Nap Frappe
1. Kummel
「はぁぁぁぁ」
今日もやるべきタスクをなかなかこなせなくて、残業してしまった。やるべきこと、考えなきゃいけないことが多すぎて、私の脳みそはいつ爆発してもおかしくない状況である。
ただ、頭は酷使したとはいえ、体は全く動かしていない。何時間もパソコンにかじりついて座りっぱなしだと、会社を出て歩くのすら
本当はこのまま寝ちゃいたい。ガード下でもいいから、へなへなと座り込んでしまいたい。今着ている上着をお布団にして、鞄を枕にして、うとうとと……。
なんてできない。一応、女だし。何されるか分からない。まだ命があれば良い方だろう。
今、この
心の中でそう問うてみると、呼応するようにお腹が「ぐぅ」と鳴った。
直帰した所で、誰かがご飯を作って待っていてくれるわけでもない。今の私の居城には、家族も彼氏もいない。これから帰って冷蔵庫から野菜出すなんて、もう考えただけで吐きそうになる。きっと今吐いたって、何も出てこないだろうけど。
なけなしの給料、そして自分の足と相談して、ここから一番近くてコスパの良い飲食店を思い浮かべる。……カレーが食べたい。「ひいいいい!」って言っちゃいそうな、スパイスたっぷりのカレーが食べたい。
私は何度か通っている本場のカレー屋を目指して、半ば
だが、あとは足が勝手に私を誘ってくれる、と信じきってしまったのがいけなかったらしい。
「あたっ」
私が踏み入れていたのは、独特の音楽と刺激的な匂いが待っている目的地ではなくて、その1本先の通りだった。
都会は怖い。道を1本間違えただけで、住人も空気も含めて、世界がガラリと変わる。
「おい姉ちゃん、ぶつかっといて謝罪の1つもないなんて、そりゃあおかしいんじゃねえの?」
「あ、や、えっと」
「可愛いお姉ちゃんなら、きちんと言えるよね? 言ったら見逃してあげるよ」
「ご、ごめんなさい……」
「え? 何つった? 聞こえねえなあ?」
体力と気力と恐怖のバランス的に最大音量を出して謝罪したのに、この見るからにガラの悪そうなお兄さん2人には届かなかったらしい。……まぁ、右にパチンコ、左にキャバクラ、前方に映画館、後方に多くの車があれば、聞こえないか……。
「悪いけど、聞こえねえ謝罪しても意味ねえんだよ姉ちゃん。それとも、何か別の方法で謝ってくれるの? ん?」
そう言う彼らの目線は、私の顔よりもわずか下に集まっている。これはヤバい。ガード下で寝こけるよりヤバい。
心拍数だけが無駄に上がりすぎていると、私の前にもう1人の男性が現れた。3対1じゃ、もう無理だ。命乞いだけはしたとして、聞き入れてもらえるだろうか。
「おいおいお前ら、こんな目立つとこでなーにやってんの」
「お前誰だよ?!」
あれ? 知り合いじゃないの? 何か風向きが違う?
「俺がこの街潤してやってんだけど? 俺がここから消えたら、お前らも生活立ち行かねえぞ?」
「あ、あなたは……!」
「いいから、分かったらはよ行け」
先ほどまでの威勢が嘘のように、怪しくて怖いお兄さん2人は去っていった。この人はどうやら、私を助けてくれたらしい。
「あ、あの、ありがとうございます」
お兄さん達に謝った時よりももう少し大きな声を絞り出して、私は本来の目的地に向かおうとした。しかし腕を引っ張られる。
「待てよ。この俺に助けてもらって、そんなお礼だけで済むとでも思ってる?」
なんなんだ一体。
彼は腕を引っ張った勢いそのままに、私をすっぽりと包み込んでしまった。彼の大きくて丸い眼鏡のフレームが、私の額にコツンと当たる。
「ちょっとくらい、可愛がらせてもらっても……」
「無理!!! 普通に無理生理的に無理地球滅んで世界変わって生まれ変わっても無理」
残りわずかな気力を全部使って、私は彼から逃れようとした。こういう切羽詰まった時は、思ってないこともとにかく適当に言い放ってしまった方が良い。
でも結局、無駄な抵抗をしたことが裏目に出た。
疲労と空腹が限界を超えて、私は完全に動けなくなってしまったのだ。見知らぬ男の腕の中で、少しずつ薄れる意識。もう恐怖という感情が発動しないくらいには、脳機能が低下してきていた。
「ったく、ひどい言われようだな。“ドゥアン”がお前を助けてやったっていうのに」
耳が微かな音を拾って、“ドゥアン”ってなんだろ、と疑問に思う。
でも答えを出す余裕もないままに、私の体はふわりと浮いて、どこか別の場所へと動かされていったのだった。
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Kummel(キュンメル)
キャラウェイの実をアルコールに浸けた、無色透明のハーブリキュール。キャラウェイは、カレーやザワークラフトのスパイスとして用いられる。
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