Irish Coffee
1. Irish Whiskey
「ケイさん、このケースどこに置いたらいいですか?」
「色見ろ。同じ色のケースのとこに積んどけ」
「はい」
「ケイ、何チンタラしてんだよ。はよ来い」
「はい、すんません」
この仕事を始めて3年が経つ。先輩の方がまだまだ多いが、後輩も少しずつ増えてきた。
この世界に後輩が増えることは、正直あまり喜ばしいことではない。でも、この世界で生きていかなければならない人間がいることも、俺はよく分かっている。
高校3年の時に、俺は
ちょうど親父の仕事が傾いた時に俺が生まれたから、ずっと邪魔者として扱われてきた。
最低限の衣食住。何度も何度も洗って、元の色なんてすっかり分かんなくなってしまったようなTシャツと半ズボンを、ずっと身につけていた。カップラーメンは、2回に分けて食べた。ガスなんて使えないから、規定の線より遥かに下の所までだけ水を入れて、かやくの溶けきらないスープを飲んだ。いつも雨漏りがするような家で、家賃は何ヶ月も滞納するのが当たり前になっていて、俺は大家から常に睨みつけられていた。
中卒で働くことを考えていたが、その時通っていた支援施設の人に、高校までは行くように助言された。生活保護の申請も通って、何とか近所の高校に滑り込んだ。
その頃、弟が生まれた。せっかくお金が増えたところに家族も増えて、結局プラマイゼロどころかマイナスになった。親父は競馬でボロ負けする度に怒鳴り散らして、雀荘に入り浸った。母親は親父から受ける愛情があまりに一過性のものすぎて、感情のやり場に困って、子育てと共に迫り来る激情を手当たり次第にぶつけていった。「お前なんかさっさと消えてしまえ」、その言葉が引き金になって、俺は家を飛び出した。幼い弟のことがわずかに脳裏をよぎったが、自分の命を守ることを最優先にするしかなかった。どこに助けを求めたらいいかなんて、分かりようがなかった。たまに学校では、「困ったらこの番号に相談」なんていうチラシが配られたけれど、そもそも電話も金もない奴にそんなことを言われても。俺にはどうしようもなかった。
そのまま夜の街をほっつき歩いて、そうしたら雨が降ってきて。天気は誰かが予報してくれるものだなんて、俺は知らなかった。そうこうするうちに土砂降りになって、ひとまず見つけた屋根の下に逃げ込んだ。その時に俺に声をかけ、今の店で働かせてくれるようになったのが、北条さんだった。
北条さんは優しいが、優しくなかった。
北条さんが経営するバーに、住み込みで働かせてもらえるように手配してくれた所は優しかった。
でも頼まれたタバコの銘柄を間違えたり、少しでも口答えすると、間髪入れずに拳が飛んできた。何も知らずに界隈で仲良くなった奴らとつるんでいたら、そいつらは北条さんと敵対するグループの下っ端だったことが分かって、その時には完膚なきまでに叩きのめされた。
俺を拾ってくれた時の北条さんの目と、殺しそうな勢いで俺を殴る時の北条さんの目は、同一人物だとはとても思えないくらいに違っていた。殴られる時は本当に本当に怖くて、足がすくんで、もうこの世界から逃げたいと、何度も何度も思った。でも散々殴られた後に、「俺はな、ケイが大事なんだよ。ケイのことは息子みたいに思ってんだよ」と優しく言ってくれる北条さんは、俺の大好きな北条さんで。俺が求めていたものを、ちゃんとくれる人で。だからその度に、この世界は捨てたもんじゃないって、俺の居場所はここにあるんだって思っていた。その繰り返しで、今がある。
今の俺は外見こそヤンキーそのものだが、全く以て強くなどない。
そりゃあ、北条さんやその部下の人達にしごかれて、ある程度ケンカは強くなったけど。前みたいに一発殴られただけで尻餅つくような、そんなダサい奴じゃなくなったけど。
でも本当は怖い。ケンカなんてしたくない。先輩達はケンカになれば血が騒ぐみたいで、笑顔すら見せてその場に赴いていく。でも俺は怖い。血に塗れた人間を見たくないし、骨があらぬ方向に行くような音を聞きたくない。——それは、家を出る直前の、親父と母親のようだったから。
人を殴る度に、脳裏に映し出される。割れたビール瓶、泣き叫ぶ弟、雨漏りの音と止まらない罵声。ただ隅で震える自分。
この世界は、生半可な気持ちで足を踏み入れる所なんかじゃない。どこよりも強固な縦社会、理不尽な要求にも従う覚悟、骨を埋める覚悟、自分の命は明日にはないかもしれないという恐怖、次々と動かなくなる人間を、感情のない目で見つめられる耐性。
その全てを受け入れられる、そんな人間でなければ、本来入ってはいけない世界だ。
でも俺はもう、引き返すことなどできない。
こんな世界だけど、北条さんは間違いなく俺の恩人で。
だから北条さんを守り続けることで、北条さんの組織維持と拡大に貢献することで、恩返しをしていかないといけない。北条さんに敵対する奴らの息の根を止めることに、抵抗を感じない人間にならなければいけない。
俺の人生は、雑味だらけだ。
人に話せば、神妙な面持ちで、どこか申し訳なさそうに、「複雑な家庭だね……」と言われる人生。真っ当な世界で生きる大人から、“ワケあり”と言われる人生。ともすれば、“社会のゴミ”と言われる人生。不純物だらけの、何の味わいもない人生。ハードモードすぎる人生。
だからこそ、雑味のない人間は、足を踏み入れてはいけない。片足でもダメだ。
こんな世界に、間違っても入ってはいけない。
絶対に。
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Irish Whiskey(アイリッシュ・ウイスキー)
アイルランドで生産されるウイスキー。蒸留回数が多いため、雑味が少なく滑らかな味わい。
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