手には愛の亡骸だけ

末野みのり

プロローグ/エピローグ

 くすくす、くすくす、とどこからか嘲る声がした。

 それが自身に向かっていると分かっていてもなお、彼には何を笑っているのか、と問う声も出ない。


――…うそつき!


 ただ、そう叫んだ子どもの声が、ぐるぐると頭の中を巡っていた。




◆◇◆テュールとフェンリル


 その神の名をテュールと言った。第一の神格に『勝利』の二文字を掲げた彼は、正しくいつでも勝利する神であった。


「だからって、これはないよね!?」

「躾は大事だぞ、ロキ」


 喚くようにして叫んだ同胞に対して、テュールは淡々と返した。彼は大抵の場合において表情も声色も変わらぬ男であった。

 対してテュールの同胞、『狡知』の神ロキ、彼もまた大抵の状況においては表情の変わらぬ神であった。常時仏頂面のテュールに対して、薄ら笑いが主な表情である、という違いこそあれど。

 その彼が珍しく癇癪を起こしたのには勿論理由があってのことである。

 『理由』はロキの足元で丸くなってぷるぷると震えていた。


「それで、その犬はどこから拾って来たんだ」

「息子! あと狼!」


 造形だけならば怜悧な顔に、似合わぬ仕草で首を傾げたテュールに、ロキは畳みかけるように喚いた。

 ロキにしがみつくようにして震える子犬、もとい仔オオカミの名を、フェンリルと言った。

 後に起こる終末戦争の一端を担うと予言されたロキの子は、この時はまだ驚きから噛みついてしまったテュールに、拳骨を落とされて泣いている子どもに過ぎなかった。


「ああ、それがフェンリルか」

「………だったら?」


 答えるロキの声の温度が下がる。彼の息子であるフェンリルは、テュールの敵になることを明確に予言されている。

 この時点でテュールがフェンリルを害するのは容易かったし、そんな予言をされたなら、敵意を持つのが当然ともいえた。

 の、だが。


「ならば、今から鍛えないといけないな」

「………」


 ロキは思わず押し黙った。

 テュールは珍しく、微笑など浮かべて楽しそうである。顔だけ見ると理知的な青年に見えるからいけない。彼は神々の中でも随一の脳筋である。


「…何で!?」

「軟弱者に斃されたとあっては軍神の名が廃る」

「何なんだ君のその訳のわからない自尊心は」


 それが自分の命より優先させることか、と続けて問えばテュールはそうだな、と何でもないことの様に頷いた。

 ロキは狡知と聡明を併せ持った神であったから、彼のこういう性格は知っていた。だが、理解はできても共感も納得も出来ない価値観は、ロキの秀麗な顔に険しい表情を刻んだ。


「私がフェンリルの訓練をしてもいいか」

「君のその脳筋どうにかなんないの?」

「……どうかな、なると思うか」

「ただの嫌味だよ馬鹿」


 溜息混じりに言ったロキの言葉に、テュールはそうか、と淡々と頷いただけだった。

 結局、ロキはテュールの提案を喧々囂々の末、受け入れることになる。

 いずれ後悔することになるだろうな、と確信しながらも、怯えながも次第にテュールに懐いていくフェンリルを止めることは出来なかったのだった。




◆◇◆トールとヨルムンガルド


 ところで、テュールには弟がいる。

 正確に言えば、その関係は兄弟ではなく複雑なものであったが、弟がテュールを兄と呼び、テュールがそれを否定しないので、周囲からは兄弟と簡潔に言い表されている。

 その弟の名をトールと言った。武力においては最高神オーディンをも凌ぐと言われる、剛腕の雷神である。

 外見はテュールより少し年少の、少年めいた笑顔の青年なのだが、ロキはトールがあの軍神に並ぶ脳筋であるのをよく知っている。彼はロキの悪友でもあった。


「なんつーか、兄貴らしいというか」


 テュールとフェンリルの馴れ初めについて聞いた彼の感想がこれである。

 大抵の者は彼の笑顔を、気持ちのいい爽やかな笑顔、と捉えていたが、ロキはこの時ばかりは渋い顔をした。


「君も人のこと言えないからね」

「俺は殴らなかっただろー」

「そういう問題じゃない。ヨム、離れなさい。おとーさんそんな男許しませんよ」

「落ち着けよ」


 据わった目で告げた悪友に、トールは苦笑いをした。

 ヨム、とはロキの第二子の愛称である。その小さな体はトールの頭の上にあった。

 小さな蛇の姿を持つ彼の名をヨルムンガルド、いずれトールと対峙すると予言された毒蛇である。

 父の声に反応して、ヨルムンガルドは顔を上げると、その小さな瞳をぱちくりと瞬かせた。そして窺うようにトールの目前に身をくねらせる。


「うちの子を手篭めにすんのやめてくれない!?」

「だから落ち着けよ。ヨム、とーちゃんのとこ戻るか」


 ヨルムンガルドの小さな頭を撫でると、トールはその小さな蛇の体をひょいと持ちあげて、ロキの肩へと移す。

 蛇の顔では表情が分かりにくいが、ヨルムンガルドは微笑んだようだった。


「じゃあ真面目に言うけどね、トール。終末戦争の、ラグナロクのことを考えて行動してくれないか」

「…いやそれ、俺より兄貴に言えよ」


 ロキが予言のことを指して忠告しているのは歴然だった。敵対を予言されている者同士、仲を深めては傷が広がるばかりだ、と。

 その意図が分かっていたから、トールはテュールの名を出した。テュールとフェンリルの仲は師弟を越えて、テュールが「フェンリルを養子にくれ」などと言いだす始末である。勿論ロキは却下した。


