3. Brandy

 ドゥアンは翌日がオフらしく、いつまでも帰る気配がないままずっとそこにいた。マスターも、彼を強引に帰宅させようという気はないらしい。

 グリーンカレーとバタフライピーを堪能して帰ろうとすると、ドゥアンにまたしても腕を引っ張られた。


「あんた、時計見ろ」


 時計の針は午前1時。終電はとっくに行ってしまった。タクシーでと言いたいところだが、今は給料日前で、家までタクシーで帰ったら、数日はもやし生活が続くことになりそうだ。


「ここで寝てけ。から。な、マスター」

「ドゥアンは良い子だヨ。イケメンだヨ。パーフェクトだヨ」

「褒めすぎだって〜」

「何もしないのが当たり前です」


 言い方がドライすぎんだって! とドゥアンが文句を言う間に、マスターは厨房の奥に引っ込んでいった。私はさっき借りていた毛布をもう一度手繰り寄せて、ソファに横になる。「から安心しろ」としつこく言うドゥアンは、私から少し離れたソファで横になった。琥珀色の小さなランプがふっつりと消される。スキャンダルが気になるなら、私を助けなくても良かったのに。

 私は、いつの間にか充電されていたスマホを手元に持ってきた。ドゥアンが気づいて充電してくれたのだろう。自分の人気をやや過大評価している部分は否めないが、困っている女性を助けたり、突如充電の切れた私を暖かいお店に運んできてくれてご飯を食べさせてくれたり、スマホの充電をしてくれたりするあたりは、非常に好感度が高まる。これからはちょくちょくテレビもつけて、ドゥアンの出ている番組をチェックしてみようか。


 昨日までは何の変哲もなく、ただ仕事に追われるだけの何もない1日だった。特段書き記すこともない、私が疲れ果てていくだけのつまらない1日。

 でも今日は濃厚すぎた。疲労困憊の極致に達して、ガード下で寝たいと思うくらいになったことでまず1つネタが完成。その後道を間違えて、自分が生きているのとは全く違う世界に迷い込み、お兄さんにぶつかっちゃったくだりで2つ目のネタ。そして絡まれた所を芸能人に助けられた所で3つ目のネタ。その後、タイ人のマスターが経営しているお店でグリーンカレーとバタフライピーを味わった部分で4つ目のネタ。さすがに芸能人が私を抱きかかえて店まで連れてきた、という部分は書かない方が良いだろう。後でドゥアンだとバレた時、ファンから殺されそうだ。さっきの2人組のお兄さんよりも、残虐な殺され方をしそうだ。


 4つのネタのテーマと概要を、スマホにメモしておく。

 私の“副業”のために必要なのだ。

 エッセイをいくつか書いて、それをまとめて本として出版する企画が進んでいた。しかしボリューム的にあと1つエピソードが欲しくて、でもなかなか出てこない中、締め切りが今週末と迫っていたのだった。

 良かった。これで3冊目のエッセイが出せそうだ。このエピソードは絶対通ると思う。

 ちょっとニヤニヤしながらスマホにメモし終えて、毛布を肩まで引っ張り上げた。エキゾチックで少々癖があるけれど、なぜか不快にならない香りがふんわりと鼻を掠めた。現地の香水か何かなのかもしれない。すっかり温まった全身と満腹感が心地良く、私はまたしてもすぐに眠りの世界へと誘われた。



「おい。おはよ」


 魅惑的な低い声が、頭から降ってきた。少しずつ目を開けると、黄緑色のカーテンから少し日が差し込んでいた。


「今6時。帰宅して着替えて出勤するには、ちょうど良いくらいだろ」

「あ、うん、おはよう」

「だから起こしてやったんだからさ、お礼くらい言えっての!」


 もうこの時には、あえてお礼を言わないことで、プリプリするドゥアンを面白がるようになっていた。私もなかなか性格が悪いなと思う。

 起きてきたマスターから再びバタフライピーをもらって、昨晩の分と合わせてお会計をしようとする。すると腕を引っ張られた。もう3回目だ。


「俺が払っとく」

「いや、良いって」

「これ払える? 優しくてイケメンな俺に任せといた方がいいぜ」


 そう言われて伝票を見ると、5000円の文字。ぼったくりにしか見えないが、マスターは平然としている。タクシー代さえ出せずに泊まった私は、ドゥアンに従うことにした。

 マスターはニコニコして、「また来てネ」と言った。私も一応笑顔を返した。



 ドゥアンと一緒に外に出る。空は白んでいて、もうすぐ太陽が本領を発揮しそうな時間だった。少し歩いた所で、ドゥアンは「じゃあ、ここで」と言った。

 私は「待って」と呼び止めて、ドゥアンに言ってみた。昨日と今日の、まとめてのお礼のつもりだった。ちょっとファンになったよ、って気持ちを込めて。


「月が、綺麗ですね」


 するとドゥアンは、ニヤリとして言い返してきた。


「星が、綺麗ですね」と。


「え?」

「星が綺麗ですね、星羅せいらちゃん」


 それは私がエッセイを書く時のペンネームだった。私のスマホを充電した時に知ったのか。待ち受けが、前作のエッセイの表紙だったから。

 彼はまたしても私の腕を引っ張り、私の体をすっぽりと包み込んでしまう。ただ、彼の唇が私の額に触れた所は、昨晩と違っていた。


「『星が綺麗ですね』も、『月が綺麗ですね』と同じ意味だよ、俺的には」


 またいつか来いよ、この世界に。と彼は言い、朝日の方へと消えていった。


 朝から口説く女好きの所に、誰が。と思う自分と、また来ようかな。なんて悠長に考えている自分の両方を振り切りたくて、私は駅までの道を駆け抜けた。




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Nap Frappe(ナップ・フラッペ)

「星は君、月は僕」

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