3. Anisette
初恋で彼氏を人に奪われたんじゃ、そう簡単に立ち直ることはできない。
私は修羅場がトラウマになって、サークルに顔を出す頻度が減っていた。完全な被害者だったけれど、どの顔をして参加したら良いのかも、分からなくなっていた。メシア先輩達も、幽霊会員と化していた。SNSの追跡も、不可能になっていた。
純粋で、透明なはずだったのに。
酒というものを知らずに、恋というものを知らずに、高校までは生きてきた。
どこまでも透き通っていたはずだった。
なのに、大学に入った途端、全てが変わってしまったように思えた。
カシスオレンジだけで大人になった気がしていた私は、今考えれば笑ってしまうくらいに幼くて。
銘柄ごとにビールの味が見分けられるようになり、カクテルは甘すぎると言い放ち、胸が焼けるようなウイスキーを無理してダブルで飲んだり、一気にクラクラするような焼酎を飲んだりすることが真の大人なんだと感じるようになった。メシア先輩を意識したせいなのか分からないけれど、限界まで飲んで、肝臓を長時間労働させることに価値を見出すようになった。
そして手を繋がれただけで、ウイスキーを口にした時と同じくらいに胸が焼けそうになっていた私は、本当に幼すぎて。
メシア先輩との関係が深まる度に、もっと大人なことを求めるようになっていった。満たされ、枯渇する、をずっとずっと繰り返していた。私達なら、もっと洗練された大人になって、美しい恋愛ができると思っていた。こうやって大人な恋愛の領域に足を踏み入れて、銀座や青山が似合う女性になってみたいなんて、思っていた。
メシア先輩と別れた後、何人かから新たにアプローチを受けた。一度しか恋愛をしていないくせに、ハウツーは分かった気になって、上から目線で告白を断る自分がいた。酔った勢いならノーカンとかいう、意味不明なルールを作り上げたこともあった。でもそうしたって満たされることは決してなくて、枯渇の度合いばかりが増していった。
今の私は、白く濁っている。
向こうが見えるほど透き通っていた無垢な時代は、終わった。
今はもう、何も見えない。
色んな俗なことが私の心と体に入り込んできて、それが入ってくることに歓びを感じてしまって、ろくに検閲もしないまま受け入れ続けてきた。
成人式のために振り袖を着たって、20歳を迎えて親の前では「お酒初めて」なんてフリをした時だって、いつも心は白く濁っていた。
きっとそれが、大人になるってことなのだと思う。
綺麗事だけで成長できるほど、世の中は甘くない。
汚い所でも目を背けずに直視して、色々判断していかないといけない。
そのためには、透明な心を犠牲にして白濁させてでも、生きていかなければならない。
それを受け入れられるまでに、思ったよりも長い時間を要した。
チアの友達は、兼サーする金銭的余裕がなくなって、国際交流サークルをやめた。同期のLINEグループメンバーの数は、気づけば100人から30人になっていた。
来年度から3年生になるのに備えて、サークル内の人事を決めなければならない。サークルの規模的には、私が辞めるだけでも運営に支障が出るくらいの打撃となるが、ほろ苦さを抱えたままの場所にいつまでも居座っていられるほど、私の心は強くなかった。
だから、同期の誰にも言わずに、“退会する”のボタンをタップした。
赤いボタンを一度押すだけで、私の人間関係はリセットされる。
こんな簡単なことで、私はなぜか泣いていた。なんでだろう、涙が止まらない。
おかしいよね、あれだけお酒飲んで、強くなろうと思ったのに。
たくさんたくさん飲んで、朝まで記憶がなくなるくらい、他の人の制止も振り切って飲んで。頭が痛くなっても、気持ち悪くなっても飲み続けて。
だけど、強くなんてなれなかった。
私の心も肝臓も、悲鳴を上げ続けていた。
制止も振り切って飲むなんて、メシア先輩を強引に奪ったあの先輩と同じことをしでかして。
ただそこまでしても、私はメシア先輩を忘れることができなかった。
あんなに苦かったはずなのに。
もう完全に過去となった、あのどうしようもない甘さが、未だに私を捕らえて離さない。
あの恋が欲しい。
あの手が、あの瞳が欲しい。
メシア先輩にしか出せない、あの甘さが欲しい。
体が触れる度に鼻を掠めた、あの甘い香りが欲しい。
白く濁った心を少しでも浄化してくれるのは、きっとそれしかないと思うから。
ほんの少しなら、苦くたっていい。今の私には、そのくらいの苦味なら許せるキャパシティーがある。
色んな種類のお酒の匂いと、ムスクの香水の混じった、あの甘い香りが今、猛烈に欲しくてたまらない。
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Anisette(アニゼット)
セリ科の植物、アニスを用いたリキュール。水で割ると白濁する。甘く豊かな香りが特徴。
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