「テュールが聞き入れると?」

「無理だろうけど」


 問い返された言葉に、トールはさらりと答えた。こういう所は、同じ脳筋族でもテュールとトールでは天と地ほどの差がある。

 但しトールの場合、常識的な判断というものを分かった上で、常識外の言動をとることも少なくないので、場合によっては一層性質が悪いとも言えた。


「だから君に言ってるんだろ。…せめてヨムには辛い思いをして欲しくない」

「それが辛いかどうかはヨムが決めることだろ。俺は予言に読まれてるからって、自分の信念に反したことをしたくない」

「君はほんと救えない脳筋だなあ」

「んなのずっと前から分かってるだろー」


 トールは笑って言った。




◆◇◆スリュムの歌


 トールが、武力においてオーディンをも凌ぐ、というのには理由がある。

 それは勿論彼自身の豪勇からでもあったし、稲妻を司る能力からでもあったが、それに加えるならもう一つ、彼の武器の存在があった。

 剛腕のトールをしても、特別な鉄の手袋を嵌めていなければ扱うことの難しい武器、その名前をミョルニル、その形は柄の短い魔法の鎚である。

 それを、である。


「すまん、間違って投げ飛ばした」

「はい!?」


 テュールの言葉に、トールは聞き返すことしか出来なかった。

 その大声に、トールの頭の上に乗ったヨルムンガルドが目を瞬かせた。以前より大きくなった彼の体は、半分以上トールの赤毛の合間から飛び出ている。

 当初ロキは、次男が悪友の頭を昼寝場所にするのを止めさせようとしていたのだが、ヨルムンガルドがあまりに居心地がよさそうにするので諦めた。付け加えるならば、トールへの遠慮から止めようとしていたわけではない。


「フェンリルと遊んでいた時に骨と間違ってな」

「…うわあ兄貴…うわあ……」


 そのフェンリルはテュールの足元でうなだれている。こちらも以前よりは大きくなって、犬と見違える要素は半分に減ったと言っていい。

 すっかりテュールを兄貴分と認めて懐くフェンリルは、その弟であるトールのことは同位の友人だと思っているようだった。友達の『だいじなもの』を失くしたと思って反省している。

 実際間違って投げ飛ばしたのはテュールなのだが。


「すまん」

「すまんで済まそうとしてる神経がすごいよね」


 薄ら笑いでロキは言った。その彼は末娘を膝に寝かせている。彼女の名前をヘルと言った。ロキの子の中で唯一人身である彼女の髪は、父譲りの金。

 彼女もまたいずれ来る終末戦争において悪い予言を受けた身である。だが、今は父の膝で静かに眠る、ただの少女であった。


「いやお前ものんびりしてる場合かよ」

「のんびりしてる場合だよ。大体ミョルニルがトール以外に使いこなせる訳ないだろ」

「そりゃそうだけど」


 はあ、とトールは溜息をついた。彼の手には鉄帯のついたミョルニルの為に作られた手袋がある。これがなくては、彼であっても自在に扱うのは難しいのである。

 そういう理由があったから、テュールがミョルニルを暴投したこと自体を責めたりなどはしなかったのだ。間違って、という部分はどうかと思っているにせよ。


「…それで、どこにふっ飛ばしたかは見当ついてのか?」

「ヘイムダルに聞いたんだが」


 言葉より行動の早いテュールらしく、調べはついているようだった。探すということにおいてはアースガルド随一とも言える門番、ヘイムダルに尋ねたのは、彼らしい判断と言えた。

 それにも関わらず、回収していないということにトールは違和感を覚える。そして違和感は、嫌な予感へ。


「巨人の国へと落ちたようだと」


 テュールは真顔で言った。

 ぶふっと音を立ててロキは吹き出した。トールは咄嗟に反応出来ないでいる。

 巨人の国、と言うなら常人では視認出来ない距離である。いくら神と言えど、通常であれば物を投げ飛ばして届く距離ではない。

 それが、撃鎚ミョルニルと軍神テュールの組み合わせでもって可能になってしまったとは、巨人が敵でなければ感心していたぐらいである。


「――…どんだけ本気で投げたんだよ」

「すまん」


 呆れていいのか感心していいのか分らず、トールは顔を覆ってそう呟いた。

 テュールは相変わらず大真面目な顔で、そう謝罪した。



 当然、ミョルニル紛失は波乱をもたらした。

 それを拾った巨人スリュムが所有権を主張したのである。返してほしければ、美姫フレイヤを差し出せ、と。


「なあロキ」

「君、なんでも僕に頼るの止めてくれない?そもそもテュールの所為なんだから、あいつに任せ…たら終末戦争しか見えないな」

「昨日マジであの人、剣研いでたから勘弁してくれ」


 はあ、と溜息をついたのは、ロキの言葉やテュールの行動の所為だけではない。

 流石に報告しないとまずいか、とオーディンに窺いを立てたトールに、隻眼の最高神は任せる、と言った。そして、散々にテュールをけし掛けたのである。

 トールはげんなりした。オーディンはその冷徹な仮面の裏でテュールをからかって遊んでいるのである。テュールはひどくこの最高神を嫌っているから、その効果は覿面だった。そのまま飛び出していきそうな彼を、トールが引きずるようにして説得したぐらいである。

