第15話 P

メタノールにボトルを返し、少し彼らと話してから家に戻った。

リビングに入ると、一足先に帰った水銀が誰かと向かい合っているのが見えた。それは品のいい茶色のスーツとフェルトハットを身に着けた、白髪の初老の男性だった。

(誰だろう……)

見たことのない彼に思わず首をひねる。扉の閉まった音が聞こえたのか、彼が振り返った。優しそうな梔子色の瞳が俺を捉えて細められた。

「おや、もしかしてあなたが水銀が助けたという人間ですかな?」

穏やかな口調で彼が俺に話しかけた。佇まいが紳士のような彼にどぎまぎしながら返事をする。

「は、はい。青酸雨に遭って倒れていた俺を水銀が助けてくれたんです」

「そうでしたか……」

そう言って彼が興味ありげに俺のことを見たあと、水銀の方を振り返った。

「あなたが人間を助けるとは予想外でしたな」

そう言われた水銀が居心地が悪そうにふいと視線をそらす。

「黄リンが助けろってうるさかったんだ。……別に俺が助けたかったわけじゃない」

照れくさそうな顔をして言い訳をする水銀を見て男性が笑った。それを見て、さらに水銀が気恥ずかしそうな顔をする。

「……とにかく、王都の様子はどうだったんだ?カドミウム」

水銀の言葉にはっとする。

「カドミウム……?」

そう独り言のように呟くと、男性が振り向いた。

「ええ、それが私の名前にございます」

そう言って俺を見て微笑んだあと再び水銀の方を見て口を開いた。

「何も変わりはありませんよ。『原子様』も相変わらずのご様子でした。良くも悪くも、化学地方は何も変化がありませぬ」

それを聞いて水銀がつまらなさそうな顔をした。

「……そうか。まあ、そうだろうとは思ったけどな」

そう言って興味をなくしたように踵を返した水銀を見て、カドミウムが思い出したように「ああ」と声を上げた。

「そういえば、物理地方からまた『彼』が来ていましたよ」

その言葉に水銀が足を止める。

「彼?」

誰のことか分からず首をひねる。カドミウムが俺を見てかすかな笑みを作った。

「コイル様のことです」

「コイル……?」

そう聞き返す俺にカドミウムが頷いた。

「ここ、理科の国の首都は、物理地方というところです。その地方にある電磁気学区には理科の国の王、ボルト様がいらっしゃる城があります。その王室専属の研究者がコイル様なのです。彼は、シアンタウンの我々と話し合いを求めて時々いらっしゃるのですよ」

カドミウムの説明を聞きながら俺はふと疑問に思った事があり、聞き返す。

「どうして物理地方の人がシアンタウンに?」

そう尋ねるとカドミウムが少し困ったように眉を下げた。

「話せば少し長くなるのですが……」

「人間。お前には関係のないことだ」

ためらいがちに口を開いたカドミウムの言葉を水銀が素早く遮った。あまりにもそっけなく強い口調に何も言えず俺は口をつぐむ。

それを見てから水銀が再びこちらに背を向け、扉の方に歩き出した。

「コイル様とはお話しにならないのですかな?」

「ああ」

カドミウムの言葉に振り返ることなく水銀が答えた。そしてそのままリビングを出て行った。

カドミウムと共にその場に残される。彼は息をついたあと手に持っていたフェルトハットを机に置いた。

様子を見ながらカドミウムにもう一度尋ねてみる。

「あの、水銀はああは言ったんですけど、俺、シアンタウンや化学地方のことをもっと知りたいんです。良かったら教えてもらえませんか?」

そう縋るように言うと、カドミウムが少し驚いたように目を見張り、俺を見た。

「……」

彼は俺の顔を見つめて少し考えてから微笑み、頷いた。

「いいでしょう。では、長くなるので椅子にでも座って聞いてくだされ」

カドミウムに勧められるまま俺は椅子に座った。そして上着を脱ぎ、話し始める準備をする彼を見た。

机の上で手を組み、カドミウムが口を開く。

「この国には、四つの地方があるのはご存知ですかな?」

彼の言葉にニトロが言っていたことを思い出す。

「あ、はい。詳しくは知らないんですけど……」

それを聞いてカドミウムが頷いた。

「四つの地方というのは、物理地方、化学地方、生物地方、地学地方のことです。それぞれの地方に王様がおり、物理地方の王様であるボルト様はそれとともに理科の国全体の王も兼任しております」

