第5話 B

玄関から外に出る際、ちらりと台所を覗けば、エプロンをつけた女性がこちらに背中を向けて鍋を火にかけているのが見えた。硫化水素ではないから彼女が恐らく硫酸だろう。シチューのお礼をするために声をかけようとも思ったが、せわしなく食事の準備をしているようだったし、探索に行くのを止められるかもしれないためやめておいた。

外に出ると、ひんやりとした空気が肺に流れ込んできた。俺は大きく息を吸い、深呼吸をする。

(いい空気……)

気持ちがいい清々しい空気を肺いっぱいに吸い込み、俺は息をついた。

(さあ、さっそくどこから行こうかな……)

家から出て少し先に矢印型の看板があるのが見えた。それに近づき、文字を読み上げる。

「『研究所・兵器工場』、『ラジオ局』、『硫酸湖・鉱山』、『青酸の森』……」

兵器工場とは穏やかではない言葉だ。

(確かに、ニトロがシアンタウンには兵器工場があるって言ってたな……)

硫酸湖というのは気になるが、同じ方向に鉱山もある。水銀と鉢合わせになるとまずい。青酸の森は論外だ。

(ラジオ局ってなんだろ?化学地方でもラジオ放送をやってるのかな……?)

そう疑問に思いつつも研究所という言葉に心がくすぐられた。

(研究所に行ってみようかな。どんな研究をしているのか気になるし)

善は急げだ。俺は看板の矢印が指し示す方向に向かって歩き出した。


研究所は真っ白の無機質な建物だった。窓も最小限しかない。扉はカードキーでロックされていたため入れなかった。

他に入り口がないかと建物の周りを一周してみると、草むらにカードキーが落ちているのを見つけた。

(誰か落としたのかな?)

ありがたく拝借させてもらい、正面に回ってカードキーを押し当てた。すると、ピーッと音がしたあと、四つの枠が現れた。どうやら、さらに暗証番号がいるらしい。

(暗証番号かあ)

数字四桁らしいが、思い当たる節はない。

建物の前で悩んでいると、ふと、足元でかさと何かが動いたのに気づいた。

不思議に思い拾い上げると、それは小さな白い紙だった。そこにはこう書いてあった。

『どんなにいい薬でも、これがあったら良さも半減だ』

なぞなぞのような文章に首を傾げる。

(薬の良さを半減させるもの……なんだろう?『副作用』……2934かな?)

そう半分適当に番号を入れてみるとすんなり開いた。

(これで良かったんだ!)

俺は自分の勘の良さに驚きながら扉を解錠した。


わずかに開いた扉の隙間から中を恐る恐る覗き込むと、薄暗い廊下が奥まで伸びているのが見えた。ゆっくり歩いているものの、辺りが静かなため靴音が大きく響いてしまう。

出来るだけ音を小さくするよう慎重に歩きながら右側にある大きな窓を覗き込んだ。

窓の向こうにあるケージの中で、かさかさと何かがはい回っているのが見えた。よく見ると、それは全部マウスだった。

もがくように走り回っているマウスもいれば、眠っているようにぐったりしているマウスもいる。ケージが天井まで積み上げられた物々しい雰囲気の部屋に、俺は顔をしかめた。

「何者だ?」

不意に鋭い声がして体を強張らせる。電気がつき、辺りが一瞬で明るくなった。振り返れば紺色の髪を後ろで一つに結んだ女性がタバコをくわえて立っていた。女性といえども、彼女の声がアルトであるからわかったものの、スレンダーな体つきやその目つきからは男だと勘違いしてしまいそうだ。彼女は白衣を着ていたが、その下の方は赤く染まっていた。

彼女は青い瞳を動かし、上から下まで俺のことを見るとタバコを口から離した。ふわりと煙が口から吐き出される。その煙がまるで意思があるかのように俺を取り巻いた。

「お前、ここの研究員じゃないな。どうやってここに入った?ここはカードキーと暗証番号がないと入れないはずだ」

尋問するような口調に勝手に入ったことを申し訳なく思いながらも説明する。

「ええと、研究所の近くにカードキーが落ちていて、さらに暗証番号のヒントが書いてある紙を見つけたから、解錠することが出来たんだ」

彼女は黙って俺の言葉を聞いていた。

「あの謎を解いたのか。さすが教師を名乗っているだけある。バカではなさそうだな」

少し感心したように言う彼女の言葉に俺は首を傾げる。

「お前、水銀が言っていた化学の教師だな」

そう言われて驚く。

「水銀に俺のことを聞いていたの?」

「ああ。お前がここに来るかもしれないから、そのときはよろしくと言われた」

彼女に言われ、俺は顔を真っ赤にする。どうやら、水銀には俺の考えていることがお見通しだったようだ。

彼女はそんな俺の様子を見たあとタバコをまた口にくわえた。

「私の名前は一酸化炭素。ここの研究所の所長だ」

「一酸化炭素……」

そう呟き彼女を見る。切れ長の瞳で俺を見ながら彼女は煙をくゆらせる。

「ここではマウスを用いて劇物や毒物の研究を行っている。その化学物質がどれくらい体に蓄積されやすく、どれくらいの量で生き物を殺すことが出来るのか、と言ういわば毒性評価のための試験をな。また、その化学物質をどう使うかについて私たちは日夜研究に明け暮れている。兵器に向いているものがあれば、ここから少し先にある兵器工場に持っていく手はずになっている」

「なるほど……」

窓を挟んだ隣の部屋いっぱいに敷き詰められたケージを見る。よく見れば、研究員らしき人たちがケージの前に立って異常な行動をとるマウスの観察をしているのが見えた。

研究室の様子を眺めている俺を見ながら一酸化炭素が口を開く。

「いかに人を殺せる兵器を作れるかを常に考えていると、化学物質はどこまでも人に残虐になることができることがよく分かる」

そう言い、一酸化炭素が顔をしかめた。歯で強く噛んだためにタバコがひんまがる。

「この研究所にいると、化学物質のいいところは何一つ見えてきやしないのに、悪いところばかりがいくつも見えてくるようになる。次第にシアンタウンにいる化学物質たちも、それ以外の場所に住んでいる化学物質たちも、皆人間にとっては危険物なのではないかとさえ思えてくる」

「……」

そう沈んだ顔で言う彼女を、俺は黙って見つめる事しか出来なかった。その視線を受けて、一酸化炭素が顔をそむける。

「気が済んだならさっさとここから出ていくんだな。……私たちの実験の被験体になりたくないのなら」

脅すように言われ、俺はコクリと頷くと研究所を後にした。

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