 万人に対して大方同じ態度のテュールが、オーディンを嫌っているのが不思議で、トールは一度ロキに尋ねたことがある。

 ロキに言わせれば二人は『説明するのも面倒くさい拗れた複雑な関係』で、オーディンのテュールに対する態度は『回りくどい気持ち悪い愛情表現』らしい。理解不能なのでトールは考えるのを止めた。


「戦神トールとも思えぬ台詞だなぁ」

「農耕神の神格も持ってるんだけどな」

「ああそうだっけ。君があんまりにも脳筋だったから忘れてたよ」

「お前、俺を茶化す為だけに忘れたふりするのやめろ」


 『稲妻』であり、『稲の妻』であるところのトールの神格は争乱と平和を併せ持つもので、その神格はそのまま彼の性格を表しているようでもあった。

 例えミョルニルが相手方にあるとは言え、彼の能力を考えるなら無理やり強奪することも不可能ではない、とロキは思っていたが、トールはそもそも端からその考えがないようだった。

 お優しいことで、とロキは肩を竦めた。

 そうして、悪友特有のどうでもいい会話を挟めながら解決法を議論した末、結局


「君が女装してフレイヤに化けていけばいいんじゃないの」というロキの提案が採られることとなった。


 トールは十回ほど「何でだよ!」と叫んでいたが、何分彼はロキからすれば甘ったるいほど優しい神であったので、最も波風立てずに解決出来るであろうそれを、受け入れざるを得ないのだった。



 結果として作戦は成功だった。

 トールの手にミョルニルは戻ったし、被害も考えうる限りの最低限で収まったのだが、トールは沈んだ顔だった。同行したロキは帰りの道中ずっと含み笑いをしていた。


「どうしてこうなった」


 小屋に入った瞬間、トールはぼそりと呟いた。ロキはたまらず吹き出した。ロキはいつもの薄ら笑いの美青年の姿であったが、トールは女装姿のままである。

 トールの所有するこの小屋には出発前に彼の衣服を置いて来ている。トールは乱雑な手つきでごてごてと付けられた装飾品を外していく。


「どうしてこうなった……」

「結婚すればよかったんじゃないの?一番丸く収まったと思うよ」

「他人事だと思ってふざけんな」


 にやにやと笑ったロキに、トールは射殺さんばかりの眼光を向けて呻いた。

 だが、まだ化粧の残った顔では迫力は半減であった。それも、相手が百戦錬磨の狡知の神である。ロキに露ほどの痛痒も感じさせていないのは歴然としていた。

 作戦は成功だった。だが想定外も起こった。

 トールがスリュムに求婚されたのである。それも、トールが女装して偽った『フレイヤ』としてではなく、彼本人として。スリュムは最後まで『彼女』だと思っていたようだが。

 得意の変身術で侍女に化けて側に仕えていたロキは、笑いを堪えるのに必死だった。


「『トール神は厳めしい男神と聞いていたが、まさかこのような美麗なおなごとは…是非改めて求婚させて欲しい!』…だっけ?」

「一字一句覚えてる癖して聞くなクソッ!」


 スリュムは本気で求婚していた。嘘については並ぶ者のいないロキはそう断じた。

 だがトールが『美麗なおなご』に化けられていたかというと、そうではない。どう見てもふざけて笑いを取るための、仮装のレベルなのである。笑いこそとれても、美しさからの感嘆など取れるわけもない、はずだった。

 そうして完全に『女装した男』でしかないトールが、髭面の巨人スリュムに求婚される様は喜劇にしか見えず、全ての種を知っているロキは笑いを堪えるのに苦心した、と言う訳である。


「いやぁ、君わりかし今回は線の細い方だし、行けてるんじゃないかな、ふっくく」

「『今回は』とか意味わからんし、その笑い方やめろ!」


 苛々と顔に描いたかの様な表情のトールは、はた、と不意に衣服を剥ぐ動きを止めた。


「…ロキ」

「うん?」


 トールは、口紅を拭って、静かに問いかけた。

 悪友の態度に、ロキはようやく気付いたか、と納得した。そもそも最初の時点で気付くべきだったのに、この甘ちゃんは、と心中で笑う。別にトールを見下している訳ではない。ただその愚直さが愉快なだけだ。


「お前は変化の術で本当に女になってたわけだろ」

「そうだね」


 ロキは表情を緩ませた。対してトールは渋い顔である。


「ってことは俺が女装する必要なかっただろ…?」

「…トール」


 悪友の名を呼んで、ロキはそれはそれは麗しい笑みを浮かべた。

 トールは嫌な予感がした。こういう笑いをしたロキが碌なことを言った試しがない。更に言うなら、そもそも彼は自分の子どもの事以外でまともなことを言う方が珍しい。


「君はほんと救えない脳筋だなあ!」

「うわあああお前ほんとむかつく!!今!!それ言うな!!」


 ばしん、と音を立てて、トールはかつらとネックレスをまとめて床に叩きつけた。




 そんな幾つかの騒動は、日常の延長で起きて、それでも彼らは上手く行っていたのだ。

 そう、上手く行っていた、はずなのだ。

 フェンリルが、人の背を越えた大狼となるまでは。


――…そしてあの、神々を揺るがす『死』が訪れるまでは。




◆◇◆貪り食うものグレイプニル


 その日、フェンリルはまとわりつく鎖と遊んでいた。

 彼はそれを、普段彼を恐れて近寄らない大人たちから初めてもらった、『おもちゃ』だと思っている。

 それを見て眉をひそめたのは、テュールだった。


「……ロキ」

「まあ、そろそろ来るだろうと思っていたけれどね。君が怒るほどの事じゃないだろ」

(とーさん、テュール!どうした?プレゼント、おれ嬉しいぞ!)


