第四話 カワリユク 5

 十分も経過していなかった、と類子は振り返り思う。

 小さなスプーンで二さじしか食べてもらえなかったお粥を、明日の自分の朝ごはんとして冷蔵庫へ入れて、また寝室へ戻ってくる。否、この動作は十分も費やしていないはず。――この間に、謙吾は息を引き取ったのか。計算をすれば、午後九時半頃に、か。

 寝室はランプがひとつだけ灯り、薄明るい。「真っ暗だと怖いから。怖くて眠れないだろうから」と謙吾から頼まれ、その通りにしておいた。

 謙吾は天井へ目と口をどちらも半分開かして、ぴくりとも動かない。この世界には目を開けながら眠る人間は存在するが、大方の人間は目を閉じて眠るもの。目を閉じていないから、眠ってはいないのかも、と類子は疑り、彼の口に手の平を翳す。息を触れることができない。

 ――苦しい。腹の中に、大きく膨らんだ風船を入れられているよう。死んだら、蘇生させようとしないでほしい。

 たぶん、側頭部あたり。そこから、先月に謙吾からいわれた言葉が、低音量で再生されてきた。聞き終わり、まず鼻根、そして胸が痛くなって、痛む涙をださせられる。鼻根と胸を痛ませ苦しめる。

 うん、と類子は承諾して、頷いてやった。だけど痛みはこれっぽっちも取れない。側頭部あたりは、なんとも意地が悪い。

「側頭部も、謙吾も意地悪だ」

 謙吾の胸にしがみつき、類子は声をあげて泣きだす。鼻で感じてくる彼のにおいは、初めて恋した頃と同じ。このにおいは、いずれ変わっていくのだろう。変わってしまう前に忘れてしまわないよう、変わっていくのも覚えておこうと、彼の胸に頭を乗せてベッドに横たわる。

 ――もしも彼が戻ってこなかったら、この類子の覚えは長くて一日くらいしか、この世界に残らないのだけれども。

 類子は目を閉じる。彼のにおいがしてくる真っ暗闇。胸に当たる耳からは、内部で動く音を捉えることがない。寂しくもなって、もっと痛い涙がでてくる。全身に、脳が疲れきっている。眠くならないことに、ちょっとだけ不思議であった。

 窓が誰かに叩かれる似た音をたてる。風の仕業だろう、と類子は考え、あの夜空に現れた不気味に輝く黄色い球体を唐突に思い浮かぶ。あの黄色い球体を見たのは、この部屋にある窓からだ。謙吾は外に出ていて、類子はひとりで家にいた。

 世間では、あの黄色い球体が接近する前からで賑わっていたようだけど、類子は賑わいも知りもしなかった。あれが接近した後で、この世界がおかしなことになったとの情報が駆け巡りだし、その情報を得た謙吾から教えられ、知った。

 ――すぐに戻ってくるから。心配いらない。だから家から一歩も外に出るな。

 家をでて、謙吾のもとへ行こうとしたが、電話越しで謙吾に怒られた。このアパートにひとがやってくるのが見える窓のあるこの場所で、外を見れば、あの球体を見えた。美しかったが、不気味なあの黄色い輝き。黄色く照らされながら、駆け足してくる彼を見つけ――と、写真のフィルムを撮影された順に透かし見ていく感じで、類子は思い起こしていった。

 なんとなくだけど、あの輝きを受けたことによって、謙吾は戻ってくる気がしてくる。この世界のどこぞの学者も、輝きを受けたことで人間がおもどりになるようになったと語っているのだ。

「気がするじゃ駄目。必ずと思わないと駄目よ」

 類子はこぼして、謙吾の服胸を掴む。「戻ってきて」と、謙吾に繰り返しに頼みだす。この間の気がつかぬ内、彼女のいる惑星が周っていき、人間が「時」と勝手につけて呼びだしたものを進ませ、空を左から右へ動かしていく。

 南、雲に覆われて輝いていた羅針盤の近くで、ひとつ流星が走る。類子の街では誰もそれを知らないで、午前二時十四分を迎えた時、謙吾の内部で何かが動きだすのを、類子は聞こえた。

 すぐ、類子は目を開け、身体を起こす。よくよく見れば、謙吾の黒目が薄っすら白くなっていて、左の頬に細かな紫色の斑紋が散らばっている。よくよくと見続ければ、乾いている唇が震えた。

 ――おもどりになったの?

 ちょっとだけ、だ。脳が戸惑い、疑問符をつける。身の危険が迫っている、との黄色い信号を類子にだしてもきた。しかし、疑問符も、信号もすぐに取り消す。

 ――望んでいたこと。よいことじゃないの。

 それに、と脳はご親切につけ足してくれる。覚悟していたはず。謙吾に襲われてもよいじゃないか。また、今まで何度もおもどりになられたひとに遭遇しても、襲われたこともないじゃないか。だから謙吾に襲われたりやしない。

 これ、ぴったりと嵌った。つかむことできない究極の静寂な境地へ、類子は導かれた。


 続

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