2. Sweet Vermouth

 夕食を食べて、「唐揚げおいしかったよ」と言ってくれた夫が食器とお弁当箱を洗う間に、私は入浴を済ませる。麦も「からあげおいしかったよ!」と言ってくれたので良かった。1番工夫した、ミニトマトとうずらのピックについては触れてくれなかったが。でも夫曰く、完食したと保育園の先生から報告があったそうなので、一安心だ。

 お風呂から上がると、麦はもう、眠気がマックスに達していた。パパと一緒にクイズ番組を見るも、こくん、こくんと体が揺れて、パパにもたれかかっている。パパはそんな愛娘の頭を、時々ぽんぽんと撫でていた。こういう親子の光景は、いつ見ても好きだ。


「食器洗いありがとう。麦寝かせるね」

「おう。よろしく」

「麦ちゃん、ママとお部屋行こう」

「うん……」


 麦は寝てしまえば、朝まで起きない。つまり夜は割とゆっくりできるのだ。

 私はお風呂あがりのスキンケアもそこそこに、麦の寝かしつけを優先した。寝室まで歩いている間に多少眠気が冷めてしまったらしく、「ねねちゃんとね、きょう、おそろいだねってね、おはなししたの」などと、簡単に今日のことを話してくれた。ポニーテールが生む、幼い友情は本当に愛らしい。

 このまま寝てくれるかと思ったが、そううまくは行かなかった。子どもはいつだって、予測不能だ。

 すっかり目が覚めてしまったのか、麦は、「お話読んで!」と、絵本を私に押し付けてきた。……まぁ、このくらいの長さならいいか。


 そして、さらに予測不能なことが起こった。

 普通に読んでいたつもりだったのに、麦がなぜか泣き出したのだ。

 浦島太郎のどこに泣く要素があるのか。

 亀をいじめるシーンは何事もなく進んだし、まだ玉手箱を開けておじいさんになるシーンにはたどり着いていない。というか、麦はこのお話で泣いたことなんてないのに。今は竜宮城で乙姫に接待されている、楽しいシーンなのだ。


「どうしたの?」

「なんで、なんでうらしまくんはいいの?」

「ごめん、どういうこと?」


 涙でグショグショの顔をした麦は、乙姫にお酌されて楽しそうな浦島太郎と、その周りで舞う女性、そして魚たちの絵を指差した。


「みんな、いっしょにごはん、たべてるぅぅぅぅっっっっっっ! むぎはね、おべんとのときね、ねねちゃんとしゃべっちゃ、ダメなんだよ? ミキせんせいもね、すっごいとおいとこでね、たべてるの」

「うん」

「なのに、なんで、うらしまくんは、いいの?」

「浦島くんがご飯食べてた時は、まだコロナがなかったから……」

「うああああああん! むぎがつらいのに、ずるい! じいじともばあばともあえてないのに、うらしまくんはキレイなおねえさんとごはんとか、ずるい!!」


 童話の世界に現実を持ち込むなと言っても、まだ4歳の女児にはどだい無理な話である。

 麦だけではないけれど、辛い思いをしているのは確かだった。頭では時代が違うと分かっていても、浦島太郎がずるくてたまらないと泣き出すくらいには、麦もストレスが溜まっているのだ。

 私も夫も、職場での昼食時は会話が禁じられていて、いわゆる“ぼっち飯”の状況が不可避になっていた。社交的な夫は、学生時代の友人と飲みに行けないことを、寂しがっていた。私もママ友のご飯会がなくなり、娘のお友達についての情報が得づらくなっていた。

 ただ私たちは、バブル崩壊とかあったけれど、平穏な青春を過ごせていた。既に自分の家族もできていて、だからこそ、この異常な世界が1年以上続いても、何とか耐えていられるのだと思う。

 その一方で、麦のような若い世代は、貴重な青春の時間を奪われ続けているのだ。社会生活を学ぶ場にいても“個”でいることを強制され、もしかしたら一生続くような友達を見つけられるかもしれない時期なのに、思うような接触ができない。さらに言えば、彼女達は最悪、クラスメイトの顔を知らないまま学校生活を送ることになるのかもしれない。目元しか分からない相手に、分散登校で毎日直接会えるわけでもない相手に、人はどこまで自分を晒け出せるのだろう。そうした世代が、従来のように友情や愛を育んでいくことは、できるのだろうか。

 ただ、コロナのせいでテレワークや電子化が一気に進んだことを考えれば、この世界は私達を試しているのかもしれない、と捉えることもできる。私達が素顔を晒さず、生の声や表情、肌に触れないままで、どこまで親密になれるのかを。

 でもそれは、あまりに酷な試練ではないだろうか。


 泣き疲れていつの間にか寝てしまった麦の体に、そっとお布団をかける。

 彼女がこれから生きていく世界は、私達が生きてきたそれより、きっと何倍も厳しい。でも彼女は、自分の足で歩んでいかなければならない。



 こんなんじゃ、気休めにしかならないけれど。

 明日のおやつには、麦の好きなキャラメルをあげようか。


 先の見えない、辛く厳しいこの世界に、ささやかな安らぎを与えてくれる、甘い一粒を。




**********

Sweet Vermouth(スイート・ベルモット)

白ワインをベースに、香草やハーブを配合して作られた甘口のリキュール。食前酒としてたしなまれ、多くはカラメルで着色されている。

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