第9話 F

二人が言った通り、誰にも見つかることなく廊下を進んでいくことが出来た。見た目よりも広い研究所内に俺は圧倒されていた。

いくつもの角を曲がりひたすら歩いていると、突き当たりに大きな扉がある場所に出た。

「この先に例の化学物質がいるんだよ」

ソックスがその扉を指差す。

(この先に……)

他のとは違う雰囲気の扉を見てごくりと息を飲む。俺の様子を見てノックスとソックスが顔を見合わせくすりと笑った。

「ほら、入っていいよ」

ノックスにうながされ、ゆっくりとドアノブに手を伸ばす。その手がドアノブに触れるかどうかの時に、

「あっ!こら!」

不意に甲高い女性の声が廊下に大きく響いた。ぎょっとして手を引っ込め振り返ると、黄色に近い茶髪の女性が書類を抱えて立っていた。丸眼鏡の奥に見える彼女の目は三角になっていた。

「ノックスとソックス!あんたたち、また研究所に忍び込んでいたずらしてるのね!」

「ヒ素にばれた!」とソックスが特に焦った様子もなく楽しそうに言う。

二人を睨んでいたヒ素が俺のことを見て驚いた顔をする。

「! それに、所長が言ってた人間もいるじゃないの!あんたたち、人間をたぶらかしちゃ駄目じゃない!」

そうヒ素が怒るが、彼女の可愛らしい顔や言い方のせいか全く怖くない。

「ヒ素、あんまり怒るとシワが増えちゃうよ?」とソックスが冷やかす。

「捕まえられるものなら捕まえてみなよー、お間抜けヒ素さん」とノックスがぺろっと舌を出した。

「〜っ、この、こっちが何もしないからって言いたい放題言ってえ……!」

からかわれたヒ素がわなわなと体を震わせたかと思うと、てんで勝手な方向に逃げ出す二人を追って走り出した。俺はぽかんとして騒がしい三人の足音が遠ざかっていくのを聞いていた。

再び静かになった廊下で俺は一人立ち尽くす。

(えーっと……)

とりあえず背後を振り返る。さっきも見た重そうな鉄の扉が俺のことを見下ろしていた。

(確か、この先に最も危険な化学物質がいるんだよね)

俺はごくりとつばを飲み込むとドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。


扉の向こうは倉庫のようだった。試薬瓶が敷き詰められた試薬棚が作る道に沿って俺は奥へと進んでいく。

部屋の一番奥に辿り行くと、真っ黒に染められた白衣を着た男が、部屋の隅においてあるダンボールに腰掛けているのが目に入った。

うつむいて眠っているように見える彼に、意を決して話しかける。

「あ、あの……」

すると、男がゆっくりと顔を上げこちらを見た。左目に六角形のモノクルをつけ、頭にはまるで耳のように二つの髪の毛の山がぴょこんと立っていた。彼の鋭い眼光に捉えられ、思わずどきりとする。

「……あー」

男が俺を見て、合点がいったように笑い、顎を触った。

「あんたが例の人間だな」

ただならぬ彼の雰囲気に俺はすっかり飲まこまれて、ごくりと息を飲み頷く。

「う、うん。ノックスとソックスの二人にここまで連れてきてもらって……」

「ああ、勿論知ってるさ。なんせあの二人はあんたをここに連れてくるために俺が寄越したんだからな」

そう言って彼が大きくあくびをした。

「そうだったの?」

「ああ」と彼が寝ぼけ眼を擦りながら頷く。

「劇物や毒物と仲良くしたがってる、変な人間がいるって聞いてな。興味が出たんだ」

(そんなふうに思われてたのか)

確かに、わざわざ危険なものに近づいていく俺は変人に見えるのかもしれない。

彼は体を乗り出すと、俺の顔をまじまじと見つめた。

「あんた、化学の教師なんだってな?ということは勿論、俺の名前くらい聞いたことあるよなあ?」

そう尋ねられ「な、何?」と尋ねる。

「俺の名前はPCB。ここの研究員の一人だ」

(PCB……なるほど)

頷く俺を見てPCBが口角を釣り上げた。

PCB、ポリ塩化ビフェニルはダイオキシンの一種であり、第一種特定化学物質に認定される毒性と蓄積性の高い危険な化学物質だ。

最も危険とは言い難いが、最も危険な化学物質の一つと言っても過言ではないだろう。

納得する俺を見ながらPCBが膝に肘をついた。

「まあ、あんたは口では俺たちと仲良くしたいと言ってるが、どうせ魂胆は俺たちにうまく取り入って、ここにいる劇物や毒物を安く買い叩いて高く売りさばこうとしてる、とかだろ?」

そうPCBに言われて俺は目を見開いた。

「そんなこと思ってないよ!俺はただ、劇物や毒物という理由で差別されるこの街の人たちの心を少しでも慰められたらと思って……」

PCBが興味深げに目を細め、俺を値踏みするように見た。

「……俺たちと仲良くしようとする過程で、あんたが死ぬことになってもか?」

「……」

口を結び、黙り込んだ俺を見ながらPCBが続ける。

「この街の奴らは、水銀たちみたいに人間に親切なやつばかりじゃない。自分たちを悪く使う人間にひどい嫌悪感や憎しみを抱いてるやつもいる。そういう奴に近づいたら、あんた、殺されるかもしれないぜ?」

