2. Cassis Liqueur

 一瞬彼女を見ただけで、「この子にしよう」と決めていた。だから俺は彼女の真正面ではなくて、斜向かいに腰掛けた。真正面の位置関係は、対立を生みやすいからだ。彼女の隣は女性陣の座席だったから、同調関係を表す斜向かいの席を選んだ。深紅の唇が艶やかに動く様を見て、俺は完全に惚れた。彼女に振り向いてもらいたくて、アイコンタクトをたくさん取った。単純接触効果を狙っていた。そして料理を取り分けたり、みんなのグラスの中身を確認したり、気遣いを怠らなかった。とにかく第一印象を良いものにしようと努めた。

 座席の選択は正解だったようだ。彼女が予想以上に積極的だったことには少し驚いたが、互いに好意を抱いていることを確認できた。


 俺はかなり慎重派だ。たとえ両想いだと分かっていても、99%以上の確信がない限りは告白することができなかった。この性格が障害となって、俺は数々のチャンスを取り逃してきた。……だから、33歳になっても独身なのだ。

 彼女と両想いだと思える確率は、会う度にどんどん上昇していった。でも「もし断られたらどうしよう」という不安がずっと頭を支配していた。昔、本当に好きになって告白した女性に断られた苦い記憶があったからだ。その女性にとって俺は、ただのキープだったらしい。今回の彼女もかなり可愛らしい女性であるから、キープにされているかもしれない、という疑念をいつまでも払い除けられなかった。

 そんな俺を見かねてなのかどうかは分からないが、彼女は自分から俺に告白をしてきた。願ってもない幸せなことで、俺達は付き合えるようになった。


 でもここで安心しきってしまったのが、いけなかったようだ。

 いつも自分を上回るくらいの愛情表現をしてもらえる経験は、初めてだった。期間だって、これまでの最長を記録していた。しばらくして彼女は「いいよねっ」という感じで、これまた持ち前の積極性を発揮して俺の一人暮らしの家に来て、半ば転がり込むように同棲を始めたのだが、なぜか苦にはならなかった。あれだけプライベートの時間が欲しくて、交際相手が何日も泊まることにだって嫌気が差すほどだったのに。彼女とは、24時間を何度繰り返しても、緊張しすぎたりイライラしたりすることがなかった。その時初めて、俺の頭の中に“結婚”の2文字が浮かんだ。彼女となら、この先もずっとずっといられる気がした。だから俺は、思いっきり気を許すようになった。


 元々は俺の部屋だった所に彼女がやって来たのだから、俺が今までやっていた通りに物事を進めていた。玄関でまず靴下を脱いで、手を洗って上着を脱ぐ。次に風呂に入って着替えてダラダラして、そこからスイッチを入れて飯を作り、好きなテレビ番組を見てから最後に洗濯物をまとめて寝る。起きるのは家を出る時間ギリギリで、15分で着替えて髭を剃り、ゆで卵と豆乳だけを口に突っ込んでドタバタと出かけていく。

 ただ同棲を始めてからは洗濯物の置き場所を作るとか、自炊を増やすなどの努力もした。彼女に嫌われたくなかったからだ。35歳までには子どもが欲しかった。彼女との恋愛で最後にすると、決めていたのだ。


 しかし、俺が素をを見せたのは失敗に終わった。素を見せたというか、合コンの時に張り切りすぎたのが良くなかったのか。

 人の言動を細かに見てしまう癖があるから、すぐに分かった。


「洗濯物、畳んでおいたよ」

「うん、ありがとう」


 ——嘘。「ありがとう」の前に、「畳み方が違う」って顔に書いてある。でも今まで洗濯物を畳んでこなかったから、やり方が違うのは目を瞑って欲しい。結婚できたら、ちゃんとするから。


「買ったもの置いといたよ」

「助かる。ありがとう」


 ——嘘。「冷蔵庫に入れるくらいしてよ」って顔に書いてある。でも会社終わりに買い出しに行くなんて、同棲前はほとんどしていなかったから。買い物して来ただけで、どっと疲れちゃうんだ。帰宅した瞬間に、全てのスイッチが切れてしまうんだ。だから今は、分かって欲しい。近いうちに慣れて、片付けまでできるようにするから。


 これからずっと一緒に暮らしていくために、今自分なりに努力してるから。君のことは大好きで、絶対に離したくないから。

 でもその想いはいつの日か、すれ違ってしまったようだった。


「ねえ、まだ俺のこと好き?」

「うん、大好きだよ」


 俺の目を見ているようで、見ていない返事。一瞬だけ視線が逸れてから、紡ぎ出される言葉。

 ああ、彼女も必死になっているんだ。真っ赤な嘘をついてまで、一緒にいようとしてくれているんだ。


 その翌日、上司に呼ばれた。海外支部への異動が内々に決まったと報告を受けた。

 けれどそこは、あまり治安の良くない国で。このままプロポーズして彼女を連れて行きたかったけれど、無理だと思った。今後も彼女に嘘をつかせて、僕も彼女の期待に応えられないままで。そんな中、見知らぬ土地で過ごさせる。

 それはできない。好きだからこそ、できない。


 彼女はもっと幸せになれるはずだ。俺なんかより、もっと良い人間がいるはずだ。

 俺に時間がないように、きっと彼女にも時間がない。だから、早い方が良い。


 帰宅して、彼女に告げた。


「ごめん、別れて欲しい」

「え、なんで……?! ねえ、嫌だよそんなの、なんで?!」


 俺は1人、荷物をまとめる。彼女が用意できるまで、俺は自分の部屋を出て過ごす。

 このまま一緒にいたら、きっと彼女を引き止めてしまうから。

 これが優しい嘘なのかどうかは、分からない。きっと優しくなんかない。でもこれが、俺にできる最大限の配慮だった。


「…………好きな人が、できた」


 だから今日、俺は、真っ赤な嘘をつく。彼女の目を見て、嘘をつく。




**********

Cardinal(カーディナル)

「優しい嘘」

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