4. Yolk

 あんなにメシア先輩が欲しかったはずなのに、相変わらず私の能動性は皆無だった。

 彼は授業にも顔を出さなくなっていったようだ。メシア先輩のその後を知る者はもはやなく、とりあえずどこかで生きている、ということしか分からなかった。

 大学は、高校までと違う。誰かが来なくなっても、責任を持って気にかける人間はどこにもいない。

 私は常に受動態でしかいられないビビリのくせに、中途半端な執着心だけはあって、不謹慎なのは百も承知だったけれど、ニュースの度に彼の名前が出ないかを確かめた。出ないことに安堵して、毎日どこかで生きているメシア先輩を想った。


 こういう中途半端な執着心が、私の心を白く濁らせ続けている。

 そんなことも、もう分かる年齢になっていた。


 私はサークルを辞めた後、必修クラス時代の友達やゼミの友達とたまにだけ会って、他の時間は就活に捧げていた。酒や男に時間を使うより、全然良いと思ったからだ。

 入念すぎる準備が功を奏した形で、誰もが知る大企業に内定が決まった。家族は自分のことのように喜んだ。だからこそ、酒と男を断ったからだよなんて、口が裂けても言えなかった。私の頭にあったのは、いつかメシア先輩が気づいてくれるかどうか、それだけだった。



 新卒の総合職は、地方に行かされるのがお約束だ。

 一人暮らしを始めてからというもの、夜になる度に思い出す。

 2人で少しお酒をたしなんで、夜風にあたり、他愛もない話をしていたあの時を。

 すぐ真っ赤になる私と、どこまでもザルなメシア先輩は対照的だった。火照った顔を冷やすために夜風にあたっていたのに、本心で「可愛いね」と言ったメシア先輩は、悪戯いたずらっ子のように私の唇に触れた。そのせいでいつまでも火照りが取れなくて、夜中に笑われたんだっけ。

 そうしたら火照りなんかどうでも良くなってしまって、私は全てを委ねた。バカがつくほどお酒には強いのに、私にはめっぽう弱いメシア先輩を見るのが好きだった。この上なく好きだった。完璧な彼の弱点を見つけられたような気がして、私も悪戯っ子のように喜んだ。



 卵の黄身みたいに、濃厚でつるりとした月が、1人になった私を照らす。

 月は私の顔を火照らせはしない。太陽の光を受けるだけの、受動態の月。

 月はずっとずっと、永遠に。私が生まれる前から死んだ後まで変わらず、受動態だ。私がこの24年間ずっと受動態だった時間よりももっと、途方もないくらいに長い時間を、月は過ごしている。月は私にとっての大先輩だ。受動態の、大先輩。


 太陽に照らされなくなったら、月はどうするのだろう。

 地球に見てもらえなくなる。地球に捨てられるんだ。

 もしかしたら月は今までも、いくつかの惑星に捨てられてきたのかもしれない。それで心を病んで、自分の顔にクレーターをいくつも作ってしまったんじゃないだろうか。

 そんな妄想ばかりが膨らんでいく。きっと月は、「あなたなんかと一緒にしないでくれ」と憤慨しているだろう。

 ごめんなさい、と呟いて、オンザロックのブランデーを少し口に含む。今日は眠れそうにない。

 きっとお酒に頼ったって、ラジオを聞いたって、本を読んだって、音楽を聞いたって、いつまでも眠れない気がした。


 でも私は今、お酒に頼っている。

 メシア先輩が得意げに飲んでいたブランデーを。

 単にアルコールのせいでなのか、間接キスをしたせいでなのか分からない、胸が焼けるような思いをしたブランデーを。

 彼はストレートで飲んでいて、私も真似していたけれど、もうそんな無謀なことはやめた。私はあれからもう一段階、大人になった。


 どこまでもどこまでも、メシア先輩はついてくる。

 実体はないまま、思い出だけがついてくる。

 甘くてたまらない、お酒の匂いとムスクの香りがついてくる。


 こんなに想っているのに、通じ合えないなんて、どこまで世界は残酷なのだろう。

 綺麗事で済ませられる世界も、たまには欲しい。



 人を愛する。その意味を知るのに、24年かかった。


 一瞬でいい。偶然、通りすがりでもいい。


 もう一度、会わせて欲しい。



 永遠に受動態の月に願ったって叶うはずがないのに、思わず手を合わせて拝んでしまう。

 お月様。あなたが能動的になってくれたら、私も変われる気がするの。


 そんな身勝手なお願いをしていたら、一瞬だけ、ロックグラスの中のブランデーがきらりと光った気がした。




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Night Cap(ナイトキャップ)

「眠れぬ夜、あなたを想う」

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