 狼の口から言葉を発することは出来なかったが、フェンリルは最近になって意思を伝える術を覚えた。体躯に比べると随分と幼稚なそれだったが、肉体言語しかなかった頃に比べれば、コミュニケーションは格段に容易くなった。

 そのフェンリルの全身は、背丈で言うならテュールとほぼ同じ。その大きさは大人の頭を一かじりに出来るほど。実際それは容易いに違いなく、大木をなぎ倒し、かじり、引きちぎることが出来ると、フェンリル自身が自慢するぐらいである。

 そうして恐怖の対象となった彼を封じ込めようとする動きがあることは、当の本人であるフェンリル以外は知るところであった。

 彼に恐怖を抱くのは普通の神経ならば普通のことで、父親であるロキはともかくとしても、テュールやトールが平然としているのが異常なのである。


「オーディンか」

「あいつが先導した訳じゃないよ。拒否もしなかったけど」

「………」


 即答即決のテュールにしては珍しく、思考に沈んだようだ。だからと言ってオーディンに対して彼が結論を出せるとはロキは思っていない。何しろ『説明するのも面倒くさい拗れた複雑な関係』なのだ。


「秩序と理性に同情を期待する方が間違いだよ、テュール。施政者としては正しい」

「お前があいつを認めるな」

「認めてるだけ。許してないよ」


 にこり、とロキは笑った。テュールは怒りの収め所を見つけたのか、そうか、と小さく呟いた。

 テュールが納得していたようなので、ロキはやれやれと肩をすくめた。 

 …のだが、そもそもテュールが納得していたというのはロキの勘違いであった。フェンリルが二本目の鎖を噛み砕いて遊んでいるのを見るや否や、テュールはオーディンにの住むヴァルハラの宮殿へ殴り込みに行った。

 それを収めたのはトールである。

 曰く、「あんたら落ち着けよ!」という怒声と武力行使で。

 後に事の顛末を語る際、二人まとめてぶん殴っておいた、と平然と言うトールに、ロキはこの脳筋め、と乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。



 それから、幾日も経たなかった。

 バルドルが死んだ。

 オーディンの子バルドル、最も神々に愛された神。その神が死んだのである。明らかに誰かに殺されて。

 ロキが首謀だ、と言う噂は瞬く間に広がり、そして共通の認識は、作られた事実となった。

 彼は否定もせず、逃亡した。予言の通りだ、とそう皆が囁く。

 そして、これ以上の被害を出さぬよう、彼の子を幽閉すべきだ、と言う声が上がるのは、それから間もなくのことだった。


「ふざけるな!子どもを閉じ込めるのが、お前の『秩序』か!」


 ヴァルハラの宮殿に、テュールの声が響き渡ったかと思うと、紫眼をやや赤に染めて激した彼は、オーディンの胸倉を掴み上げた。

 いくら嫌っていても、最高神に対してこのような暴挙に出ることはなかった彼が、である。


「…片側の秤に、自由と謀殺をかけているのがわからないか」

「………」


 ほんの小さな声で囁いたオーディンに、さしものテュールも息をつめた。

 フェンリルが生まれたと知るや否や、『例え予言で災厄をもたらすと告げられている者とはいえど、害するのは許さぬ』と即座に宣言したのはオーディンであった。

 しかしいくら最高神が禁じたとしても、臆病は恐怖をもたらし、無謀を呼び、禁忌を侵す。

 フェンリルのことを信じていられるのは、ロキやテュールを始めとした周囲の者たちだけなのだ。そして、彼らがフェンリルを守るにも、限界がある。


「どうしてお前は……っ」

「軍神テュール、手を退けろ。――…お前の正義が痛むと言うなら、目を瞑り耳を塞げ」

「それで優しくしたつもりか」


 舌打ちと共に、テュールはオーディンの胸倉から手を離した。

 テュールはオーディンのことを冷徹だとか、そう思ったことはない。それでも、この感情を無視するのが得意な男は、彼の神経を逆撫でする。


「お前の流儀に沿わないのはよく知っている。だが、」

「ならば言うな」


 言い募ろうとしたオーディンの言葉をさえぎって、テュールはきっぱりと断じた。オーディンは小さく苦笑した。


「…フェンリルを捕縛すると言うなら、私が行く」

 

それが、提案を受ける条件だとでもいうように、テュールは視線を真っ直ぐにして言い放った。


「――…だからお前は度し難い」


 その視線を受けたオーディンは、哀れむように言って、テュールの申し出を受け入れた。



 そもそもテュールは自分が周囲にさほど好かれていないことを知っていたので、遠巻きに見守る神々にも何も言うことはなかった。

 彼の第一の神格『勝利』の別名を『破壊』と言った。あるいは『破滅』と。

 だから、オーディンの『秩序』を平穏として受け入れた彼らに、自分が受け入れられるはずもないと思っていたし、それでいいと思っていたのだ。

 彼は『破壊神』と影で呼ばれる呼び名にも頓着していなかった。


(テュールおかえり!とーさんは?)

