3. Lemon Juice
「先生、“集中講座”始まりますよ」
物思いに
受験生達には非常に申し訳ないのだが、僕はあの彼のことで頭がいっぱいだった。……もちろん報酬をいただいている分、授業自体はきちんと行ったし、最後の質疑応答にも対応したのだが。
彼を見送ってから、1年が経とうとしている。
この予備校は現役生しか対象にしていないので、あの日以来、彼とは会っていない。彼は浪人生用の予備校に入り直したのかもしれないし、独学を続けているのかもしれない。
志望校を変えた可能性や、就職に舵を切った可能性、そして何より、僕への報告を忘れた可能性は考えもしなかった。……いや、ただ考えたくなかっただけかもしれない。
今担当している集中講座は、彼の志望校の二次試験前日まで開講される。講座の残り回数が少なくなっていく卓上カレンダーと、同時に二次試験までの日数も減っていく日めくりカレンダーを眺めながら、僕はただただ彼を待っていた。
そしてついに、二次試験の日がやってきた。
例の如く、僕が受験生なわけじゃないのに、早速お腹を下しそうになっていた。もう集中講座も終わって、この日校舎に行く用事はなかった。僕は部屋のカレンダーをぼうっと見つめて、ふと思い立ってスーパーに寄り、タイムセールのトンカツを買ってきて、カツ丼を作ってみた。生徒のために験担ぎをするのは初めてである。
もう彼には、あんなほろ苦い結果ではなくて、カツを包み込む出汁のような、甘い結果が出されて欲しいと願った。
合格発表の日までは、長いようであっという間だった。
開講される講座は1つもなかったけれど、予備校は開放されていた。それが習わしなのだ。
僕は事務の方々が出してくれるお菓子をちまちまと食べながら、生徒達がやってくるのを待っていた。今年僕が受け持ったSクラスの生徒達と、例の彼を待ち続けた。
しばらくして、生徒がやってきた。まっすぐ僕の所へやってくる。
彼女は今年のSクラスの生徒だった。数少ない女子生徒だったから、結構気にかけていた生徒の1人だった。彼女は可愛らしい容姿をしていて、Sクラスの男子からも密かに人気を集めていたようだが、彼女は気にも留めず勉強していたのが懐かしい。
「先生、あの」
「うん。お疲れ様。どうでした?」
「……ダメ、でした」
僕は悲しくなった。あの最難関大学だ。残念ながら不合格に終わった、という報告は過去に何度も聞いている。だけどやっぱり、直接聞くと悲しくなる。
「そうでしたか……」
「でも××大には受かったので、そこに行こうと思います」
××大も、負けず劣らずの難関大学である。そこの看板学部に合格した。それだけでも、十分に立派なことだ。きっと親御さんも喜んだだろう。
「××大ですか。良かったです。今回第一志望は残念だったかもしれないけれど、努力したという事実は変わりません。その習慣とか、苦労とかを忘れずに、今後も頑張っていってください」
「ありがとうございます……」
本当は分かっている。彼女がとてつもなく悔しい思いをしていることを。
中学受験で大成功して、偏差値70を超えるような女子校に入って、そこでもトップレベルの成績をキープし続け、満を時してこの予備校に入ってきた。Sクラスの選抜試験も難なく合格し、担任の先生からも、最難関大学の合格は間違いなしと言われていたそうなのだ。偏差値が65を下回ったことはなく、不調時でもA判定を出し続けていた。僕ももう、彼女に教えることは何もないんじゃないかと思うくらいだった。
彼女は授業の後、僕と少し雑談することを好んだ。部活や委員会、友人関係など、本当に他愛もないことを話す時間だった。演劇部でも力を発揮していて、2度も主役を勝ち取ったらしかった。生徒会にも所属して、完全無欠の生徒、という印象だった。
だからこの不合格は、彼女にとって人生初の挫折なのだ。××大という進学先を得たことで何とか心の安寧を保っているけれど、本当はどうしたら良いか分からないくらい、悔しいはずなのだ。
なのに僕は、気の利いた言葉1つもかけてあげることができない。
「一旦、完全にくじけちゃいな」
突如聞こえた声の主を見て、僕は椅子からずり落ちそうになった。
例の彼だったのだ。
初対面の人にいきなりこんな台詞を吐かれて、女子生徒は困惑している。
「え……」
「きっと、これが人生初の挫折なんじゃないかと思って」
ほら、と彼は彼女の制服を指差した。
「先生、覚えてますか? 俺の文化祭での話。俺が文化祭に行った女子校、ここですから」
「お、覚えてるよ、もちろん」
「挫折とか失敗は、悪いことじゃないから。一旦どん底までくじけて、もうやってらんねえってくらいに泣いて、暴れて。それからでも遅くないよ、立ち直るのは」
「…………」
「そんで精一杯泣いて暴れたら、考えればいい。『もう2度とくじけないために、どうしたらいいか』って。その連続」
「あなたは……」
「俺? 俺は失恋という挫折をきっかけに、君と同じ所を去年受けたけどダメで、その挫折をきっかけに今年再挑戦した先輩、ってとこかな」
彼は彼女に見えないように、僕にピースサインを送ってきた。彼なりの配慮と、彼の努力が今度こそ認められたということに、僕の心はたちまち温かくなる。良かった、カツ丼食べて。
「あの、ありがとう、ございます……」
彼女は彼にペコリとお辞儀をした。
「今はくじけて。でもこの先は、くじけないで」
「はい。本当に、ありがとうございます」
彼は去年よりもさらに強くなった気がして、彼女は心なしか頬が赤いように感じた。
じゃあ、失礼します、と彼らは連れ立ってここを後にする。互いの体験でも語り合うのだろうか。
ぼうっと2人の背中を見ていたので、手にしていたキャンディを渡しそびれたことに今更気づく。合否の報告をしてくれた生徒には、キャンディを。僕が受験生だった時にそうしてもらったから、それが予備校講師の礼儀だと思っている。
仕方がないので、黄色い方のパッケージをちぎって中身を口に放り込む。酸っぱいから、普段自分じゃ選ばない味なのに。
でもこの日は、どこか爽やかな甘酸っぱさを感じた。それは僕の気持ちなのか、さっきやってきた2人のこれからを暗示しているのか、僕にはよく分からなかった。
ただ予想以上に美味しくて、これからはレモン味のキャンディも食べてみようかな、と思うようになった。
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Conchita(コンチータ)
「くじけないで」
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