Conchita

1. Tequila

 今年も、あの季節がやってきた。

 多くの若者が、喜怒哀楽を最もあらわにする季節が。


 長年予備校講師をやっていれば、そこまで身構えなくても良いような気はするのだが、そうもいかない。もうかれこれ10年目だというのに、この季節は僕まで緊張してしまうのである。

 「合格したよ!」と笑顔が弾ける生徒と共に喜び合った20分後には、「第一志望、ダメでした……」と項垂うなだれてやってくる生徒を慰める。そんな日々が、2ヶ月くらい続く。特に思い入れが強い生徒の場合、喜びも悲しみも倍になる。

 一応、僕の生徒は皆高い合格率を叩き出してはいるものの、全員が第一志望に合格した年はない。……まぁ、抱えている生徒が100名を超えるので、仕方ないとは思うのだが。でも項垂れてやってくる生徒を見ると、責任の一端は僕にもあったような気がして、少しばかり胸が痛む。


「そんなの、先生のせいなわけないじゃないですか! 先生はずっと、質の高い素晴らしい講義をされている。その証拠に、受講者数はうなぎ上り。非情かもしれませんがね、生徒の努力が全てを物語るんです。先生の講義を、どう自分の血に変え肉に変えたか。そこなんですよ先生」


 ねえ、と周囲に同意を求める校長とは、5年の関係になる。最初の5年間は他の校舎で勤務していたが、講義の人気に伴って、東京の校舎に呼ばれるようになったのだ。

 周囲の事務の方々は「そうですよ」なんて同意するけれど、それが本心だとは思えない。バイトの人間が校長に反対するのは、本能寺の変並みの反逆行為だと思っているからだ。


 受験生でもないのに、さっきから緊張してばかりだ。“ラストスパート特別集中講座”が午後7時から始まるので、僕はずっと待機している。その講座の前後で合否の報告をしてくる生徒がいるので、その対応も考えさらに緊張していた。……あぁ、心なしか寒くなってきたな。温かいコーヒーでも飲もうか。


◇◇◇


 僕には毎年1人、特に思い入れの強い生徒というものができる。教育者の端くれたるもの、全生徒と平等に接しないといけないのだろうが、なかなかそうもいかなかったりする。予備校という性質上、人一倍意欲があったり、成績の上昇が目を見張るものだったり、印象に残りやすかったりする生徒を気にかけてしまうのは、多少は許される……はずだ。

 昨年度、僕にとって最も思い入れの強い生徒は、中堅レベルの中高一貫校に通う男子生徒だった。中堅というレベルの通り、彼は特別できるわけでも、できないわけでもなかった。ただ彼は、僕の上級講座に参加してきたのである。上級講座は誰でも参加できるが、参加者の在籍校は軒並み進学校で、悪い言い方をすれば彼はだった。生徒達もそれを何となく感じていたらしく、彼は妙に浮き始めた。しかし彼も自分でこのクラスを選んだという矜恃きょうじがあったのだろう、周囲からの奇異な目にも臆することなく食らいついてきた。僕はそういう生徒が好きだ。もちろん、健全な意味での“好き”ということだが。

 せっかくの予備校なのに、知ったかぶって結局模試になるとできない生徒や、友人作りに余念のない生徒、自習室に長時間籠ることを勉強だと勘違いしている生徒も数多あまたいる。自分で問題点を明確にできない状態のまま、僕に質問してくる生徒もいる。申し訳ないが、そういった生徒は苦手だ。

 彼のように、レベルが違うと分かっていても志望校のために食らいついて、必死に予習と復習を重ねて、理論的に質問してくる生徒の方が、僕は圧倒的に好感を抱くことができた。上級講座での彼の健闘は素晴らしかったが、2ヶ月後、彼はさらに驚くことを言い出した。高校3年生の5月のことだった。


「先生、Sクラスの試験、受けたいと思うんです」


 Sクラスというのは、上級講座よりもさらに上の講座名であった。Sは数ある講座の中でも最難関であり、それこそ日本一と言われるような大学を目指す精鋭達の集まりである。故にSクラスだけは、受講前にテストを受けることが義務付けられていた。

 上級講座でも彼と周囲の在籍校の差は歴然としていたが、Sクラスとなれば、言わずもがなである。僕はSクラスも担当しているが、士気というか、覇気というか、とにかく空気が違う。講師の僕でも背筋がシャキッとなるくらいに、彼らの醸し出す空気は違うのだ。

 遅まきながら、僕は初めて知った。彼が本気で、日本一の大学を目指しているということを。


 程なくして彼はSクラスの選抜試験を受け、なんと一発で合格した。上級講座出身者や難関高校の在学生でも、数人に1人は複数回チャレンジする羽目になる試験なのだ。僕は校長から新たに渡されたSクラスの名簿を見て、「えっ」と声を上げてしまったくらいである。

 彼が新たに入って初めてのSクラスに足を踏み入れる時、僕の方が緊張してしまった。

 彼はやっていけるんだろうか。あの氷のような、でも燃え盛る炎でもあるような空気感をまとうあの教室で、息が詰まりそうにはならないだろうか。

 僕はずっと、彼のことばかり気にしていた。


 しかし、そんな僕の心配は杞憂に終わった。

 彼はいち早く教室に来ては、早速自分の席を確保し、教材と格闘していた。その机には、すっかり厚く、そして先端が丸くなった単語カードが置かれていた。


「Sクラスには、慣れた?」


 ある日の授業後、僕は一番帰りの遅かった彼にそう尋ねた。彼が毎回1人で帰る様子を見る限り、気兼ねなく話せる友人を作るには苦労しているらしい。たかが偏差値、されど偏差値である。それだけ、偏差値が作り出す社会的格差は大きい。


「はい。……僕、夏の模試でB判定取れたんです。英語の偏差値が、上級講座の時より7上がって」

「すごい。あともう一歩だね」


 彼を取り巻く環境は決して甘くはなく、むしろシビアであるはずなのに、彼の顔は晴れ晴れとしていた。確かに彼は、Sクラス内で行う小テストでも良い結果を残すようになっていた。小テストで彼が最下位になったことはない。まだ本番前ではあったものの、これだけのを果たす生徒に出会ったのは初めてだった。もしかして、中学受験でうまく行かなかっただけではないか、と疑って、それとなく本人に聞いてみたものの、「中学は第一志望でした」とのこと。この短期間で彼が死に物狂いで努力したことは、もう疑いようのない事実だった。


 僕は彼に対して、これまでにない可能性を感じるようになっていた。彼ならきっとやってくれる、そういった確信があった。僕はこれまでの講師人生でほぼ初めて、ワクワクした気持ちで受験シーズンを迎えた。彼は秋の模試で、A判定を一度出すほどに成長していた。


 そして彼は、3月に僕のもとへやってきた。

 彼はひとこと、こう言った。


「先生、涙ってこんなにしょっぱいんですね」と。




**********

Tequila(テキーラ)

アガベ(リュウゼツラン)を原料とした蒸留酒。産地メキシコでは、ライムを口へ絞りながらストレートで楽しみ、最後に食塩を舐めるのが正しい飲み方とされている。

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