「…ロキは」


 ロキはバルドルの死以来、姿を消している。その父を恋しがって泣く姿を知っているから、テュールの声は重い。その声で、フェンリルは察したようだった。


(だいじょうぶ!おれ、いい子で待つよ!なあテュール、今日はともだちいっぱいだな!何してあそぶんだ?)

「フェンリル、今日は…――力比べだ」


 テュールは、彼らしくもなく息を詰めた。

 それが、彼が初めてついた、そして生涯ただ一度の嘘だったが故にである。


(どこかいたいのか?テュール)

「お前は優しい子だな」


 テュールはひそやかに微笑んで、フェンリルの頭を撫でた。

 魔術の込められた銀糸、地を覗き込むような大穴、恐れから悪を必要悪と許す者たち。

 フェンリルを縛りつけるそれらを、全て振り切って逃げられたなら。そう思ってテュールは自身の右腕を見る。この『勝利』の右腕があれば、全くの不可能ではない。

 だが、果たしてそれがフェンリルの幸せとなるのか、そう考える。


(力比べ?) 

「…そう、この穴の中から、岩を引っ張り出すんだ」


 嘘と言うのは意外と簡単につけるものなのだな、とテュールは自分でも驚くほど冷静に思っていた。

 手も、自然と動いた。まるで運命に操られるように。


(…なんかこれ、やだ、やだよテュール)

「フェンリル、大丈夫だ」


 銀糸を見るや、フェンリルの表情が曇った。彼自身は魔術を使うことはなかったが、天賦の魔術師ロキの子である。魔術の掛けられた銀糸に、感じるところがあったのだろう。


(おれこれやだ!いやだ!)

「大丈夫、だから」


 宥めるテュールはフェンリルの頭を撫でる。


「…そうだな、岩を引っ張りだすことが出来たら、いいものをやろう」

(いいもの?)

「そう。口を開けて」


 フェンリルは純粋で、人を疑うことを知らなかった。だから簡単に、テュールの言葉のまま、口を開いた。

 大きな、大きな口である。


(これなに?)

「……後のお楽しみだ」


 静かに言ったテュールの手の中には、何もない。もう、何も。彼にはフェンリルに与えられるものはなかった。

 そうして、銀糸グレイプニル、その束縛が、フェンリルの首へ掛けられ…――


 身の毛もよだつ、大狼の咆哮が響いた。


「―――…っ!!!」


 悲鳴は、上げない。悲鳴を上げる資格などないと、テュールは思っていた。災厄を封じたと歓声を上げる神々の声は遠くに。

 地に膝をつける。ぽたり、ぽたり、と血が彼の外套に滴り落ちた。

 引きちぎられた軍神の右腕は、すでに狼の腹の中。


(うそつき!)


 締めつけられて苦しそうに呻いたフェンリルの顔を、彼は見ることが出来なかった。

 そのフェンリルは、グレイプニルに締めつけれ、ずるずると大穴に引きずられている。彼の力をもってしても、魔法の束縛からは逃れられなかった。


(うそつき、大丈夫って言ったのに!)


 そう意思を伝える合間にも、咆哮を上げる。大穴に誘う力に抗えば抗うほど、フェンリルを締めつける力は強くなっていた。


(テュールのうそつき!!)

「…フェンリル、」


 泣き声にも似た怒声に、宥める声は掠れて、フェンリルには、届かない。

 届かなかった、のだ。


(うそつき!!)


 尚も噛みつかんと暴れるフェンリルの目前で、金の雷が走った。

 その主を、フェンリルは良く知っている。『ともだち』だと思っていた彼の。


「――下がれ」


 そんな冷たい声を、フェンリルは初めて聴いた。

 そして最後だった。

 フェンリルの体は、まとわりついた銀糸に引きずられ、大穴に落ちていった。

 深く、深く。暗く、暗く。



 くすくす、くすくす、と嘲る声がした。

 トールはそれに取り合わない。通常のテュールならば、それが自分に向かっていると知っていても、毅然としているのを知っていたからだ。


――…破壊神が、飼い犬に手を噛まれたぞ!


