Olympic

1. Brandy

「おお、映ったぞ、おい!」


 父は興奮気味に言った。玉音放送の中、とぼとぼと帰ってきた父がこれほど嬉しそうな顔をするのを、私は初めて見た気がした。来る日も来る日も、そこら中に転がっているしかばねの夢にうなされるという父は、戦後20年が経とうとしていてもその声に張りはなく、背が縮こまっていた。そんな最中さなかにやってきた、念願のカラーテレビ。家に新たな娯楽を迎え入れられる余裕ができたのが、嬉しくて嬉しくてたまらないのだろう。


「すごい。私達が見てるのと、そのままじゃない。鮮やかね」

「白黒じゃないの、逆に変な感じ」


 母や姉は次々に感想を述べた。今の金額に換算すれば、約5、60万の出費。とんでもなく大きな買い物だったので、私達がテレビに触れる手はきっと、赤子に触れるのと同じか、あるいはそれ以上に優しいものだった。


「オリンピックが楽しみだなぁ」と父。

「カラーで放送されるのも、オリンピックがやってくるなんていうのも、まるで想像がつかないわね」と母。

「開会式始まったら、テレビにかじりついて見るわ」と姉。


 そんな中、私はみんなより反応が薄かった。

 オリンピックの時はアスリート以外休みだなんて、そんなことはない。あり得ない。

 私はその期間中、経験したことのない忙しさに見舞われる予定だったからだ。

 初めての勤務先。想像もできないお客様の数。自分の拙い英語が通じるかという不安。

 まだオリンピック本番まで半年近くあるというのに、私はもう緊張しっぱなしだった。


「久美子ももうちょっと喜べばいいじゃないの」

「何言ってるのお姉ちゃん。ホテルはその時期、1番忙しいですから!」


 オリンピックに合わせて開業予定の、最先端ホテル。

 私はそこのスタッフとして働くことが決まっていた。

 そこそこのレベルだけれど、女子短大の英米語学科を卒業した、という経歴はある程度武器になったみたいだった。海外で仕事をしたいと思っていたけれど、両親が「女性が海外で仕事なんてもっての外だ」としつこく言うものだから、日本で海外の人と触れ合えるような仕事を探していた。そんな中、東京開催が決まったオリンピック。きっと、数えきれないほどの外国の人がやってくる。敵としてではなく、武器を持たず、ただただ観客として、期待感を持って日本へ。東京へ。そんな日が私が生きているうちに来ると思っていなかったから、緊張するのと同時に、すごくワクワクもしていた。


 カラーテレビでの観戦はお預け。でもその分、最大限のおもてなしをして、日本が良い所だと、完全に復興したのだと思ってもらえるように尽力できることに、喜びを抑えきれない。


 厳しくて長い研修を終えて、ついにグランドオープンの日がやってきた。

 オリンピックが始まる前に東京観光をしておこうとする人々もいるようで、既に予約はいっぱいだった。私は宴会場の担当を任された。団体予約のお客様も多くて、彼ら向けに宴会場でパーティーが開かれる予定だったのだ。

 母や姉に「せっかくのカラーテレビなのに、残念ねえ」なんて言われながらも、私は意気揚々と勤務先へ赴いた。


 マニュアルの通りに宴会場のセッティングを進めていたら、時間は瞬く間に過ぎていって、お客様が入ってきた。ヨーロッパ系の人々で、聞こえてくる言語は英語ではなかった。

 私はウェルカムドリンクの、チェリーがついたカクテルを1人ずつに配った。しかし、浮かれていたせいもあったかもしれない。私はある人に配る時、お盆のバランスを崩し、カクテルをこぼしてしまった。きっと一張羅であっただろう、彼のスーツに少量のカクテルがかかってしまった。自分でもびっくりしてしまって、一瞬頭が真っ白になったけれど、まずはお客様のお召し物を拭わないと、と思って懐から手拭いを取り出し、「アイムソーリー」と言ってスーツに触れた。

 目の前の彼は何も言わず、周囲はチラチラと私を見た。スタッフは、哀れみに近い目で私を見た。まるで「ご愁傷様」とでも言うように。私は血の気が引いた。あぁ、一巻の終わりだ。きっと私は、理解できない言葉で罵倒される。


「素敵ですね」


 流暢な日本語が、頭に降ってきた。


「え?」

「手拭いでしょう? 素晴らしい」

「これ、ですか……? 確かに手拭い、ですが」

「すぐに手拭い、出した。謝って、綺麗にしてくれた」

「え、えぇ……」


 彼はその手拭いを取って、濡れた私の制服と手を拭いた。その手はとても大きくて、柔らかかった。


「ありがとうございます、マドモアゼル」


 “マドモアゼル”と聞いて、あぁ、フランスの人なんだ、と分かった。とりあえず「メルシー」と言ってみたら、彼はにっこりとした。


 カクテルで一張羅を濡らしてしまった相手が、彼で良かった。もっと怖い人に当たっていたら、どうなることかと思った。

 あ、クリーニングを承るべきだったか。というか、手拭いは彼が持ったままだったじゃないか。

 冷静さを取り戻して、そう考えられるようになった頃にはもう、パーティーはお開きになっていて。


 彼の姿はもう、どこにもなかった。

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