第6話 C
一酸化炭素の話を聞いたあとで兵器工場に行く気は起こらなかった。
ぼんやりと歩きながら俺は空を見上げる。晴れとも曇りとも言い難い空は、今の俺の気持ちを反映しているかのようだった。
(俺は、化学で人を助けるために学生時代化学を勉強して、今は教師になってその知識を生徒たちに教えているんだけどな)
まさか、当の化学地方で化学の悪い側面ばかりが使われているとは思わなかった。
なんだか気分が暗くなってきて、俺は大きくため息をついた。気づけば、再び矢印看板の所に戻って来ていた。
(今度はどこに行こうか……。ラジオ局にでも行ってみようかな)
気分は下がったが、シアンタウンを回りたい気持ちは少しも減っていない。むしろ、他の場所を回って気持ちを切り替えたいくらいだった。
ラジオ局に向かう道は一本道だった。道なりにゆっくり歩いていくと、立て看板を見つけた。
『注意!この先、放射線区域』
その文字の下に大きなハザードシンボルが描いてあった。
「放射線か……」
思わず足を止め、顔を上げてぎょっとした。看板の向こうの地面から、放射線区域を表すハザードシンボルがいくつも湧き出ては消えていくのが見えたのだ。
まるで温泉の湯気のように現れては消えていくハザードシンボルを見ながら俺は息を呑んだ。これがどれくらいの量の放射線が出ているということを表しているかは分からないが、さすがにこのままの格好で行くのは無謀すぎる。
かなり向こうの方には何かの施設の建物が建っているのがぼんやりと見える。せっかくだからあそこまで行ってみたい。
(放射線防護服でもあれば……)
とはいえども、防護服なんてこの辺に落ちているような代物ではない。
(どうしようかな)
しばらく思案したあと回れ右をし、俺は一度黄リンの所へ戻ってみることにした。
「あ、お帰り!」
暇そうにあくびをしていた黄リンが俺を見てぱっと顔を輝かせた。水槽の中にいて自由に移動できない彼を気の毒に思いつつ、俺は放射線防護服について聞いてみることにした。
「ほうしゃせんぼうごふく?」
不思議そうに黄リンが聞き返す。ところどころイントネーションがおかしいことを考えると、黄リンは放射線防護服を知らないらしい。
「一般的にレインコートみたいな形をしている服なんだけど……この家にないかな?」
駄目元で聞いてみると黄リンが腕を組んで考え込んだ。
「うーん……。あるかどうかは分からないけど、もしかしたら物置に入ってるかもしれないよ。水銀がシアンタウンに落ちてるものを色々と拾ってきてはそこに入れてるから」
「なるほど……。ありがとう、探してみるよ」
そう言うと黄リンが元気よく指をさした。
「物置はここを出て廊下を右に行った突き当たりにあるよ!」
俺は黄リンにお礼を言うと物置に向かった。
物置には色々なものが所狭しと積み込まれていた。まさに『適当に放り込んだ』という言葉が正しい。
物置内にあるなにかよくわからないものを丁寧にどかしながらお目当てのものを探す。いくらか時間が経ち、山のように積み上がるものたちを前に埒が明かないとため息をついたとき、白いレインコートのような服がその中に埋もれているのを見つけた。
はっとして近づき、山を崩さないように慎重に引きずり出す。
「あった……!」
防護服と共にころんと落ちてきたのはガイガーカウンターだった。防護服の中にこれをつけておけば、服の中に透過してきた放射線量も分かるだろう。
(これ、ちゃんと動くのかな……)
ガイガーカウンターを見ると、一応電池は入っているようだった。
この防護服もどれくらい使えるかさっぱり分からないが、ないよりはましだ。
俺はそのガイガーカウンターをベルトに固定すると、防護服を羽織り、外に出た。
再び立て看板の前に立ち、ハザードシンボルが湯気のように立ち上る地面を見た。
かなり危険なことをしているのは百も承知だが、好奇心とは怖いものだ。否、今の自分を動かしているのはもはや好奇心だけではなかった。
(水銀も一酸化炭素も、なんだか自分たちが劇物や毒物であることにコンプレックスを感じているみたいだった)
人間を殺しうる危険なものという理由で他の化学物質たちから忌み嫌われているシアンタウンの住人たちがそういう考えになるのは仕方がないのかもしれない。