 そう笑う声は酷く醜い。

 だが、弱さの怠慢が罪なのか、強さの傲慢が罪なのか、トールにはわからない。

 地に膝をついたテュールを見ないようにして、全ての中間にあろうとする性質の友人に声を掛けた。


「フォルセティ。テュールの治療を頼む」

「…はい。トールは…?」

「俺は、ロキを追うよ」


 呟くように言ったトールは、雷の残滓を残してその場から去った。

 まるで小さな悪意の集積から、逃げるように。



 目を覚ましたテュールが最初に見たのは、険しい表情をしたフォルセティの顔だった。


「…貴方に一つ宣告が」

「聞こう」


 失血の影響で、テュールの声には普段ほどの覇気はない。それを苦々しい表情で見つめながら、フォルセティはそれでも己に課せられた責務を果たそうとする。


「貴方は、情に流され、神としての正しき裁定を失った。…軍神テュール、あなたの『裁定』の神格は私が預かります」

「…そうか」


 普段の温厚な彼からは想像出来ない厳しさで言ったフォルセティに、テュールが返したのは、静かな頷きのみだった。

 揺らぐことなどなかった軍神の消沈した姿など見ていられない、とでも言うように、フォルセティはふい、と顔を逸らす。


「…何故あれに情を移したのです。いずれ苦しむのは貴方だと分かっていたでしょうに」

「――…親を探して泣く子の手を、振り払うことが出来るのか」


 苦々しく呟いたフォルセティに、テュールは問いに近い語調で、だか確実に否定の断定の意味を含めた言葉で返した。


「その良心に見合う代償でしたか」


 失われた右腕のことを指摘すれば、テュールは怪我による疲弊した顔に、うっすらと微笑みを乗せた。


「恐れから幼子すら殺そうとする愚かな弱さから、あの子を守った代償としては…――安い」

「……テュール。貴方はいつでも正しい。けれど、誰もが貴方のような正しさを貫けるわけではない」

「お前は優しいよ、フォルセティ。いっそ私の正しさは悪だと、そう言えばいいものを」


 普段声を出して笑うことのない軍神が喉を鳴らして言えば、フォルセティはダンッとテーブルに拳を振り下ろした。

 この温厚な法の神においては、珍しいことである。


「だからあなたはどうしてそう!」

「お前には私を裁く権利がある。裁定神なのだから」

「私にッ!…、っ僕に、貴方を裁かせないでください、テュール」


 子どものように泣きそうな声で言ったフォルセティの頭を、テュールはぎこちなく左手で撫でた。


「…お前はやさしいよ、フォルセティ」


 フェンリルにしたように、テュールは言った。



 荒野を行くロキは、一つの気配に気がついて、振りかえった。そこには誰の姿もない。

 だが、一瞬の後。

 稲妻とともに、よく見知った悪友の姿を見る。


「――…やっぱり君が来たか、トール」

「兄貴じゃなくて良かっただろ?」


 トールは彼にしては苦々しく、だが日常の延長と言っていい笑顔でそう言った。

 罪人と追跡者の関係とは思えぬ、悪友の表情である。


「で、どうする?ここで僕を殺しておく?」

「人を試そうとするのやめろよ」

「君があんまりにもチョロいから、つい」

「ついって何だよ」


 悪友、の会話であった。だが、それが虚しいものだと互いに分かっていた。

 沈黙が流れる。

 いつまでもくだらない会話を続けてはいられない。

 ロキは仕方がないな、と微笑んだ。結局の所、肝心な所で彼は悪友に甘い。


「……君は、どうするの」

「俺は、」


 トールが言い淀んだその時。

 二人の狭間で、大地が割れた。砂煙が舞う。

 ロキもトールも、それが誰の能力なのか良く知っている。稲妻がトールなら、炎はロキ、風はオーディン。そして大地は。

 だが、彼がここに来ることを二人ともが予測していなかった。 


「…テュール……」


 蒼白な顔で、ロキの目前に立ったのは軍神テュール。その気配に、いつもの覇気はない。


「ロキ」


 そう名を呼ばれたロキの目が見開く。

 彼の視線は、真っ直ぐ軍神の失われた右腕へ。


「ないて、いるんだ」


 熱に浮かされたようなたどたどしい言葉は、常の彼にはないものだった。

 そして、揺れ動く視線も。


「おまえのこども、が」


「さびしい、とないているんだ」


「……たすけて、となくんだ」


 ふらり、と倒れるテュールの体を抱きとめる風があった。そしてそれは手の形を取り、人の形を取った。

 黒髪に黒衣の神、最高神オーディンである。


「…主要三神揃い踏みとはね。……どういうつもり、なんて聞くまでもないか」

「度し難い愚か者を引き取りに来ただけだ」

「――…偏屈なんだよ、お前の愛情表現は」


 ロキはオーディンを嗤った。それこそ、狡知の、欺瞞の神らしい笑い方で。


「お前ほど幼き傲慢に浸れないのでな」

「君ほど老いの諦めに徹するつもりもないんでね」


 嘲笑したロキに、オーディンは微かに眉をひそめただけだった。


「…トール、ロキの処遇はお前に任せる」


 見逃すのも捕えるのも殺すのも。

 言外にそこまで告げて、オーディンはその身を大鴉に変えると、テュールを抱えて飛び去った。


「………俺はさぁ」


 その背を見送りながら、トールはぽつりと呟いた。

 子どもたちが失敗を白状する時の声に似ている、とロキは心中で呟く。


「兄貴みたいには、出来ないんだよ。父親を探して泣く子どもを、殺してしまえと言うような世界なら…滅んでしまえ、なんて」

「そんな極端なのはあいつだけだよ」


 かつてテュールがオーディンに対して言い放った台詞を、トールは一字一句間違えずに記憶していた。


「どっちも出来ないんだ、俺には。兄貴に同意するのも、拒否するのも。…捨て切れないんだよ」

「…甘ちゃん」


 ロキは、トールの言葉が優しさからだと知っている。