その言葉にぞくりと肌が粟立つ。

劇物や毒物に悪意を持って襲われたら、確かに死んでしまうかもしれない。実際ここに来るときも青酸雨に遭って死にかけたばかりだ。

けれど、そういうことをするのは彼らの心が傷ついているからだ。そういう化学物質たちとも、ゆっくりと時間をかけて話していけばきっと仲良くなれるはずだ。

「……でも、俺はそんな彼らとも仲良くしたい。だから、ここでもっと多くの劇物や毒物に会いたいんだ」

そう言い切った俺を、何か面白いものでも見るかのようにニヤニヤとPCBが見つめた。

「……じゃあ、俺があんたの覚悟を試すテストをしてやるよ」

「テスト?」

そう聞き返すとPCBが頷いた。

「ああ。あんたが本当にシアンタウンで生きていけるかどうかのテストをな」

そう言ってPCBが立ち上がった。そして、彼が座っていたダンボールを足で蹴ってこちらに近づける。

「いいか?この中にあるガラス瓶には青酸ガスがたっぷり詰まってる。この瓶があと五分経ったら割れて、中から青酸ガスがもれ出してくる」

PCBがそう言ってダンボールを見たあと、今度は俺の顔を見た。

「あんたはこの瓶が割れる前にこの部屋から出口の鍵を見つけて脱出するんだ」

「鍵を見つけるの?」

「ああ。ヒントの紙はこれだ」

そう言ってPCBが二つに折りたたまれた紙を投げて寄越した。

「出口となるのはあんたがここに来るために通ってきたそこの扉だ」

「こっちの扉は?」とすぐ隣にある扉を指差す。

PCBはちらりとそちらを見たあと口を開いた。

「そっちは鍵がかかってるし、入ってもどうせ行き止まりだ。TCDDがいるだけだよ」

「……TCDD」

聞いたことのある名前だ。

TCDD。それは、PCBと同じダイオキシンの一種であるが、その毒性はPCBより遥かに高い。催奇形性を持ち、とある戦争ではTCDDを高濃度で含む化学兵器が利用されたために奇形児が増加したとの話もある。

PCBが鼻を鳴らす。

「誰よりも気が狂ってるやつさ。あまりにも危険だから兵器を作るとき以外はあの部屋に閉じ込められてる」

(そんなにも危険な性格なのか……)

TCDDがいるだろう扉の方を見るがまるで誰もいないかのように音一つ聞こえてこなかった。

「まあ、あいつのことはいい。それで、テストについては大体分かったか?説明で分からないところがあるようならもう一度言うが」

そう尋ねられ首を振った。とにかくやってみるしかない。

心を決めた俺の顔を見て、PCBが笑った。

「よし。じゃあ、せいぜい頑張ってくれよ」


PCBの出したテストは、ヒントに書かれた特徴に当てはまる化学物質を当てていくというものだった。頭をフル回転させながら、その化学物質が何か考える。幸い、試薬棚の中の試薬は五十音順に並んでいたので、目的の試薬を見つけるのには苦労しなかった。

(えーっと、これはメタノール。次は……)

それにしてもたくさんの劇物や毒物が取り揃えられているものだ。見たことのない試薬もあり思わずちらりと見てしまう。

テストが始まってから何分が経過したのかは分からないが、一向に終わる様子のないテストに、(ちゃんと五分内に間に合うのだろうか)と心配になる。PCBが本当は人間嫌いで、絶対に間に合わないような細工をテストに施している可能性だってある。

(まあでも、今は彼を信じて解き続けるしかない)

メタノールの試薬瓶の後ろに取り付けられた紙を手にとったとき「人間さん」と誰かに声をかけられた。

振り返り辺りを見回すが、誰もいない。気のせいだったのかと思うと、また

「やあ、人間さん。ボクの声、聞こえてる?」と声がした。その声は先程PCBが座っていたダンボールの隣にある扉から聞こえてきていた。

「あ、うん。聞こえてるよ」

(もしかして、TCDD?)

聞こえていることを伝え、話の続きを促す。扉の向こうのTCDDと思われるものが、また口を開いた。

「PCBが出したテストについて、いいことを教えてあげようか」

「いいこと?」

そう聞き返すと「そ。いいこと」とTCDDがクスクス笑った。なんだろうと耳を澄ます。

「そのテストね、かなり時間がシビアだから、こんなふうに誰かと話してると失敗しちゃうんだよ」

「……え?」

TCDDの言葉に思わず目を丸くした。それと同時に足元にあったダンボールからタイマーの音が聞こえてきた。

それが聞こえたのか、TCDDがケタケタ笑い出す。俺が死にかけているというのに、おもちゃで遊ぶ子供のように楽しそうな笑い声をあげる彼に、思わずぞっとした。

(早く謎を解かないと!)

焦りつつ次の問題に目を通す。自分を落ち着かせながらなんとか文章を必死に頭に叩き込んだ。

青酸の森で嗅いだ青酸ガスの匂いがしてきて体が震えるのが分かる。

(落ち着け、焦ったって仕方ない)

幸いテストの答えはどれも分かるものだったので、俺は素早く答えの試薬瓶の前に移動すると、目的のものに手を伸ばした。

(これはトルエンのことだから……)

トルエンの試薬瓶を取り上げると、後ろに小さな鍵がついているのが見えた。

(あった!)

それを見てほっとする。俺は小走りで扉の前に移動すると、鍵を差し込んだ。解錠できたことにほっとすると、ドアノブを掴んだ。外に出る前に振り返り、TCDDがいるだろう部屋の方を見たが、もう彼の笑い声は聞こえてこなかった。

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