この先にいる放射性物質たちも少なからずコンプレックスを抱えているのだろう。そんな彼らと親しくなって、少しでも慰めることが出来たら、という独りよがりな思いやりが今の俺を動かしていた。
ごくりと息を飲み込むと、俺はゆっくりと放射性区域に足を踏み入れた。
段々地面から湧き上がるハザードシンボルの数が増えてきて、辺りが赤く染まってきた。これが放射線の量を反映していると思うとくらくらするが、歩みを止めることは出来なかった。
道の行き止まりに、大きな建物が立っていた。何の建物だろうと不思議に思い足を止める。誰かに聞いてみようとも思ったが、人気は感じられなかった。
少し視線を動かすと、その建物の前を小さな青緑色のものがいくつかふわふわと飛んでいるのが見えた。目を凝らして見ると、それは発光する蝶のようなものだった。ほのかに光る妖精のような蝶がとても綺麗で、俺は思わず目を見張った。
「綺麗……」
蛍のように儚い光を放つそれらに目を奪われて、俺はしばらくぼんやりとその場に立っていた。
「よう、兄ちゃん」
親しげに声をかけられたため、初め自分が話しかけられていると思わず、まだ蝶のことを眺めていた。しかし、今度は強く肩を叩かれたため、驚いて振り返った。
「兄ちゃん、俺の声が聞こえないくらい見とれてるなんて、そんなにもラジウムが好きなのか?まあ綺麗だもんな、こいつら」
声をかけてきた男は、ワイシャツとスラックスは着ているがその首元ははだけており、髪も金髪でいかにもちゃらそうな男だった。そんな彼に馴れ馴れしく話しかけられ、俺は思わずうろたえる。
「え、あ、うん……。……ラジウム?」
そう聞き返すと彼が頷いた。
「そ、ラジウム。この辺りに生息してる放射性物質だよ」
そう言って俺の肩に手をおいたまま男がラジウムの方を見る。
「綺麗だろ?俺も、仕事の息抜きがてらここに来てラジウムを見てるんだ」
「そうなんだ。うん、本当に綺麗……」
そう言って目の前を飛んでいくラジウムを目で追う俺を見て、彼が楽しそうに笑った。
「それにしても、兄ちゃん。見ない顔だな?どこから来たんだ?」
そう不思議そうに尋ねられ、俺は自分のことを紹介しようと口を開いた。
「先輩!」
不意に向こうから声がして誰かがこちらに駆け寄ってきた。今度は隣にいる男と違い、スーツをきっちり着た真面目そうな顔の男だった。
「先輩、探しましたよ!全く、あなたが勝手にいなくなって工場は混乱していたんですからね!」
駆け寄ってきた男がそう言って気色ばむ。
「悪い悪い」と先輩と呼ばれた男が悪びれなく笑った。
そんな彼を睨んでいた男が、今度は俺を見て目を丸くした。
「あ、あなた、人間ですよね?人間がこんなところに来たら危ないですよ」
そう言う男に彼の先輩である男が首をひねる。
「人間?……そっか、兄ちゃん人間だったのか。どうりで重装備だと思った」
そう言って男が俺の肩から手を離した。そして後からやってきた男の隣に並ぶ。
少し俺との間に距離をあけながら、ちゃらい男のほうが罰が悪そうに笑った。
「悪いな、兄ちゃん。あんた、俺の近くにいると危ないだろうから、少し距離をとらせてもらうな」
「あの、君たちは……」
そう尋ねると男が
「俺はセシウム。こっちは後輩のウランだ」と紹介した。ウランがぺこりと頭を下げる。
(彼らが放射性物質か……)
そんな予感はしていたが、実際に言われると彼らの近くにいるのが少し怖くなってしまう。きっと彼らの体からは放射線が出ているに違いない。しかし、俺は恐怖を振り払うように首を振った。
(彼らと仲良くなるって決めたんだ。怖がってちゃ駄目だ)
彼らに近づいていく俺にセシウムとウランが慌てる。
「おい、兄ちゃん!俺らは放射性物質なんだって!」
「あ、あまり近づくとあなたが危ないですよ!」
反対に後退りしようとする彼らに近づき、ぽんと肩を叩いた。
「防護服を着てるから平気だよ。そうだ、俺、このあたりに興味があるんだ。時間があったらでいいんだけど、案内してくれないかな?」
そう言うとセシウムとウランが顔を見合わせた。それから、
「……まあ、いいけどよ」とセシウムが頬を掻きながら頷いた。
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