2. Curaçao

 未成年の飲酒は法律で禁止されていますとか、私達は法律を遵守しますとか、そうした言葉が社会では好まれるけれど。というか、そうしたことを言わなければならないけれど。

 抜け道なんていくらでも存在する。日本人は、みんなが思うほど真面目じゃない。


 私が駆け込み入会したサークルも、ご多聞に漏れず抜け道が用意されていた。ネットに上げさえしなければ、未成年者の飲酒はスルーされた。そして常に受動態の私は、下手に抵抗することもなく、その“伝統”に追従した。大学1年生の、冬のことだった。その時にはもう、チアの友達もアルコールデビューをしていて、逆に貞操を守っているのは私くらいしかいなかった。カシスオレンジ1杯で精一杯だった私は、先輩からも同期からも「可愛いね」と言われまくった。一晩であれだけ多くの人に「可愛いね」と言われるのは、ほとんどが本心じゃないことくらいわかっていたけれど、こそばゆい感じがした。自分も、あの最初のコンパで先輩がまとっていたようなお酒の匂いを、わずかに纏う人間になったことに、驚きと戸惑い、背徳感を抱いていた。



 そして四六時中受動態の私にも、春はやってきた。

 チアの友達から、どうも先輩の1人が私を狙っているらしいことを聞いたのだ。でももちろん私から何かするなんてことは絶対になくて、ついに「ご飯行かない?」と誘われたのは、2年生の4月のことだった。

 1つ上の先輩は、悪酔いして絡んでくるような人ではなかった。男女関係なく、潰れた人間がいないかをよく観察し、もし潰れかけていたら真っ先に介抱する人だった。彼自身はいわゆる“ザル”で、酔った所など誰も見たことがなかった。周囲からは“紳士”とか“救世主メシア”とか“神”と呼ばれていた。私達の代は、彼をメシア先輩と読んでいた。


 メシア先輩は、素面でも完璧な人だった。

 私の好みをそれとなく聞き出し、当日に再度選択肢を与えてくれた。私とたくさん話そうと努めてくれて、帰りも最寄り駅まで送ってくれた。車道側を歩くとか、お店では奥の席を私に勧めるとか、ドアを先に開けてくれるとか、そうした些細な所まで、抜かりがなかった。

 相当モテていそうだと思ったけれど、真相は違ったらしい。

 男子校出身で、いざ女子を目の前にすると、挙動不審になりがちだったようだ。この1年でそれはかなり克服されたらしいが、人生で彼女が一度もできないまま、今まで過ごしてきたらしかった。私は共学だったが、彼氏がいたことはなかったので、急に親近感を覚えた。

 しつこいかもしれないけれど、メシア先輩は本当に完璧で、きちんと3回目のデートで告白をしてきた。断る選択肢などあり得なかったので、私達は付き合うことになった。


 お互いに初めての相手だったから、端から見たらすごく幼稚な恋愛だったかもしれない。変化球なんて用意してなくて、勝負は常にストレート。駆け引きも全くない、まさに純愛と言っていいような、そんな恋愛だった。

 人数の多いこのサークルでは、瞬く間に私達のことが知れ渡った。でも、直撃取材されても笑顔で頷くだけのメシア先輩は、とてもカッコ良かった。うろたえたり、極度に恥ずかしがったり、恥ずかしすぎて逆に私を貶したりなんてしなかった。そんなメシア先輩に、私は何度も何度もキュンとしていた。

 ありがちな展開かもしれないけれど、後輩からもそこそこ人気のあった先輩はいつも、私と2人きりの時には手を繋いでくれた。“ザル”のはずなのに、わずかに頬を赤く染めながら。初恋は甘酸っぱいなんて言うが、私の場合は違った。オレンジのように爽やかで、ただ甘く。甘く。どこまでも、甘く。彼の全てが、とても。



 だけど初恋がうまくいく確率は、そう高くない。

 喧嘩したわけじゃない。浮気したわけでも、されたわけでもない。自然消滅したわけでも、蛙化現象を起こしたわけでもない。


 私は、メシア先輩を奪われたのだ。


 2つ年上の先輩に、突如として、メシア先輩を奪われたのだ。


 国際交流サークルは、留学に行く学生も多い。彼らは大抵、サークルに籍を置いたまま1年間海外で過ごし、帰国後にまた戻ってくる。

 彼女もその1人だった。一浪していた彼女はメシア先輩と同期で、2年生の時に留学して、3年生の夏に帰国した。サークルに再び顔を出すようになったのは、秋も深まってきてからだった。


「彼を先に好きになったのは私なんだけど」


 私を1人暗がりに呼び出して、いきなりそう言ってきた。入会してからほとんど話したこともない先輩とマンツーマンでこんな目に遭うのは、本当に怖かった。


「あ、あの、好きになった順番に理由とか……」

「口答えしないで。とにかく、私が帰国したら付き合う約束してたんだから。勝手に取らないでくれる?」


 後々聞けば、彼女は留学前の送別会の時、泥酔した状態でメシア先輩に付き合う約束を取り付けたらしいのだが、メシア先輩はもちろん本気だと思っていなくて、聞き流していたそうだ。でも聞き流す時の顔の動きが、頷いているように捉えられてしまった。彼女のスマホには“証拠”としてその動画が残っていて、泥酔した彼女と介抱するメシア先輩のやりとりが克明に記録されていた。

 完全な貰い事故だったが、メシア先輩は強引に彼女のものになってしまった。この時はちょっとした修羅場になった。彼女に待ったをかける先輩もいたが、彼女の暴走は止まらず、珍しく泥酔させられたメシア先輩とあっさり一線を超えてきた。私はあっさり捨てられた。


 甘すぎた半年間の後に、顔をしかめたくなるほどの苦味が私を襲った。




**********

Curaçao(キュラソー)

やや苦味のある、甘いリキュール。オレンジの皮が用いられている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る