2. Grapefruit Juice
「先生、涙ってこんなにしょっぱいんですね」
僕は彼の言葉を前にして、何も言うことができなかった。情けない話だ。慰めるとか何とか、方法はあっただろうに。
彼は続けた。
「先生。ダメでした。……努力がまだ足りなかった」
「そんなことは……」
「もし足りていたら、合格していました」
「運、ってことも……」
今思えば、「力はあったのに、君は運がなくて落ちた」と言ってしまったようなものである。とんだ失言だった。彼は幾分気を悪くしたかもしれない。
でも彼は、僕の目をまっすぐ見て言った。
「もし運がなかったのなら、運を持ってくる努力が足りなかっただけのことです」
彼は、僕よりもずっと、タフだった。
よくよく考えてみれば当たり前だ。上級講座でも、Sクラスでも、周囲と互角に渡り合えるくらいに猛勉強できる精神を持っていたのだから。彼は友人らしい友人も作らないまま、1人で立ち向かった。ノートも単語カードも、ボロボロにして。
「……進学先は、どうするの」
彼はうーん、と言った後、「きっと浪人します。それで再チャレンジします」と言った。「このまま就職しちゃうか、迷ったんですけどね」と言い添えて。
「再チャレンジできるなら、した方がいい。もし君が、箸にも棒にも引っかからないようなレベルならこんなこと言わない。でも君は、あそこまで努力できる生徒なんだ。僕は今までの講師人生の中で、あれだけ努力できる人間を初めて見た。なんであれだけ一生懸命になれるのか、知りたいくらいだった」
「……強く、なりたかったんです」
彼の口から出された答えは、極めて意外なものだった。
日本一の大学を狙うのだから、それも偏差値を30も上げて挑むのだから、もっと将来のビジョンとか、野望とかを抱いているのだと思っていた。
「僕、男子校じゃないですか」
「そうだったね」
「でも、恋、しちゃったんです。高2の時に」
「え?」
「僕のクラスメイトに、お姉ちゃんがいる奴がいて。で、そのお姉ちゃんの高校の文化祭に行かせてもらったんです。そこで、めっちゃ可愛い子がいて、一目惚れしてしまって」
教室では見せなかった彼の新たな一面を、今更知った。あの独特の空気の中で教材と格闘していた彼も、1人の思春期の男子であったことを思い出した。
「それで、連絡先を何とか手に入れて、デートしたんです。それで告白したんですけど……」
なんと、彼は初回のデートで告白したらしい。「恋愛のイロハを知らなかったんです」と彼は苦笑いした。
「でもね、振られちゃったんですよ。なんて言って振られたと思います?」
分からなかった。僕が黙っていると、彼は乾いた笑いと共に言った。
「『私よりレベルの低い子と、付き合いたくない』って言われたんです。いやもうね、痛烈というか、痛快というか……。で、続けて聞いてきたんです。『大学、どこ受ける気?』って」
「うん……」
「僕は、当時考えていた大学を正直に答えました。中堅どころです。そうしたら、彼女に『あ、もうね、論外。弱すぎ』って言われました。ビンタ食らった気分でした」
その彼女も結構ひどいんじゃ……と思ったが、彼女の高校はいわゆる“御三家”レベルで、日本一の大学に行くのが普通、というような学校だった。彼の恋は、思わぬ形で幕を閉じたようだ。
「それで決めたんです。強くなるって。あの女の子のことは、あれだけひどいこと言われたから、好きでも何でもなくなったけど、でもせめてものプライドとして、最強になってやりたいって思いました。だから、人生最後の受験に賭けようと思って、Sクラスに入りました」
強くなるって、そういう経緯だったのか……。
まさか恋愛がここまで人の人生を変えるなんて、思っていなかった。僕だったらきっと、勝手に彼女を嫌ってそこで終わりだったと思う。
「だから、落ちたのは悔しいです。俺はまだあの大学から、『強い奴』として認められてないんだなって。それが分かって、悔しい。……だから、あともう1回だけ、挑んでみます。もし彼女が現役合格していたとしても、一学年下になっても意地で合格した俺を、見せたいと思うんです」
ある意味、Sクラスに在籍していた誰よりも確固とした志を持っていたのかもしれない。だからこそ彼は、環境に
「じゃあ、そろそろ失礼します。次こそ、先生に良い報告を持ってきますね」
決意を新たにした彼の顔つきはやっぱり、晴れ晴れとしていた。彼はこういう逆境が好きなのかもしれない。
甘酸っぱい、いや、
僕は「応援しています」と声をかけて、彼の後ろ姿を見送った。まだ未成年ではあるが、その背中はとても大きく見えた。
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