4. Angostura Bitters

 翌日が土曜日だったので、夜更かしをしてしまった。

 義母のことをつらつらと思い出していたら、無意識にアルバムに手を伸ばしていたのだ。



 4年前に生まれた、小さな小さな麦。私の背中とお腹を撫でてくれた優しい手で、愛娘を抱く夫。好々爺然こうこうやぜんとして初孫を抱く義父。照れたように、そっと包み込むように孫娘を抱く義母。クマがあって、感動のあまり泣き腫らした目で赤子を見つめて抱く私。それぞれがそれぞれの感情を抱いて、麦をこの世界に迎え入れた。


 あの時は、たくさんの人にお祝いしてもらったね。

 夫の親戚も、私の親戚も集まって。おぎゃあと泣く顔も、ふにゃふにゃと寝る顔も、きょとんとしてこちらを見る顔も、全てが可愛くて。何人もの人に抱っこしてもらって、麦もきっとそうだろうし、私もすごく幸せだった。実母の遺影に対してもちゃんと、麦の顔を見せた。「孫が生まれるまで頑張れば良かった」と後悔しているだろうな、と思いながら。


 そして、3人で家族として生きていくことになった。リビングで、寝てしまった麦と、親になって緊張気味な私達を撮った写真が入っていた。

 子どもが生まれた途端に、誰もがパパやママになれるわけじゃない。ホルモンバランスだけは自動的に変わるけれど、感情とか価値観とか、そういうものは自分で変えていく努力が必要になる。女性ばかり産後が大変だと言われて、確かにほぼ寝ていることしかできなかった産褥さんじょく期はとても辛かったけれど、体の変化が訪れない分、自発的に変化せざるを得ないという意味では、男性の方が大変なんじゃないかと今になれば思う。自分のお腹が膨らむわけでも、自分の命と天秤にかけるわけでも、自分が授乳できるわけでもない。もし私が夫の立場だった時、彼のようにすぐ何でもサポートできるようになれたかと問われれば、即答はできない。

 でも私達は必然的に親になった。そして麦がここを自分の居場所だと確信できるように、私達は麦とたくさん触れ合った。柔らかい頬に触れて、至近距離で見つめ合って、小さな指をそっと握った。イライラする時もあったけれど、麦の前では笑顔でいるように努めた。麦は私の指を掴んで、私の目を見て泣き止んだ。


 麦は順調に大きくなっていった。アルバムをめくる度に大きくなる身長。ハイハイから、つかまり立ち、1人立ち、そして歩行。

 急激に話せる言葉が増えて、活動範囲も広くなって、自己主張が目立ち始めた。

 麦はこのお人形が欲しい。麦はニンジンじゃなくてジャガイモが食べたい。麦はお片付けしたくない。

 意見を言えるようになったことに喜びを感じる一方で、ある程度のしつけも必要になった。

 お誕生日に買ってあげるから、今は買えないよ。ニンジンも食べなきゃダメだよ。お片付けしないと、お絵かきはできないよ。

 麦が泣くと、私が彼女をいじめているんじゃないかと思うことがあった。こんなに可愛い女の子を泣かせて、私はどこまで悪者なんだと思う時もあった。だけど心を鬼にして叱った。

 叱った後は、私の方が我慢ならなくて、すぐに麦を抱きしめた。「ママは麦が大好きだよ」とすぐに伝えなければ、この子は私から離れていってしまうんじゃないかと恐れた。夫には「心配しすぎだ」と言われたが、私にとってそのくらい、麦は大事な大事な存在だ。



 そして、その大事な存在が、熱を出した。


 夜中の2時くらいに床につき、朝8時に夫に叩き起こされた。


「起きてくれ。……麦の体が、すごく熱いんだ」


 飛び起きて体温を計ると、37度だった。高熱とも微熱とも言えない微妙な温度ではあるが、心配になった。肝心の麦は「うう」とだけ言い、切羽詰まっているわけではないが、少々苦しそうだった。

 すぐにでも病院へ駆け込みたい気分だったが、38度を超えているわけではない。また、この熱が数日続いているわけでもない。さらに今病院へ行って、逆に様々な病気のリスクを高める可能性もないわけではない。そのため、夫と話し合って、週末は様子を見ることにした。


 私は卵粥を急いで作り、缶詰のみかんと一緒に麦のいる寝室へ持っていった。すると、麦は結構な勢いで食べ始め、ものの10分程度で完食してしまった。「おなかすいてた」とのこと。やっぱり子どもは予測不能だ。夫と2人で思わずずっこけた。

 ただ熱が下がったわけではないので、夫と交代で様子を見ていた。ご飯を食べたりテレビを見たりしたが、どうしても麦の体調のことが頭から離れなかった。


 不安を抱えたまま日曜を迎え、夫と頷き合ってから、再び麦の体温を計った。

 36.3度まで下がっていた。心の底からほっとして、私達は安堵のため息をついた。

 原因はよく分からなかったが、大事に至らなくて本当に良かった。麦は「もうげんき!」なんてケロっとしているが。


「麦、良かった!」

「……ママ?」


 私は思わず、麦を抱き締めた。

 最近は抱き締めることも、手をつなぐことも控えていた。

 私が通勤の時に、どれだけのリスクを背負っているかが分からないから。

 でも思わず、抱き締めてしまった。


 麦が生まれてきてくれたことに、本当に感謝していて。

 あなたを心の底から愛して、共に生きていきたいと思った。

 だから触れ合わずにはいられない。こんな異常事態の世界であっても、ずっと触れ合っていたい。


 気づけば、夫が私達を抱き締めていた。きっと彼も、同じ気持ちなのだろう。


「パパとママと、ぎゅってしたの、ひさしぶり」

「麦ちゃん、嬉しいですか?」

「うん! じいじとばあばともぎゅってしたいなぁ」

「そうねぇ」


 肌と肌で触れ合うこと。それは、心を通わせて互いの愛を確認する、1番の近道だと思う。

 この世界にもう一度、生きた愛の溢れる時間を。

 そう願って、私は麦をより強く抱き締めた。




**********

Angostura Bitters(アンゴスチュラ・ビターズ)

ベネズエラのアンゴスチュラ町で開発された、みかんの樹皮を原料とした薬用酒。解熱効果がある。


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「触れ合いたい」

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