2. Chartreuse Green
「目覚めたか」
のろのろと目を開けると、何やら怪しげな緑色のシャンデリアが目に飛び込んできた。「自分の家じゃない」と瞬発的に感じてガバリと起き上がると、私を覆っていた黄緑色の毛布がざばっと落ちた。
えーと、残業して満身創痍の状態で外食しようと歩いていたら道を間違えて、怖いお兄さんに絡まれて、それを助けてくれたのがもっとヤバそうなお兄さんで……今どこ?
「あんたなあ、充電がプッツリ切れたみたいに動かなくなるわ、スマホも充電切れてるわ。一体何をしたらここまでエネルギーが奪われるようなことになるわけ?」
「えっと、ここは……」
「俺の行きつけの店。……あぁ、ただのラウンジみたいなとこだから安心しろ。俺は何もしてない」
「何もしないのが、当たり前です」
「礼くらい言えよもう〜。ぶっ倒れた女の子を無傷で屋根の下に運んだんだぞ」
「……ありがとうございます」
「よし。きっと何も食ってないんだろ? 何食いたい」
店と言いつつも、客は私と彼しかいないようだった。
私は記憶を取り戻したように「カレー!」と小さく叫び、彼はそれに驚きながらも、「マスター、カレーちょうだい」と言う。すると奥から、「ヘイヘイ」と中途半端な返答が聞こえた。
きっと普通の日本のカレーライスだろう。私の食べたかった、スパイスいっぱいのインドカレーではないな。でもいいか、ご飯が食べられるだけ。
「で? 何したらぶっ倒れる羽目になるんだ」
「残業、してて」
「超ブラック企業じゃねえのかそれ」
「いや、チャコールグレーです。副業もしてて、あ、副業OKな所なんですけど、そっちも行き詰まってて、何か、うまく行かなくて、仕事もダラダラしちゃって」
あんたマジ大丈夫か、と、何だかんだで心配してくれる初対面の彼を前にして、ついポロポロと話してしまう。さすがに個人情報出しすぎるのは気をつけよう、と考えられるくらいには脳機能は復活し始めていた。
あなたは何も頼まなくていいんですか、と聞こうとして、「この人なんて名前なんだ」と疑問がよぎる。なんかさっき、“ドゥアン”って声は……。
「あ!」
「何だよ、今度はどうしたんだよ」
「その眼鏡、外してみて……」
彼はゆっくりと眼鏡を外した。
やっぱりそうだ。彼は“ドゥアン”だ。
日本生まれ日本育ち、でもお母さんがタイ人の、今をときめくスーパーアイドル。少々エキゾチックで精悍な顔立ちと、魅惑的な低音ボイスで紡がれる歌声、そして確かな演技力が日本女性をたちまち虜にしているのである。テレビをあまり見ない私でも知ってるくらいには、彼は有名人であった。
ドゥアンとは、タイ語で“月”のこと。ドゥアンはライブの時、「マイリトルスター!」とファンに呼びかける。するとファンは「月が綺麗ですね!」と返すのがお約束なのだ。
「え、えっと、ドゥアンさんは、何も頼まなくていいんですか」
「やっと気づいたか。まぁ芸名だけどな。俺は、あんたが3時間爆睡してる間に食った」
飯食って、1番人気のリリちゃんと飲んで500万使って、戻ってきたらまだあんたが寝てたからびっくりだよ、と彼は言う。
そうだった。彼は夜遊びが大好きなことで有名だった。だからさっき、「俺がこの街潤してやってんだけど?」なんて堂々と言えたわけだ。
「あ、俺、ファンとはイチャイチャしない主義だから。忘れずに言っとくわ」
どの口が言ってんだ。さっき私を可愛がるとか言ってたじゃないか。
彼くらいの人気度になると、街を歩く一般女性は誰でも自分のファンだと思うらしい。おめでたい頭をしているもんだ。さっき私が暴言吐いたのを忘れてるんだろうか。
でも反射的に吐いてしまった、「生理的に無理」以降のセリフは慎むべきだったと反省している。よく見れば、テレビの世界で生きるドゥアンはやっぱりイケメンで、生理的に全然OKだわ、と1人突っ込む自分がいた。
「お待たせェ〜! ゲェーンキァオワーンだヨ〜」
思いっきりカタコトのマスターが、皿を手にしてよく分からない呪文を呟く。すぐにドゥアンが「グリーンカレーのことな」と翻訳してくれた。
いわゆるカレーライスではなかったことにちょっぴり嬉しくなって、素直に「ありがとうございます」と言い、スプーンを手に持つ。
ドゥアンは呆れたように「あんた、食いもん関係だと素直に礼が言えんのか」と言った。あんたが余計なこと言わなければ、私だって素直に礼言ったわ。
鮮やかな緑色に溶け込んだスパイス、ナンプラーの香り、ココナッツの甘みに思わず頬が緩む。インドカレーを求めていたけれど、タイカレーも捨てたものではない。
そんな私を見て気分を良くしたのか、今度は青い液体の注がれたカップを持ったマスターがやってきた。
「お姉チャン、これネ、アンチャン。ハーブティーだヨ。美味しいヨ」
美しいけど食欲を減退しそうな色に戸惑っていると、またしてもドゥアンが「バタフライピーとも言うな」と翻訳してきた。さすがタイのことには詳しいようだ。
恐る恐る口に入れてみると、ハーブティーと思えないほどに味がない。これは果たしてお茶なのか、と
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Chartreuse Green(シャルトリューズ・グリーン)
薬草系のリキュールで、元々は不老不死の薬酒として造られた歴史がある。ブランデーをベースとし、砂糖や多くのハーブでできている。
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