第10話 Ne
「ここにいたのか!」
外に出た俺を出迎えたのはPCBではなく一酸化炭素だった。肩を上下させ、息を弾ませた彼女の白い額には汗が滲んでいた。
「あれ、一酸化炭素?PCBは?」
そう尋ねると、一酸化炭素が顔をしかめ、顎で背後をしゃくった。
「よう、センセー。中々やるじゃねえか」
一酸化炭素の斜め後ろに立っていたPCBがひらひらと手を振る。
「死にそうになっても頭をフル回転できる冷静さと、化学に対する豊富な知識。これなら、シアンタウンを歩いていても、ちょっとやそっとじゃ死ななそうだな」
そう言って笑う彼を一酸化炭素が睨みつけた。
「お前、なぜこんな危険なテストを人間にやらせたんだ!」
胸ぐらを掴み、声を荒げる一酸化炭素に少しも臆せず、PCBが口を開く。
「なに、この人間がここで生きていけるかどうかのテストをしただけだよ。ここで助からなかったら、どうせいつかはこの街の中で死んでいた。その日が今日かそうじゃないかの違いだけさ」
そう飄々というPCBに鋭いナイフのような視線を送ってから一酸化炭素が俺を見て口を開いた。
「人間。とにかくお前には今すぐ水銀のところに戻ってもらう。これからは水銀がいいと言うまで家から出るな。わかったな?」
そう強い口調で言われ、俺は頷くしかなかった。
家に戻ってからは、俺は一歩も外に出ることが出来なかった。廊下に出る扉の前には硫化水素が立っていて、俺と目が合うと申し訳なさそうに首を横に振った。さすがに彼女を押し切ってまで外に出る気にはならなかった。
黄リンも水銀にどこかに連れて行かれてしまい、することがなくなってしまった俺はベッドに腰掛けてぼうっとする。
(硫酸湖や鉱山にも行ってみたかったな……)
そう思って壁にはられた周期表を眺めていると、不意にコンコンと窓がノックされた。不思議に思って外を覗けば、セシウムが立っていた。
「セシウム!?」
驚いて窓を開けようとすると首を横に振られた。
「窓越しに喋らせてもらうよ。よう、さっきぶりだな」
「そうだね。ところでどうしたの、セシウム?」
そう尋ねるとセシウムがニッと笑い、何かを俺に見せた。それは、ガラス瓶に閉じ込められたラジウムだった。
「それは……」
「ラジオ局にいたラジウムを一匹とってきたのさ。お前、家の中にいて暇してるだろ?これでも見て気分を紛らわせろよ」
そう言ってから窓を開けるよう俺に促した。頷き窓を開けると、セシウムからガラス瓶を受け取る。
ラジウムは蛍のように仄かな光を発して瓶の底面にとまっていた。青緑色に淡く発光するラジウムがなんとも幻想的で、初めて見るわけでもないのに思わず見惚れてしまう。
「とても綺麗……。ありがとう、セシウム」
お礼を言うと「いいってことよ」とセシウムが人のいい笑みを見せた。
「あ、このことはウランには秘密な?兄ちゃんに放射性物質なんか渡したってばれたら怒られちまうからさ」
いたずらっぽい顔をして小声で言う彼に俺は「分かった」と頷いてみせた。
不意に、後ろでとんとんとノックの音がした。
「あの……お茶を持ってきました」
そう言っておずおずと顔を出したのは硫化水素だった。俺と目が合うと気まずそうに視線をずらす。
「えっと……。ここに置いておきますね」
近くにあった机にお茶をおいて引っこもうとする硫化水素を呼び止める。彼女が恐る恐る振り返った。
「見て、硫化水素。セシウムにラジウムをもらったんだ。綺麗でしょ?」
そう言うと硫化水素が目を丸くした。そして遠慮がちにこちらに近づいてくる。
俺の手にあるガラス瓶を覗き込むように目線を合わせ、硫化水素が目を輝かせた。
「本当だ、綺麗……」
辺りに漂う腐卵臭がするガスをあまり吸い込まないように気をつけながら、俺はラジウムに見惚れる彼女を見つめた。
「これをセシウムさんが……。セシウムさんは優しいんですね」
硫化水素に微笑まれてセシウムが照れくさそうに笑った。
「いやいや、そんなことないよ。これくらい普通さ。それにしても、今日の硫化水素ちゃんも相変わらず可愛いねえ!」
彼の言葉に硫化水素が顔を赤らめる。
「そ、そんなことないです……」
「いやいや、本当可愛いよ!そうだ、良かったら今度ラジオ局においでよ。ラジウムを見ながらお話でも……」
そうセシウムが硫化水素を口説き始める。
(セシウムは硫化水素のことが好きなんだなあ)
俺は必死に硫化水素の気をひこうとするセシウムを心の中で応援していた。
夕方になった頃、水銀が黄リンとともに帰ってきた。
「どうやら今度は言いつけどおり家の中でじっとしていたようだな」
ベッドに腰掛けた俺を見ながら水銀が黄リンを台車から下ろした。
「う、うん。さすがにね」
そう言った俺に「ふん」と水銀が鼻を鳴らす。そんな彼の目が机においてあったラジウムに止まった。
「……これはなんだ?」
「ああ、それは……。セシウムが捕まえて持ってきてくれたラジウムだよ。彼とはラジオ局に行ったときに仲良くなったんだ」
そう言うと水銀が壁にかかっている防護服を見て息をついた。
「まさか、わざわざこんなものを物置から見つけ出してまでラジオ局に行くとはな」
「あはは、どんな化学物質がいるんだろうと思ったら気になっちゃって」
そう言って笑う俺を水銀が据わった目で見つめた。
「もうすぐ夕食が出来る。……食べ終わったら家の裏に来い。話がある」
「分かった」
俺が頷くのを見届けてから水銀が踵を返し、部屋から出ていった。
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