そこまで言いカドミウムが一度言葉を切った。

「理科の国が数学の国というところに知的財産使用料を支払っているのはご存知ですかな?」

カドミウムに尋ねられて頷く。セシウムに聞いたことだ。

「はい。その使用料を支払うために、シアンタウンの化学兵器が必要だって話を聞きました」

カドミウムが頷く。

「そのとおりです。我が国は数学の国とは切っても切れない関係にあります。そのため、使用料を支払えないなどといった状況になるのは絶対に許されません」

そうカドミウムがはっきりと言い切った。俺は相槌を打つ。

「ボルト様は理科の国の民たちになんとかお金を捻出するようにとの命令を出しました。理科の国の強み、それは理科の知識を活かした科学技術の産物たちです。幸いこれらは社会の国にとってなくてらならないものでしたので、それらが売れずに困ることはありませんでした」

一度息をついてからカドミウムが再び口を開く。

「しかし、いつしか地方によって経済格差が生まれるようになりました。今では、ここ化学地方が最も経済的に潤う地方となっております。いまや理科の国の経済の中心は化学地方といっても過言ではない。そのため、過激な化学地方の住民の中には首都を化学地方に移し、化学地方の王である原子様を理科の国の王にしようと声高に叫ぶ者もおります」

「そうなんだ……」

理科の国も人間と同じようになかなか民全員が一つになるのは難しいらしい。

カドミウムは俺の様子を見ながら話を続ける。

「化学地方の経済が潤う大きな理由となっているのが、シアンタウンで作られる化学兵器です。ボルト様はシアンタウンの人々の不満を聞きつつも、それを今日まで無視し続けてきました。それが、理科の国を守る最善の方法だったからです」

そこまで言ってカドミウムがため息をついた。

「ですが、それにより化学地方と物理地方の住民間の心の溝は大きく深まることとなりました。化学地方、特にシアンタウンの人々は、自らに汚い仕事を押し付けるボルト様のことを憎み、物理地方の人々を嫌うようになりました。いつしか化学地方と物理地方の民がお互いをけなし合うようになり、さらには熱力学区の領土争いにまで発展するようになりました。昔の、四地方が手を取り合っていたありし日の面影は全くなくなってしまいました」

昔のことを思い出すかのようにカドミウムが遠くを眺めた。その目尻や口元に浮ぶしわは、彼の悲哀を表しているかのようだった。

「電磁気学区で王室専属の研究者として働いているコイル様が、我々シアンタウンの民のことを気にしてこちらに来てくださるのですが、水銀は一向に彼と話す姿勢を見せませぬ。水銀にとって、コイル様も我々に化学兵器の製造を押し付ける憎き物理地方の住民の一人でしかないのでしょう」

カドミウムの言葉に俺は俯いた。

水銀の気持ちも分からなくもないが、このままコイルを無視し続けていても何も変わらないだろう。相手が歩み寄りを見せているのだから、話くらいしてみてもいいのではないだろうか。

そう思って椅子から立ち上がった。急に大きく動いた俺をカドミウムが目で追う。

「カドミウムさん、色々と話してくださってありがとうございます」

そう言って深々と頭を下げた。

「これで満足していただけましたかな?」

カドミウムに尋ねられ俺は大きく頷く。

「水銀に、一度コイルさんと話してみるよう頼んで来ます。コイルさんも理科の国の住民として、この国をより良くしようとしているに違いありません。志が同じなら、彼と話し合うことできっといい考えが浮かぶはずです」

そう力強く言う俺をカドミウムが見つめた。そして、ふっと微笑んだ。

「……そうかもしれませんな」

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