 テュールと違って、トールは、悪と知っていても切り捨てられない。その優しさであって甘いところを、ロキは誰よりもよく知っていた。


「だから、さ、お前がどんなに悪いって聞いても。…死んで、は、欲しくないんだ」


 声が、震えていた。

 こんなことでわざわざ泣く必要はないのに。ロキの心中などトールが気付けるわけもなかった。


「ほんとに君は、救えないなぁ」

「そんなの、ずっと前から知ってただろ」


 いつだかと同じ答えを返したトールの表情は、泣き笑いだった。

 仕方ないな、とロキは笑った。

 その表情は、彼が子に向けるものと、よく似ていた。




◆◇◆害なす魔の杖レーヴァテイン


 そうして時は過ぎ。

 父の膝で微睡んでいた少女は、死の女王となり。

 優しい戦神の頭上で微笑んでいた蛇の子は、世界を囲む毒蛇となり。

 そして不敗の軍神と無邪気遊んでいた仔狼は、神すら喰らう大狼となって。


――…予言の通り、終末戦争は始まった。



 戦神の戦装束は深紅に染まっていた。


「…今じゃ信じてもらえないかもしれないけど」


 絞り出すように言ったトールは、体をよろめかせて、膝をついた。その足元も深紅。


「俺は結構お前のこと好きだったんだぜ、ヨム」

(ああ、そうだね。…そうだね、トール)


 へらり、と笑ったトールに答えたのは大蛇。

 小さく互いを呼んだのが最後だった。戦神と大蛇は、共に地に伏した。

 蛇の顔では表情が分かりにくいが、ヨルムンガルドは微笑んだようだった。



 じゃらじゃら、と地に当たって音を立てる銀鎖がうるさかった。

 阻む者は全て食いちぎり、なぎ倒した。そんなことをしてはいけない、と言った父はすでに亡く、教えた師は、彼にとって憎むべき仇敵だった。

 口の中が血なまぐさく、フェンリルはその険しい眦を一層きつくした。以前の彼の愛嬌のある犬のような表情はすでに無い。


(――…テュール!)


 目指すのは、幼い頃と同じく赤髪の軍神の元。

 テュールとの最後は、フェンリルにとって手酷い裏切りであった。大穴の中で浴びせられる罵声を受けて、フェンリルは自分が災厄となりうる存在だと知った。そして自分を排除する為に、テュールがあの最悪の『嘘』をついたのだと。

 愛されていると錯覚していたのだ、とフェンリルは呻く。だから騙された。


(…ああ)


 そんな裏切りの復讐には、右腕だけでは、到底足りない、と。


(みつけた)

「……フェンリル……」


 見開かれた紫眼は、フェンリルの良く知るもの。

 右腕には、銀に輝く義手が嵌められていた。剣は左手に。


(あれをおれが!)


 地を蹴る。砂嵐が舞い上がる。すでにフェンリルの大きさはテュールを遥かに越えている。この人はこんなに小さかっただろうか、と一瞬郷愁がよぎり、断ち切る。


(許すとでも!)

「フェンリル!」


 牙を受け止めたのはテュールの長剣。その太刀筋は右手と相違ない。元々テュールは両手どちらでも剣を振るっていた。思い出すのが彼のことばかりで、フェンリルは舌打ちした。

 仕方のないことではあった。フェンリルの過去の思い出には、家族と、命知らずの神々しかいなかった。


(裏切り者!)

「…ッ…!」


 大爪を振りおろせば、テュールは右腕の義手でそれを受け止めた。衝撃の為ばかりではないだろう苦い表情を、フェンリルは見ない。

 いっそ愚かだと、謀られる方が悪いのだと罵ってくれれば、一息に噛み砕いてころしてしまえるのに。

 それなのに、この軍神はフェンリルの知っている、信じていた、彼の姿そのままで。


「フェンリル、待て、俺は!」

(…もうお前には騙されない!!)


 フェンリルの叫びに、テュールは言葉を失った。テュールの、いつも真っ直ぐだった眼が、揺らぐ。

 言ってはいけないことを言った、とフェンリルは自覚した。それでも、止められなかった。

 テュールの裏切りは、フェンリルに怒りと恨みを教えた。そして、悲しみを教えた。

 その感情は、幽閉の間蓄積され、彼自身にすら制御できないものに。


(このうそつき!!)


 暴力的な感情の渦の中、叫んだのは、あの時叫んだのと同じ言葉。

 そうして、あの時と同じに、彼に牙を立てた。今度は、喉笛に。

 剣で、弾かれると、思っていたのだ。この最強の軍神はその右腕を失ったところで、その剣筋を緩めなかったから。

 だが。

 テュールの左手から、剣が落ちた。


(……なんで)


 防げたはずだ。フェンリルの知るテュールならば。あの怜悧な顔に似合わぬ、苛烈な斬撃でもって。

 しかし、テュールの左手は、フェンリルに手を伸ばしていた。いつだかと同じ、優しくフェンリルの頭を撫でるその手は、静かにすり抜けた。

 ぱたり。力を失った腕が、地に落ちる。


(…ねえ、どうして)


 牙を、開ける。

 いつでも背筋を真っ直ぐにしていた軍神の体は、まるで人形のように、倒れた。

 瞼の閉ざされた顔は、相変わらず怜悧。その口がいつでも、間違ったことを言わないから、フェンリルは彼のことを誰よりも信じていたのだ。


(テュール)


 鼻先で、フェンリルはテュールの髪を掬う。はらり、とその赤い髪が浮かんで落ちた。

 それは幼いフェンリルの、構って、という合図だった。

 だが、小さく笑って撫でてくれる軍神は、もういない。



「――…やはり私はいつでも一足遅い」


 悔いる声と共に、かつん、と硬質な音がフェンリルの耳に届いた。


「満足か?」


 冷ややかな眼光でフェンリルを見下ろしていたのは、オーディン。黒髪隻眼の最高神だった。フェンリルは数度だけ、彼を目にしたことがある。

 その手にある槍グングニルは彼の神具である。彼が滅多なことでは手にすることのない武器だった。


(…おれは、裏切りを、許せなかった)

「裏切りなど、この度し難い愚か者に出来るわけがあるまい」

(そんなの知らない!)

