2. Orange Curaçao

 例のフランス人の彼が、いつまで滞在するのか分からなかった。私はもっぱら宴会場担当で、フロントに足を運ぶこともなく、彼の姿を見ないまま1週間が経とうとしていた。

 しかし、ついに東京オリンピックが始まった日の夜のこと。


「待って」


 私が振り向くと、宴会場付近でうろうろしていた彼に出会った。オレンジ色のネクタイが一際目を引いた。


「これ、手拭い」


 彼が差し出してきた手拭いは、とても綺麗に洗われていて、シワもなかった。彼のスーツも、前に見た時と同じだったけれど、どこが濡れたか分からなくなっていた。


「洗って……くれたんですか」

「ん?」

「あ、綺麗。手拭い。ありがとうございます」


 なんとか伝わったみたいで、彼は自分のスーツも指差し、「クリーニング」と言った。私がすかさず「代金……お金! 払います」と言うと、彼は首を横に振った。「マドモアゼルにお金なんて、ダメダメ」と。


 もう一度私はお礼を言って、彼が今日の開会式を生で見たこと、他にもバレーボールや柔道を見ることを話してくれた。彼はフランスのスポーツ業界の人で、各地のオリンピックの視察に行っているようだった。彼は「僕も英語は、ちょっと苦手」と言いつつも、私に分かるように、平易な英語で説明してくれた。私も相槌を打ちながら、自分がこの仕事に就いた理由などを話した。カラーテレビが家にやってきた話もすると、「見れなかったのは残念だね」と言って、開会式の様子をなるべく詳しく話してくれた。

 彼は「仕事中に、ごめんなさい」と言って、立ち去ろうとした。けれど何を思ったのか、すぐに引き返してきて、私に紙切れを渡した。


「また、会える日まで」


 そこに書かれていたのは、彼の名前と住所だった。「手拭い、ありがとう」と英語で記されていた。


「また会いましょう、いつか」


 私がそう言うと、彼は「次の東京オリンピックで」と言った。「いつ来るか分かりませんよ」と返すと、「必ず来る。東京は、素晴らしい所だから」と言った。


 その後しばらくして、彼は日本を発った。私は夜の業務が多かったから、チェックアウトの時に会うことはできなかった。でも彼からもらった紙切れと手拭いは、懐に大切にしまっておいた。


◇◇◇


 あれから、彼とは文通を続けている。国際郵便をやりとりするなんて、夢みたいだった。カラーテレビで東京オリンピックを見る、それは叶わなかったけれど、絵に描いたような素敵な男性と出会えたなんて。

 ただ、恋愛感情を持ったかと言えば、それはよく分からなかった。顔を合わせたのは2日だけだし、出会いは私のミスがきっかけだったから、好きかどうかなんて次元には辿り着かなかった。最も近い言葉で表すとするならば……憧れ? 思慕?

 とにかく、あんなに素敵な人がいるんだな、くらいの感覚で、近況報告や互いの国について、時に辞書と格闘しながら、英文を紡いでいった。


 そうして、50年近くが経った。

 本当に、時の流れというのは早すぎる。

 両親とはとうに別れ、姉にはひ孫が生まれた。

 私にも孫がいる。私達夫婦は昨年、金婚式を迎えた。

 夫は、私と同じホテルで働く料理人だった。パリ帰りの料理長に鍛え上げられて、彼も総料理長まで勤め上げた。

 フランスの彼もまた、私より数年遅れて結婚したようで、今は孫もいると書いてあった。

 日本とフランスの遠距離恋愛なんて、当時は現実的じゃなかった。だから、これで良かったのだ。彼が今も、同じ地球上で幸せに暮らしているなら、それで良いのだ。


 そんな中、驚くべきニュースが入ってきた。

 2回目の、東京オリンピックが決まったのだ。

 約50年前の、「次の東京オリンピックで」という彼の言葉。「TOKYO」と読み上げられて、組織委員会の人々が大喜びする様子を、すっかり家庭に定着したカラーテレビで見ながら、私は若き日の彼を思い出していた。

 彼はまた、来てくれるだろうか。2020年にはもう、きっと80歳を超えているはずだけれど、来られるだろうか。


 期待を込めてしたためた手紙の返信は、思ったよりすぐにやってきた。インターネットメールのアカウントも持っているけれど、やはり手紙の方がワクワクする。

 そこには、「行きます」と力強い字で書いてあった。その隣に、ちょっとおぼつかない日本語で、「東京楽しみ」とも。

 その返事をもらった後は、例の手拭いの思い出話をしたり、今の東京の様子、競技会場のことなど、分かる範囲のことは全て伝えた。私も手紙を書きながら、楽しみな気持ちがむくむくと膨らんでいった。「チケットを取りたいから、ネットの操作方法を教えて」と孫に頼んだら、「おばあちゃん、少女みたいな目してる」と笑われた。どうやら、オリンピックには若返りの効果があるらしい。


 でもその期待は、予想外の展開によって打ち砕かれていく。

 生きているうちに、また見られるんだろうか。

 その不安が日に日に大きくなる世界にいるなんて、今でもまだ信じられない。




**********

Orange Curaçao(オレンジ・キュラソー)

やや苦味のある、甘い洋酒。オレンジの皮を味付けに用いる。

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