここで離すのはまずいだろう。
(ラジオ局の近くまで行って離してあげよう)
そう思い、ゆっくりと歩き出した。
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