「ああ、そうだな。テュールの心中など、最早知る術はない」


 オーディンには、確信があったが、フェンリルの言葉を否定はしなかった。フェンリルももう、分かっている。

 分かっているから、失われたテュールの優しさは一層彼を責め立てる。


「だが、そうだな。一つ言えるのならば」


 それでも、オーディンにも声に出さずには抑えられない感情があった。

 それは終末のこの時、身を危険に晒すと知っていながら、この場へ足を向けた理由である。


「あの時あの場において、お前を守ろうとしていたのは、愚かな、」


 喉を引きつらせて、言葉を止めた最高神を、フェンリルは見上げた。

 苦い顔をしたオーディンの表情が、自分と良く似ていたことに、フェンリルは気付かない。


「愚かな私の弟だけだった」


 隻眼は紫。テュールと、ロキとも同じ色。オーディンも含めて最も旧知と思われた三人の関係を、フェンリルは聞いたことがなかった。

 それでも、神々の父が、弟、と呼ぶならば特別に違いなく。

 フェンリルはオーディンの怒りと悲しみを知った。


「――…今更言っても栓無きことか」


 オーディンは知っている。フェンリルが、テュールの神格、『勝利』をその身に宿していることを。常勝不敗をもたらすそれに勝てるとしたら『終末』だけであることを。

 そして、かつて軍神が剣を振るった勝利の右腕は、その主を失ってもなお、彼の愛し子を守っていることを。


「……知っていて尚挑む私が一番愚かだな」


 孤独な最高神の顔が自虐で歪められる。

 その表情はテュールにも、ロキにもよく似ていた。フェンリルのよく知る、厳しく優しい二人の。


「立て、フェンリル。…私で最後だ。ラグナロクに、終わりを」


 フェンリルは知っている。テュールが酷く嫌っていたこの男も、かの軍神と同じぐらい優しい男であるのを。そしてそれを、テュールも知っていたことを。

 一度だけ、フェンリルはオーディンに触れたことがある。かつてヴァルハラの宮殿で迷子になった時、フェンリルを保護したのが彼だった。

 ロキと同じぐらい優しい手を、知っている。テュールと同じぐらい優しい声を、知っている。 


(おれは…おれは、)

「ここまで来て、引く理由も、失うものもあるまい」


 地を蹴るその動きはテュールに似ている。だからフェンリルはそれを知っている。

 魔法は、ロキに似ている。だからフェンリルはそれを知っている。

 情だけの戦いを仕掛けたオーディンの仕草の一つ一つが、彼が情を掛けた者と似通っていた。

 そしてフェンリルを愛したその人たちに。


(おれは!)


 どうすればよかったの、と問うても、答える声はなかった。


 あれほど望んだ空は、こんな色をしていただろうか。

 遮るもののない大空は、それ自体が燃えているような、赤い赤い、テュールの髪と同じ色で。


(こんなの、やだ、いやだ!)


 フェンリルのその叫びを、聞く者はいない。


(……いやだよ、テュール)


 戦火は嘆く大狼を照らし、その影は黒い巨人の姿をとった。











――…黒い炎が夜を覆うと、ことり、と砂時計を反転させる音が響いた。




◆◇◆異界神×××××


 そうしてラグナロクの終末から、創世の闇に時は戻る。

 それが幾度目のことなのか、ロキはもう数えてはいない。


「いい加減に諦めたら?」

「…いいえ、きっと道はあるはずです」


 この異界の救世の神と顔を合わせるのは幾度目だろう、とロキは考えてやめた。それこそ数えていないし、覚えてもいない。

 ロキにとって終末と創世の狭間はもうよく知るものとなっていた。それこそ厭くほどに。だから彼にとって予言は過去であって、同時に未来であって、彼の望む世にとっての障害であった。


「君も頑固だな。異界の終末なんて、放っておけばいいものを」

「救うと、決めました。…滅びを望むなら、貴方の力を持ってして、私の干渉を断ちきればいい。『終わらせる者』ロキ」

「――…どうせいつまで経っても夢なのに、往生際が悪いのは、僕か」

「観念など、しないでください。いつか…――いつか」


 君は本当に救えない馬鹿だな、と告げられたのかどうか、ロキは覚えていない。そしてそれが何回目であるかも。




 何度繰り返しても、その側には相変わらず愚かな彼の友人の姿があった。

何度繰り返しても変わらないテュールに、そしてトールに、ロキはやはり絶望するのだ。

 彼らに何度も希望を見出してしまう自分に。


「……君たちは本当に救えない馬鹿だなあ」


 そうしてあの長い腕でどこまでも救おうとする異界の神に、届くかどうかも分からないのに皮肉げに宣言するのだ。






――ああ、嫌になるなぁ!

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手には愛の亡骸だけ 末野みのり @matsunomi_nori

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