3. Orange Juice
オリンピックの延期。
その言葉を事実として受け止められるまでには、結構な時間がかかった。逆境に弱音を吐くような人間じゃないと自負していたけれど、さすがに堪えた。
56年も待って、もう首が取れちゃいそうなくらいに待ちくたびれて、本当に本当に楽しみにしていたのに。それが、延期だなんて。
でも時間が経つにつれ、“延期”ならばいつかはやるのだから、あまり悲観する必要もない、と切り替えることができていた。しかし、そこに追い討ちをかけるように出てきたのが……
オリンピック中止論。
中止……。
私だって、今の状況は分かっている。撲滅も完治もまだ程遠くて、私みたいな高齢者はリスクが高いまま。そんな中で、海外のアスリートを迎えて開催するのは危険だ。
それは分かっている。中止を支持する人が多いことも、彼らの意見が理にかなっていることも、ちゃんと頭では分かっている。まだボケていないもの。
でも、アスリート以外にも、中止がこんなに悲しい人間がいるんだよ。
巨額のお金の動きがなくなることが悲しい人もいるでしょう。でも私は違う。
あの彼と私をつないでくれるものが、なくなってしまうことが悲しくてしょうがない。
2024年は、通常ならパリ開催。
なら、私がパリに行ければ、彼と会えるかもしれない。
でもその時に私が元気かどうかは分からないし、人の移動が自由になっているかも分からない。それに、彼は「東京で」と言ったのだ。口約束かもしれないけれど、東京じゃないとダメなんだ。
もう体は70を過ぎた老体なのに、心は地団駄を踏む少女のようだった。あぁ、どうしたらいいのだろう。
そんな時だった。
彼の住所から、手紙が来た。
でもその手紙を書いた人物は、彼の孫だった。
こちらに手紙が届いたのは、彼女が送ってから約1ヶ月後。この状況下で、配達にも深刻な遅れが生じているらしい。
封を切ってみれば、流暢で美しい日本語が羅列されていて、驚いた。
彼女は、お母さんが日本人らしかった。なんでも、例の彼が自分の息子に日本の魅力を何度も語ったそうで、息子は日本人の奥さんに惚れ込んだのだそうだ。
その時に、私からの手紙を読み上げていたと書いてあった。それで孫も日本に興味を持ち、日本語を学んでいるそうだ。
読み進めてみると、彼の近況が記されていた。
実は半年ほど前から、体調を崩し始めていること。
今世間を騒がせているものが原因ではなくて、加齢による衰弱だと思われること。
今までは私への手紙だけはなんとしても直筆で書くと言って、懸命に書いていたこと。
美しい字で、「申し訳ないのですが、久美子さんとの手紙のやり取りを終わらせることも考えて、祖父に助言しました。しかし、彼は今までにない勢いで怒り、震える手で文を書いていました」と書いてあった。そこまでしなくてもいいのに。彼は、どこまでも優しい。
私以上に、今大変な思いをしている人がいる。
ならばまずは、彼の健康を願うのが第一である。オリンピックはその先にしかない。
そう思えば、“中止”という言葉の威力も少しずつ、薄れてきた。とにかく、返事を書かなければ。たとえ到着が遅れても、書かなくては。
すぐさま便箋とペンを取り出して、書き始めた。今までは一応、書くことをちゃんと考えてから、それを英訳して書いていたのだ。なのに今の私は、下書きもしないまま書き進めている。
自分の考えを素直に表現するには、日本語しかないと思った。孫娘なら、きっと翻訳して伝えてくれる。だから、彼の体調を気遣う気持ち、健康でいて欲しいと祈る気持ち、大変な中でも手紙を書き続けてくれたことに感謝する気持ち、全部書いた。
本当は見たいよ。あの時みたいに、彼が一張羅のスーツで、太陽みたいなオレンジ色のネクタイを締めて、私を「マドモアゼル」と呼ぶ彼を見たい。もう私は、マドモアゼルではないけれど。
それから2ヶ月くらいして、返事がやってきた。手紙にしては、ちょっと厚みがあった。
孫からだと思って封を切ると、そこにはやはり、彼女の流暢な日本語で、「これが、彼に書ける精一杯の文です」と書かれたメモ。
その後ろに隠れていたのは、見慣れた文字。もう50年も見てきた文字。
さらに隠れていたのは、手拭い。彼のネクタイを思い出させるような、オレンジ色の可愛らしい手拭いがあった。
「君に涙は似合わないから、これを使って」
目から何かがこぼれ落ちそうになって、彼の文字が滲んだらいけないと思い、慌ててその手拭いを目頭に持っていく。
もう記憶はおぼろげだけれど、彼の匂いがしたような気がした。
彼は、何としても私に会おうとしてくれたのだ。待ち焦がれて、待ち焦がれて。
文章から、私が泣きそうな気持ちなのを察して、手拭いを。
どうか長生きして欲しい。
オンラインでもいいから、オリンピックの時には、顔を見せて。
ふんわりとした手拭いは、私の涙を優しく受け止めてくれた。
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Olympic(オリンピック)
「待ち焦がれた再会」
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