3. Dry Vermouth

 麦が寝てから、中途半端だったスキンケアを済ませて、夫のいるリビングへと向かった。夫はくるりとこちらを向いた。


「今日、寝るの時間かかった?」

「うん。なんで麦は友達とお話しながらお弁当食べるのを禁止されてるのに、浦島太郎は乙姫と楽しそうにご飯食べてるの? って聞かれちゃって。そのまま泣いて、泣き疲れて、さっき寝た」

「そうか……」

「きっと私達以上にストレス溜まってるよね」

「ああ。昨日も寝言で『ばあば』って言ってた。メンタル心配だな。でも迂闊に外出してやるのもな……」

「ばあばに会いたいのね……」

「最後に会ったのは、去年のお正月か」



 ばあばとは、義母のことである。

 実母は、結婚直後に旅立ってしまった。「あんたの結婚までは絶対に見届けるからね」と常々言っていたから、そこまでは意地で生きたのだろう。

 義両親にとって麦は初孫だった。だから本当に溺愛していて、「あぁ、目に入れても痛くないってこういうことなのか」と感心した記憶がある。

 義母は麦にこそ甘いものの、嫁の私にはかなり厳しい人だった。


「あら、卵焼きが甘すぎるようね」

「出汁から取らないの? 今の主婦は楽でいいわね」

「結婚しても仕事? あなた、女の幸せを履き違えてるわ。寿退社こそが、女の幸せよ。結婚してからも働くなんて、息子の給料じゃ足りないとでも言いたいわけ?」

「妊娠が分かったのに、いつまで働く気なの? 子どもは母親にしか育てられないのよ。保育士さんじゃダメなんだからね」


 こんなのはごく一部に過ぎないが、過去の固定観念に完全に凝り固まった人だった。いくら義父や夫が「それは言い過ぎだ」とたしなめても、「男には分からないのよ」と言って、聞く耳を持たなかった。男性陣はそう言われると、引き下がるしかなかった。

 夫は義父を反面教師にした結果、育児に協力的になったそうだ。「母親がああなっちゃったのは、父親にも責任があるからな」と言っていた。

 義母も義母なりに、大変だったのだろう。私の時とは比べものにならないくらいの、嫁いびりをされたのかもしれない。

 ただそれにしても、やっぱり、義母はいつも私に辛口だった。


 実母が恋しかった。結婚してからは特に、そう思う日が多くなった。

 実母とは喧嘩もした。大嫌いだと思った日もたくさんあった。なぜこの人が親なんだと思った時もあった。

 でも最終的に受け止め、包み込んでくれるのは彼女だった。女性の先輩として、分かってもらえる所があった。姑にグチグチ言われたエピソードなんて、義母に聞くにはハードルが高い。実母だったら、教えてくれたかもしれない。もし教えてもらっていたら、もっと心の準備ができていたかもしれない。元々泣き虫だった私には、何らかの免疫が必要だった。


 麦が生まれるまでは、義母には本当によく泣かされて。別に彼女に悪気があるわけではないんだろうけど。それを夫がずっと慰めてくれて。私の背中と、大きくなったお腹を撫でながら。あの優しい手は今、麦の柔らかな髪を撫でている。

 ついに出産して、間も無く義両親が病院にやってきたと知り、私は最後の力を振り絞って身構えようとした。ただ産褥さんじょく期の体には、それさえも本当にキツく、ともすれば意識が飛んでしまいそうで、色々なものを必死に堪えていた。

 義両親が部屋に入ってきた。保育器の中の麦を見てきたようだった。私と夫は、女の子が生まれたら名前は“麦”にしよう、とずっと前から決めていた。義両親が見えた瞬間、私は体を起こそうとした。


「あ、あの」

「いいのよ、そのままで。命かけて出産した後なんだから」


 今まで、義母が台所に行く度に私も席を立つように厳しく言ってきたのに、その日は声音が幾分違っていた。


「あのっ、来てくださって、ありがとうございます」


 きっと「あなたのためじゃないわ。赤ちゃんを見るために来たのよ」、そう言われると思っていた。でも義母の様子は、やっぱり違った。


「可愛い赤ちゃんを産んでくれて、ありがとうね」

「え……?」

「新たな命を誕生させるって、本当に大変なのよ。……私の妹は、姪っ子を産む時に大変だったの。母体を取るか、赤ちゃんを取るかって医師に言われたくらい」

「そう、だったんですか……」

「妹はね、ギリギリまで産休を取らずに、ずっと働いていたのよ。それで母体にも結構なストレスがかかっていて。何とか命拾いしたから良かったけど」


 私は、途端に恥ずかしくなった。

 そうか。義母が仕事に関してうるさかったのは、妹さんのことがあったからなのか。そんなことも知らずに、私は「義母が意地悪だ」って夫に泣きついて……。


「……あ、ごめんなさいね。おめでたい時にこんな暗い話、するべきじゃなかったわ」

「そうだよ。全くお前は……」

「あの!」


 最後の力を振り絞って、義母に伝えなければと思った。義父を遮ってでも、伝えなければ。


「ありがとうございます。本当に」


 トゲのある、辛口な言い方しかできない人だけど、何だかんだで気遣ってくれて。


「そ、そんな礼を言われるようなことはしてないわよ」


 ちょっと照れたように言う義母を見て、思わず笑ってしまった。

 酷いことも言われた。喉に刺さった魚の骨みたいに、まだ心につっかえている発言もある。

 だけどこの時を境に、義母は以前ほど辛口ではなくなった。言うなれば、ちょっとだけビターな関係。

 でも嫁としゅうとめなんて、そんなもんだろう。つかず離れず、ちょっとビターなくらいで良い。



 退院後、愛おしそうに麦を抱いた義母を思い出し、もう一度会いたいと、強く思った。




**********

Dry Vermouth(ドライ・ベルモット)

スイート・ベルモットより辛口。爽やかな苦味を持つ。

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