2. Beer
私は娘の爆弾発言で受けたショックが大きすぎて、翌日から変わろうと努めた。幸いその日は仕事が休み。娘が学校に行っている間、私はささっと掃除を終わらせて外へ出た。私には、ハウスキーピングなんて雇う余裕はないから。
今まで貯めていた貯金を少しだけ切り崩し、まずはお店へ。いつもより予算を2万円追加して、着回しのできそうな洋服を購入する。その足でデパートに寄って、今まで遠慮していたデパコスに手を伸ばした。
いつもとはテイストの違う紙袋が置かれたリビングを見て、娘は「ママどうしたの?」と言ったけれど、「自分へのご褒美」と返した。自分にお金をかけることに、申し訳ないなとか、もったいないなとか感じていたけれど、鏡の前で洋服を合わせてみたり、コスメの封を開けてみたりすると、いつもの自分がちょっと綺麗に生まれ変わった気がして、嬉しくなった。結婚して母になったからといって、おしゃれが好きなのは変わらない。いつの日か、忙しさと経済的な理由からおしゃれを控えていたことを、少し後悔した。
翌日、私は新品のセットアップとアイシャドウをつけて出勤した。心なしか、いつもより仕事が捗るような気がした。背筋も伸びて視界が開ける。昨日は全く気がつかなかった、花のつぼみなんて見つけて、些細な幸せを見つけられた自分に喜びを感じた。
その日、偶然のんちゃんママとばったり会った。彼女は私を見た途端、目を丸くした。
「なーちゃんママ! 今日何かあったの?」
「こんばんは、のんちゃんママ。ううん、何もないよ」
「そうなの? すごい素敵なセットアップだし、メイクもいつも以上によく似合ってるし」
「そう? ありがとう、たまには自分にもご褒美あげようかなって思って、ちょっと奮発しちゃった」
「へえ〜! すごい似合ってる。あ、今度さ、あっくんママに誘われたんだけど、一緒にランチ行かない?」
あっくんママは、敏腕弁護士のワーママ。入学式の時から、のんちゃんママとすぐに打ち解けていたっけ。
すぐに分かった。あぁ、私は“審査”に合格したんだと。のんちゃんママやあっくんママと同等な人間として、認められたんだと。ちょっと追加の経費を出しただけで、私の世界はこんなに一気に広がっていく。会社でも部署的にパッとした仕事なんて回ってこなくて、だから彼女に認められたことが予想以上に嬉しかった。何より、娘が憧れる人と同じレベルに立てたのだということが、最も嬉しかった。なんでだろうね、彼女みたいにはなりたくないなんて思っていたのに、いざ認められると喜びを抑えきれない。
それから私は、あっくんママ主催のランチ会に参加した。もちろん、新たに買った洋服を身につけて。セットアップのボトムスだけは着回して、トップスとジャケットを変えてみた。のんちゃんママ、つまり人気ファッション誌の編集長に褒められたことが、私の自己肯定感を爆発的に上昇させた。
あっくんママ達のランチは思ったより頻繁で、3回に1回は参加しようと決めて。
私は気づけば貯金を結構切り崩していて、会社に申請して副業を始めるようになっていた。もっと綺麗になりたくて。もっと洗練された女性になって、娘に認めてもらいたくて。少しでも若くなった私を見て、夫にも惚れ直して欲しくて。別に夫との仲が悪いわけではないのだけれど。
だけどそんな私を再び滅多刺しにしたのは、またしても娘の言葉だった。
「ママ、最近すごい変わっちゃった」と。
わけが分からなかった。なんでそんな、寂しそうに言うの? あなたのために始めたことなのに。私はあなたに、かっこいいママだと認めてもらいたかったのに。
「なんで? なんで、そんなこと言うの? ママは、のんちゃんママになりたいなんてなーちゃんが言うから、だからママも負けちゃいけないと思って、頑張ってたのに……」
「ママ、勝負してたの? のんちゃんママと」
「え?」
「なんで、私のお友達のママと、勝負なんてするの? 最近ママ変だよ。メイク濃くなったし、洋服もなんか変わったし、前より忙しくなったし。のんちゃんね、言ってたの。『希のママはかっこいいけど、希のことあんまり見てくれない』って。あんなにかっこいいママを持つ子どもも、大変なんだなって」
7歳のくせに、何大人びたことを。でものんちゃんも、寂しい思いをしていたんだ。娘はさすがにのんちゃんの心の奥底までは分からなくて、だからのんちゃんママがかっこいいなんて言ってたけど……
「ママがのんちゃんママみたいになって、私も寂しくなったの。ママ、あんまり私と喋ってくれなくなった。私やっぱり、のんちゃんママじゃなくて、前のママみたいな人になる」
私は、のんちゃんと同じ寂しい思いを、娘にさせていたんだ……。
何をやってたんだろう。将来の教育費として貯めておいたお金を切り崩して、外見だけに気を遣って。そんな変化を褒められただけで、人格ごと認められた気になって、舞い上がって、どんどん見栄を張ることだけに力を注いでいって。
私がちゃんと見るべきは、のんちゃんママでも、あっくんママでもなく、娘なのに。
とても当たり前で、とても大事なことを、たった7歳の娘に指摘された。その言葉は私を滅多刺しにしたあと、ずっしりとのしかかってきた。
その晩、最近ずっと使っていた洋服をクローゼットに仕舞い込んだ。デパコスも、引き出しの奥にしまった。——これは、娘のお祝い事の時に使うことにしよう。
そして、あっくんママ達のランチ会が迫っていたけれど、キャンセルの連絡をした。『ちょっと忙しくなっちゃって、ごめんね』と。半分本当で、半分嘘。近いうちに、本当のことを言おうと思った。実は、ちょっと無理してたって。
その日の遅くに、夫が帰ってきた。心の整理がついた私は、どこか憑き物が落ちたような顔をしていたのかもしれない。彼は「ただいま」と言った後、「気付いたか」と静かに言った。
「見栄を張ろうとしなくていい。等身大のままでいい。ママは努力家で、思いやりがあって、俺のことをいつも支えてくれる。そんな素晴らしい中身を、つまらない見栄で隠さないでよ」
ソファに座った夫は、私を優しく抱き寄せた。
等身大のままでいたからこそ、出会えた素敵な人。そして大切な娘と巡り合えた。私にとって本当に本当に大事なのは、命がけで守りたいのは、この2人。
ありがとう、と言って、私は彼の腕の中で目を閉じた。
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Dog's Nose(ドッグズ・ノーズ)
「虚栄心」
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